奈落のハッピーエンド 〇二一四、と呟いて目を細める。
恋人達の祝祭日。製菓会社と花の下に隠された、血の流れた過去の歴史を覚えている人間は今どれだけ居るのだろう。今では知らない人の方が多いんじゃなかろうか。
聖ヴァレンタイン。恋人たちの守護聖人。
けれど、目一杯のお洒落をした上で、それにあやかろうとする自分自身も中々の愚か者なんじゃなかろうか、とここらで一番の仕上がりになった化粧を手鏡でもう一度確かめながら、ベンチに座って約束の時間を待つ。
神なんて信じちゃいない。でも、この時だけはあやかったっていいかな、という気分になった。
死後の幸福も、来世も現実としてありはしないんだろう。でも、それがあると信じたかった。死をもって愛を誓うのだから、きっとそうなる、と。
こちらへ人混みの中を近付いてくる人影を見付けた時の笑みは、きっと穏やかなものだったのだろう。
――ああ、綺麗だなぁ。
「早乙女さん」
笑顔で手を振る。軽く振り返される手。
ハッピーバレンタイン、という言葉と一緒に、渡されたのは少しお高めなチョコレート。それだけで、胸の奥が暖かく滲む。貰ったことに対する嬉しさと、少しだけある物悲しさ。今日のことを提案したのは、他でもない自分なのに。
お礼と合わせて、ハッピーバレンタインという言葉を言いながら、取り出したのはマロングラッセ。最初はチョコレートにしよう、と思っていたけれど、そういえば早乙女さんってチョコ嫌いというかあんまり好きじゃなかったよな、と直前で思い返した結果だった。
――意味は、永遠の愛を誓う証。
「折角だから、今食べてかない?」
丁度いいことに、座っていた隣の場所は空いている。だったら今食べていきたい。少しでも長く、その味を覚えていたいから。
返ってきた言葉と、すぐ隣にいる人が誰なのかということに幸福感を覚えながら、チョコレートを一つ口に含む。口の中でゆっくりと、惜しむように溶かすチョコレートはまろやかに甘く、それでいて微かに苦く――丁度、今の心情を表しているようだった。
日常の、何気ない雑談を挟みながら、それぞれの贈り物を口にする。――例えば、来るはずのない明日の話だとか。
全てを食べ終わってから、ウエットティッシュを渡す。それで手を拭いて、残ったものをごみ袋へと仕舞ってから「行こっか」と声をかけた。
それじゃあ、人生で最後のデートをしよう。
今日という日を、人生で一番幸福な日だったと思えるように。
色々な所へ行く。近場でデートと聞いて思い浮かべられるような、大体のこと。ウィンドウショッピングをしたり、少しだけ高級な美味しいものを食べたり。色々なことをした。残されている時間で楽しめるようなことは、大体。誕生日も祝った。ちょっとしたお洒落なカフェで、ケーキを頼んだりだとか。
――それで、最後は海に着いた。
冬の海。母なる金字塔との戦いで、人と、ニジゲンが多く死んだり没化したあの場所。水の中はとても冷たいだろうな、と思う風が吹いてきた。でも、もう戻らない。そう決めた。
コートを脱いで、遺書を下敷きにしてから鞄を上に置いて。靴は、その隣に。小瓶の中身を半分程呷ってから、飲むかを聞いた。最後をより確実にする為に。中身は普通に毒だ。 ヒトの致死量は、たったの一、二ミリグラム。小瓶に入っていたのは、それよりも遥かに濃い溶液。
瓶の中身に対する返答を聞いた後、互いの小指を赤い糸で結び合う。約束、とでも言うように。
チョコレートを食べ終わったのと同じ表情で、声音で。私は、デートの始まりと同じ台詞を言った。
それが、終わりの合図。足の裏に柔らかくて冷たい砂を感じながら、海へと向かって砂浜を歩く。少しだけ、末端が痺れてきたような気がする。――とうとう、足が海水に触れた。痺れるほどに冷たい中を、手を握り合いながらそのまま進んでいく。そして、あるところまで来て、一気に水の中へと沈んだ。
昔、ある法医学教授が言ったそうだ。
法医学の世界に心中なんてものはない、と。
あるのは一つの他殺死体と、一つの自殺死体。
この場合は、どちらがどちらなのだろう。叶うなら、自分の方が自殺死体であってほしい。恋という感情に殺されるのが自分で、恋を殺すのが自分でありたい。そんなエゴを、溢れていくあぶくと一緒に吐き出した。
――ああ、桜の色だ。
ゆらゆらと海水に滲む視界を、恋しい人の目の色が染めている。右の耳には二人で分けたピアスが飾られているのが波に揺らぐ輝きと一緒に見えた。
それだけで、何もかもが赦されたような気がした。
苦しいこともあった。悲しいこともあった。憎しみも、恨みも、妬みも。悔いだってないわけじゃない。真っ当に、綺麗な人生を送ってきたとは、とても言えないけれど――それでもなんて、自分は幸せなのだろう。
赤い糸で繋いだ手を更に握って、少しだけ笑う。もう片方の手で体を抱き寄せて、海水の冷たい温度と混じる、まだ血の通った温かさを服の向こうに感じ取る。今から自分は、この息を止めるのだ。この温度を失わせるのだ。その罪たるや、と嗤い、それでもと噎ぶ程の感情がここにある。
最後の言葉だというのに、こんなありふれたものしか出てこないけれど、それはきっと皆が思うからこそありふれたものになるのだろう。
だって、この呪わしいと感じる程の切望を伝えずにはいられない。
こんなにも胸の内に咲いて広がる、重くも愛おしいものを。どうして人生の一番大切な瞬間に伝えずにいられるのだろう。
「愛してる。愛してるよ、恋」
その言葉は海の泡に溶けて消えてしまっただろうか。
きちんとその耳に届いただろうか。
息の絶えたその後も尚、永久に響くように。
――最後に少しだけ、幸せな夢を見た気がした。
ひらひらと花弁が舞う春の麗らかな日差しの中、そこに居た誰もが笑って――自分も、笑って。
そんな、いとおしい光景を。