よろこびは光のいろをした クリスマスは子どもの願いが叶う日。世間のイメージではそういうことになっていて、当の子ども自身もそう信じている。だけどクリスマスに夢見るような歳の頃でも、俺にとってその日は何も良いことがなかった。
開けても開けてもきりのない、大層な包装のプレゼントの山。レストランかと思うばかりの豪華な食卓。それを多分世の中の奴らは羨ましがるんだろうけど、俺にとってそれは一番欲しいものじゃなかった。
普段は会えないおふくろは、特別な節目には帰ると言った。ただし、言っただけだった。
いつもクリスマスの食卓では、おふくろのための席は空っぽで、帰れない謝罪の手紙と罪滅ぼし代わりの贈り物だけが渡された。
今になっても思う。あの頃欲しかったものは、一度だって手に入らなかった。子どもだった俺にとって、本当のクリスマスプレゼントなんて何処にもなかった。
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「お疲れ様っしたー」
ケーキ屋の明るいバックヤードから、薄明かりしかない路地に歩き出す。少し進んでから、荷物を持っていない方の手で長方形の端末を取り出した。電信柱の隣に立ち止まって、メッセージアプリを開く。選んだ宛先の相手との会話は、昨日の午後、ファッションデザイナーの事務所でのパーティーが始まる直前で終わっていた。そこに、新しいメッセージを一つ送る。
『バイト終わったから今から行く』
自分の書いた言葉が画面に表示されたかと思うと、すぐに返事があった。
『貴方がいないと台所が片付かないので、早く来てくださいね』
相変わらず素直じゃない返しだ。それがあいつらしくて口元が綻ぶ。すぐ行く、の四文字だけ送って、俺は足を早めた。
真夜中近い時間だと、インターホンの音がやけに大きく響いた。静寂を壊す気まずさに、早く玄関が開かないかと、いつも以上にやきもきしてしまう。
やがて床板の軋みが近づいて来て、扉が内側から押し開けられた。
「お疲れ様、お帰りなさい」
正式には俺の家じゃない。それでも、出迎えてくれた奴は、ここに帰るべき人間として俺を認識してくれていた。
「遅い時間に悪ぃな」
「閉店まで働けばこんなものでしょう。売れました?」
「結構」
話しながら玄関をくぐり、鍵を締めて、靴を脱ぐ。洗面所を経由してから居間に行くと、卓袱台の上にはもうコップや箸が用意されていた。
幻太郎のことだから、年末進行だとかで散らかっているかと思ったのに、部屋も机もきちんと片付いている。もしかしたら本人の私室は俺の想像通りなのかもしれないけれど。
座布団を借りようと、勝手知ったる部屋の隅から引っ張り出してくる。その間に幻太郎が居間にやってきた。両手を塞いでいる盆には、いくつかの皿が乗っている。
「待っている間、温め直しておきました。あと味噌汁と米があるので」
「あ、じゃあそれ並べとくわ」
俺は幻太郎から盆を受け取る。自分で残りのメニューを用意しに行くこともできるが、茶碗なんかは俺が探すより幻太郎が自分でやった方が早そうだ。
「ではお言葉に甘えて」
木製の盆を受け取るとそれなりの重量が手にかかる。引っくり返さないよう慎重に卓袱台へ置いた。視界の端に、台所へ消えていく幻太郎の背中が見えた。
数分の内に必要な食器も料理も揃って、すっかり夕飯の支度は整った。
「普通の食事ですみませんね」
幻太郎がそう前置きするのは、今日がクリスマスだからだろう。盛大な祝い事のイベントにしては、確かにテーブルの上の料理は日常的な色合いが濃い。
米と味噌汁、煮物と野菜。この家の食卓でよく見た品々が並び、一番大きな皿に盛られた唐揚げと、添えられたポテトサラダが、ささやかな豪勢さを足している。いつもの料理に少しだけ手をかけた。そんな、手作りのご馳走と言った具合だ。
「……立派なものは、昨日乱数のところで食べたかと思うので。あまり食べ過ぎては胃も疲れますしね」
昨日俺たちは乱数の事務所で開かれたパーティーに行った。そこで俺達はいかにもなクリスマスのメニューを、これでもかというほど食べてきた。だから敢えて今日は豪華な肉料理だとかパーティーに映えるフライドポテトだとかを避けたのだと言う。
この家の夕飯なんだから、俺だけじゃなくて幻太郎自身も食うものだ。多分本人としては、昨日随分と重たい料理を食べたから、今日はあっさりしていて構わないと思ったんだろう。それでも食卓に乗っている揚げ物とポテトサラダは、俺が好きだから足してくれた。何となくそんな気がした。
「美味そう。もう食っていい?」
「どうぞ」
自分は食わないというのに、幻太郎は俺の向かいに座っている。普段、ここで二人で飯を食う時と同じように。
時間も遅いのだから寝ていてもいいのに、敢えてそうしないのだと思う。多分、一人きりの食卓の寂しさを思いやってくれたんだろう。はっきりと言葉にしなくても、幻太郎のすることには時々、そんなささやかな優しさが滲んでいた。
「いただきます」
手を合わせると同時に腹が鳴った。あまりに丁度良すぎるタイミングに、向かいの席でくすくすと笑いが起こる。
「素直なお腹ですねえ」
「昼は食ってったけど、休憩ん時は飯食ってねえからなー」
俺は一昨日から今日まで三日間、駅の近くのケーキ屋にバイトとして雇われた。十二月の二十三から二十五まで、クリスマスケーキを売る仕事だ。年末直前の恒例バイトともいえる単発の仕事を、知り合いのおっちゃんに紹介してもらってやることになったのだった。ケーキ屋の店主とおっちゃんの関係はよくわからないが、まあ知り合いではあるらしく、繁忙期の人手不足に困っている店主に、金に困っていた俺を紹介してくれた。個人経営らしく日払いで金もくれるというから、見事なくらい俺たちの利害は一致した。
忙しく働いた後の胃はもう空っぽで、おまけに幻太郎の家の飯はうまいから箸が止まらない。こんな時間なのによく食べますね、と、料理をしてくれた人は少し嬉しそうに、向かいで微笑んでいた。
「だって美味えからな。人んちで飯奢ってもらうの、幻太郎んとこくらいでしかねえし」
「そんな大したものは作れませんがね」
「いーんだよ、そういうところが逆にいいんだって」
「家庭料理がお好きで?」
「……そういうんじゃねえけど。でも、お前とここで食う飯は、何かほっとする」
そもそも、世間の言う家庭料理は俺にはよくわからない。俺の『家庭』に、世間が思っているような『家』らしさ――つまりは素朴で、温かくて、食卓に座る相手との繋がりを感じられるようなものはなかった。そういうものを、俺は幻太郎の家に招かれて初めて知ったと思う。
「だから今日、呼んでくれて嬉しかった」
昨日はバイトの後に、乱数の事務所で開かれていたパーティーに顔を出して、幻太郎と乱数とで遅めの夕飯を食った。ついでになし崩し的に三人で事務所で寝た――遅い時間になったから、もうお泊り会をしようと乱数がごねたのだ――から、実質解散は今朝だった。
その帰り際、幻太郎が聞いた。今夜は何処に泊まるのかと。その時の俺は特に宿を決めてなどいなくて、バイトの前に適当に探そうかと考えていた。そう答えた俺に、質問したそいつは、自分の家に来てもいいと言ってくれた。仕事が終わるのは遅い時間だ。昨日はパーティーがあったけど、今日は飯の当てはない。一昨日は適当にコンビニの弁当で済ませた。そんなだったから、食事も出すと言ってくれる幻太郎の提案は魅力的でしかなかった。
(それに、誰かと過ごすクリスマスっての、昔はなかったし)
帰るところがあって、一緒に楽しく笑えるような誰かが待っている。会いたい人がいて、迎えてくれる。それは子どもだった俺がクリスマスの度に欲しがって、結局一度も手に入らなかったもの。
過去の願いを叶えてくれたその人は、俺が口にした感謝に、こそばゆそうな照れ笑いを見せた。
「おやおや、貴方にそういう風に褒めていただけるとは」
「幻太郎さ、いいもんは昨日食ったから今日は普通にしたって言ったけど、俺、クリスマスでもこういうの好きだわ」
勿論、昨日の飯だって美味かった。大事な奴らと一緒に、テーブルいっぱいに飯を広げて、夜の中ではしゃぐのも、祝い事の日らしくて楽しい。
同時にこうやって、大好きな奴と一緒にささやかな食卓を囲んで祝うのも、やってみたかったことだった。
「こうやってさあ、家でゆっくりするクリスマスってのもいいもんだな」
零した本音に、翠の瞳が一瞬丸くなり、それからやわらかく細まった。
「ええ。静かな聖夜も良いものです」
シブヤはとにかくイベントごとの度に賑わう。そんな街に暮らしているからこそ、静けさと穏やかさが余計に染みる。
「……貴方、お腹の具合は? もう一品くらい食べられたりします?」
もう殆ど空になった皿を見て、幻太郎が聞いてくる。個人的にはまだあと何品か出て来たって簡単に腹に入る気がした。
「余裕だけど」
「じゃあ、食後に一緒にケーキ食べましょうか。貴方が持ってきてくれたのを」
ケーキ屋のバイトを終える時、謝礼にと一つ、小さなホールケーキを貰った。お礼に持たせてやると店主は最初から言ってくれていて、その約束通りにしてくれたのだ。
どんな土産がいい、と初日に聞かれた時、誰かと分けられるものが欲しいと言った。自分で食べるだけなら、最初から一人分のものでも良かった。でもあの時から決めていた。幻太郎と、この冬の祝い事の時間を分け合いたいと。その席に、分けて食べられるものがあれば丁度いいだろうと。
「貴方が持ってきてくれると思って、買わないで待っていたんです」
「マジで? 俺、そんな期待されてたの?」
「バイトが決まった時楽しそうに教えてくれたでしょう。働いたら金もケーキも貰える約束なんだって」
どんなケーキとも言っていないし、ましてやその時は、それを持っていくなんて約束もしていない。それでも幻太郎は、きっと俺が自分と過ごすことを選んでくれると思っていた。その確信の強さに、幻太郎にしては珍しい自信を垣間見て、何だか不思議といとしかった。
選ばれるほどに、自分は思われている。きっと、一緒にいたいと願ってくれる。そう信じてくれた。俺たちの関係性への信頼の強さは、同時に俺たちの心が同じ方向を向いていると示している。
語らずとも重なる想像が嬉しくて、胸の辺りにあわい温かさが宿った。
「ちゃんと貰って来たよ、お前が好きそうな奴。だから一緒に食おうぜ」
「ありがたいですねえ、どんなケーキか楽しみです」
「あの店のケーキ、美味いらしいから期待していいと思う」
「それはますます気になりますね」
子どもの時に欲しかったのは、きっとこういうものだ。豪華なプレゼントでも、贅沢な食事でもない。ささやかで温かい、大好きな誰かと寄り添って笑い合う穏やかな夜。
あの時の願いは叶わなかった。でも今、形は少し違えども、寂しさで欠けた心を埋めるなごやかな時間が与えられた。
「素敵な贈り物をくれる良い子の有栖川くんには、サンタクロースが来るかもしれませんねえ」
「それ昨日の夜じゃねえの?」
「昨日は貴方は乱数の事務所にいたので来れなかったんじゃないですか。だから遅刻して今日来るかもしれません」
何だかケーキの返礼品、もとい幻太郎からのプレゼントがありそうな気配を強く匂わせられるが、何だって素直に言えない奴だから、決して答えは引き出せない。妙に浮かれた調子は幻太郎らしくなくて、それが何だかかわいらしく思える。昨日は三人で仲間内の祝い事を楽しんだから、今日は二人だけでのささやかな祝いの夜を満喫したいのだろうか。
それもまた、俺がいつか夢見たこと。会いたい人と緩やかに過ごす特別な日。夜はもう深いけど、まだもう少しだけ冬の祝宴を続けたい。
軽やかに歓談は続く。やがて皿は全て空になって、全部が台所へ下げられる。空いたテーブルに運ばれて来るのは、俺が持って帰ってきた四角い箱。
中身を知る俺と、中身に期待する幻太郎とで、ゆっくりと箱を開ける。期待と歓喜と微笑みしかない時間が、やわらかく俺たちを包んでいた。