風景 髪を乾かす 一
暑い。しかも眠い。さっさと寝たいのに、らーめん屋がタオルやドライヤーをゴチャゴチャ持ち出している。いつものめんどくせーやつ。
「漣、おいで。髪乾かしてやる」
布団の上に胡座かいて座って、オレ様を呼んで手招きする。らーめん屋の隣がオレ様の布団。らーめん屋が座ってるとこ、邪魔だ。眠いっつーのに。
いいことを思いついた。オレ様は大股でらーめん屋のとこまで近づいて、そのままその上に伸し掛かった。
「お? どうした、今夜は甘えたい気分か」
らーめん屋はきっちり驚いて、手に持っていたドライヤーを床に下ろす。それからオレ様の背中をぽんぽんと軽く叩いた。
らーめん屋の膝の上、暑すぎるが悪くねぇ。胴体が背もたれだ。そこに顔向けて寄りかかって、座りやすいように何度か膝の上で体勢を整えて動いていると、らーめん屋もオレ様を支えるように改めて両手を広げて背中に腕を回した。
「甘えとかじゃねー。らーめん屋はオレ様のイス。勝手に動くんじゃねーぞ。そんで髪はチビが乾かしやがれ」
「だってさ、タケル」
「オマエ、いいご身分だな」
遅れて風呂から上がってきたチビが後ろでため息をついている。オレ様がここを占領してるのにも文句を言いたそうだったが、チビはノロマだからその権利はない。その代わり、らーめん屋からドライヤーを受け取っていた。
「……なんかいいことあったのか」
「あん?」
「何にもない日が特別な幸せだったり、そんな日もあるよな」
「ハァ? 意味わかんねー」
らーめん屋もチビもどーでもいいことばっかり言いやがる。だがらーめん屋のイスはデカくて体重乗せるのにはちょうどいいし、チビのちいせぇ手は髪乾かすなんてチマチマしたことやるにはぴったりだ。
チビの手が後ろ髪をかき上げて、耳元をくすぐる。少しゾワゾワする。でも気分がいい。その手は思ってるほど小さくはねぇのか、頭全体を覆うようにわしゃわしゃ動いている。その動きがだんだんゆるくなってる気がする。なんでだ。気になるけど、どーでもいいか。眠い。
イスにしてるらーめん屋はやっぱり暑苦しすぎるが、布団に入ってるのと似たようなもんだった。ちょうど顔のとこがらーめん屋の心臓の近くだからドクンドクンと心臓の音が聞こえる。
「ふあ……」
「あはは、でかいあくびが出たなあ」
「らーめん屋うるせェ」
「円城寺さんの声量、ドライヤーの音にも負けてないよな」
「なあタケル、それって褒めてるのか?」
ドライヤーのデカい音は嫌いだけど、らーめん屋の笑い声はそういうのとは違う。そういうんじゃなくてざわざわしたりモゾモゾしたりする。まあ今は、そんなに悪くはねぇけど。
二
「次、円城寺さん」
「先にタケルをやってやろうか? 濡れたままだと湯冷めするだろう」
「それは円城寺さんも同じだ。それにコイツがここに居るんじゃやりにくいだろ」
「んん、そうだな……」
自分の腕の中ですっかり寝てしまった漣の顔を覗き込む。よっぽどタケルのドライヤーのかけ方が気持ちよかったんだろう。自分の胸に頬を寄せて、穏やかな寝息を立てている。
その少しだけ開いた唇が、ときどき何かを言いたそうにむずむずと動いたりしている。
「気持ちよさそうだな」
「ああ。だから次は円城寺さんの番」
「わかった」
タケルがドライヤーを持ったまま、立ち上がって自分の後ろに回った。コードを踏まないように気を使っているのか、慎重に歩いている。夜に似つかわしい静かな足音が二歩、三歩。
すぐにタケルの手が後ろから自分の頭に触れて、次にドライヤーの風が吹き始めた。
ドライヤーの音は賑やかだが、タケルの手付きは優しい。髪をかき分けて風を送るその仕草は少しためらいがちなようにも思える。
「痛かったり、どっか変なとこ触っちまったら言ってくれ」
そうやって囁く声も低く静かだ。
「大丈夫だ」
と答えながら、少し笑ってしまった。優しく手ぐしで髪をかき分けるタケルの指が、少しばかりくすぐったい。むずがゆいような、胸いっぱいの幸せを感じる。
タケルに髪を乾かしてもらいながら眠ってしまった漣の気持ちもよくわかる。自分も胸いっぱいに満たされて、で……その上で眠る漣の重量も心地良い。
「前は髪を触ろうとするとかなり嫌がったのに、随分やわらかくなったもんだ」
「そうか? ソイツ、今でも十分ワガママだと思うが……。さっきだってドライヤー嫌がって」
「ドライヤーが嫌だったんじゃなくて、タケルにしてほしかったんだろう。仲良しだなあ」
「円城寺さん……」
「あはは」
からかってるつもりはないんだが、タケルがが気恥ずかしそうな反応をするのがかわいくて思わず声を上げて笑ってしまった。ドライヤーの熱い風が焦れたように揺れる。かと思うと、カチッと音がしてスイッチが止められてしまった。
ちょんちょん、と肩を軽く叩かれる。
「ん?」
「円城寺さん」
振り向くと、唇に人差し指を当てたタケルが。し、とほとんど吐息だけの囁きで、咎められた。
表情はさっきまでの口ぶりとは正反対だ。まだ風呂上がりの赤い顔のまま、随分楽しそうにしている。
「すまんすまん」
と小声で謝って、頭を前に戻した。
今のは確かに声が大きかった。起こしてしまっただろうかと腕の中を覗き込む。漣の話をしていたし、案外繊細なところがあるから。
覗き込んだ顔はまぶたをしっかり閉じている。反して口は薄く開いたままだが、小さい鼻が規則正しくぴくりぴくりと動いているところを見ると、呼吸はそっちでやっているらしい。つまりしっかりリラックスして寝ていると。ほっと胸を撫で下ろす……わけにもいかないか。そこは漣の枕になっている。
気がつくとタケルがドライヤーを再開していた。タケルの指に頭を撫でられ、暖かい風を髪にフワフワと当てられるのはやはり心地良い。軽く髪をセットするように手ぐしをかけていくその動きは、そういえばこの間タケルはメイクさんに熱心にアドバイスをもらっていたっけ。今までほとんど考えたこともなかったから、と言っていた。だから教わったことを思い出すような動きが、ためらいがちに思えたのかもしれない。
漣がこんなに気持ちよく寝てしまったのも、その成果もあるのだろうか? なんとなく自分のことのように嬉しく感じる。タケルが新しく学んだことを同じ時間で共有できている。日々のちょっとしたことであっても。
タケルはメイクさんがやっていたように、最後の仕上げにドライヤーを冷風に切り替えた。もうそろそろおしまいだ。
名残惜しいような気分で視線を漣の顔に落とすと、漣と目が合った。
あれ? 起きたのか?
と、口を開きそうになって、なんとか飲み込んだ。何しろ一瞬は目が合ったかと錯覚したが、どうもまだ半分寝ているような顔をしている。まるで自分自身が起きていることにも気付いてないかのようで、ドライヤーの風で煽られる自分の頭とその向こうのタケルをじっと見ている。目線がゆらゆら揺らいでいるのは、自分の髪を梳かすタケルの手が動くのを目で追っているからだろう。
その様子がかわいくて、また笑いそうになってしまったが、それも我慢。気付いていないフリをする。
タケルもきっと気付いていないだろうから、あと少しの間は黙っておこう。
三
「よーし、次はタケルの番だ。ほら漣、降りてくれ」
「ん」
円城寺さんの声に、寝ぼけた声が返事した。円城寺さんがソイツの身体をゆるく揺さぶっている。
「ソイツ、いつの間に起きたんだ」
「……アァン? オレ様は寝てなんかねー」
聞こえてくるのは気の抜けた寝言だ。間延びした喋り方。アホっぽい。……コイツなりに甘えた声、と聞こえなくもない。
コイツ、どう考えても今起きたばっかって様子なのに何を強がってんだ。円城寺さんの膝の上から布団へ転がすように移動させられて、文句の一つも言わなかったのも寝ぼけてるせいだろう。
「そうだよな。漣はタケルが自分にドライヤーしてくれてる間もずっと起きてたぞ。熱心にタケルのこと見つめて、な」
「は? ……ンなことしてねェ! オレ様は寝てた!」
「オマエ、どっちだよ」
円城寺さんに誂われて布団の上をゴロゴロ転がって駄々をこねてる。騒いでたら目が覚めてきたのか、さっきまでの寝ぼけた声じゃなくなってきた。
にしても円城寺さんの冗談、コイツは結構真に受けるよな。円城寺さんの腕の中に居たコイツから俺が見えてたとは思えねぇ。こっちから見えなかったし。見えて俺の手ぐらいだ。ホントはコイツ、円城寺さんを見てたんだろ? だから恥ずかしがって転がってんのか。
「タケル、ほらこっちおいで」
円城寺さんが俺の手からドライヤーを受け取って、こっちを見ながらさっきまでコイツが座ってた膝をぽんぽんと叩いた。膝だけじゃなく、コイツがひとしきり騒いで転がったおかげで、円城寺さんの前にも俺が座るだけのスペースは空いている。
どっち座るかって、そりゃ円城寺さんが膝叩いてんだから膝に座ればいいんだろうけど……。
「俺、だいたい髪乾いてるし今日はいい」
「タケル、駄目だって。髪はちゃんと乾かしてから寝ないと痛むってメイクさんにも言われただろ?」
「それは、そうだけど」
アイドルの仕事始めてから、今まで来にしてなかったことも色々考えなきゃなんねぇ。ドライヤーのこともそうだ。髪が痛むとかなんとか、半信半疑……ってほどじゃないけど、理屈はわかってもあんまりしっくりこない。円城寺さんの髪なら、あと一応はコイツの髪も、傷まないようにちゃんとしようって気にはなるんだけど。
「タケル」
円城寺さんがゆっくり念を押すようにもう一度俺を呼ぶ。
……結局、恥ずかしいのが一番の理由か。コイツみてーに恥ずかしげもなく甘えられたら、とは思うけど。そういう意味じゃ羨ましい。
まあコイツは甘えてるなんて言ったら否定するだろうな。自覚もなさそうだ。そんなことを考えながら転がってるヤツの上を跨いで円城寺さんの前に向かった。その……やっぱ髪乾かしてもらうだけで膝に座るっつーのは恥ずかしくて、円城寺さんの前に座るつもりだった。こんなんで恥ずかしがるのも今更だけど――と考えてたら、下から急に腕が伸びてきた。
布団に引き倒される。ちょっとは抵抗した。けどここ円城寺さんのアパートだし、もう夜だってのに派手に騒いだら近所迷惑になる。そんぐらいは判断できる、俺は。
だから、コイツと軽くもみ合いになってコイツの上に倒されて、背中に腕回してがっちり拘束されて、あっという間に身動きできねぇようにされたのは、別にコイツに腕力で負けたせいじゃない。こんな夜中に暴れるヤツに付き合ってやるつもりが起きなかっただけだ。
「何するんだ!」
とはいえコイツのやることなすこと意味がわからない。
「チビが逃げねーように捕まえといてやる」
俺の下で何か言ってる。つか顔近い。落ち着かなくて首傾けてコイツの首元に顔をずらす。さっき乾かしてやった銀髪が白いシーツの上に広がっている。いい匂いがする……。俺の髪も同じ匂いのはずだけど。円城寺さんも同じ。円城寺さんが選んだシャンプーだから。
「いいぞ、漣。そのままタケルが逃げなように捕まえといてくれ」
「円城寺さんまで……逃げねぇって。ドライヤーから逃げるのなんかコイツぐらいだ」
「あっはははは」
「くははは!」
円城寺さんが声上げて笑ってる。ついでにコイツも耳元で大声出すからうるせーし、上に乗っかってる俺はぐらぐら揺さぶられる。ちょっと面白い。パジャマ越しに体温や脈拍を感じるのは変な気分。でも円城寺さんが楽しそうだから、コイツのこともまあ、別にいいか。
俺とコイツのそばに円城寺さんが座り直して、ドライヤーのスイッチを入れた。ドライヤーの音が鳴り始めても、まだ円城寺さんが含み笑いしてんのが聞こえる。声がデカいって意味じゃなくて……。
それから円城寺さんの手が上から頭の後ろに優しく触った。されんのわかってても、やっぱその瞬間はドキドキした。
四
「そのまま寝るのか?」
「チビがここで寝ちまったんだからしょーがねェ。チビはチビだから軽いし! くはは」
「じゃ、自分はこっちで寝るか」
「おいらーめん屋、寝る前の……」
「ん。ほら」
「んん……ニヤニヤすんな」
「漣が許してくれたのが嬉しいんだ。ありがとうな」
「ふん。まー、オレ様はカンヨーだからな。らーめん屋がどーしてもやりてぇって顔してたからさせてやっただけ……ニヤニヤすんなっつってんだろ」
「お前さんたちを見てるとどうしてもこの顔になるんだよ。もう顔に型が付いたかもしれない」
「それじゃ仕事で困んだろ……演技とか、できねぇ。別にらーめん屋に仕事なくなっても、オレ様の知ったことじゃねーけど。ただらーめん屋がそんなんだとオレ様にも迷惑がかかるし」
「あはは。冗談だよ。……寝ないのか?」
「あん?」
「なにか他にして欲しいことは?」
「……チビにはしねーのかよ」
「さっきの? そうだな……うん」
「……まぶた? オレ様にしたトコと違うじゃねーか」
「流石に寝てる相手にやることじゃないからな」
「起こしたくねぇの?」
「それもある。こんなに気持ちよさそうに寝てるんだ。じゃなくても相手の同意がない状態でやってはいけない」
「ふーん……。チビがドーイしないワケねーと思うけど……。おい、らーめん屋。オレ様にも」
「もう一回、タケルと同じとこ?」
「いちいち言わなくてもわかんだろ」
「はいはい。おやすみ、漣、タケル」