何もかも夢の中 夢を夢と気付かないまま、ふわふわと、どこか足のつかないような感覚に疑いすら持たず、自分は机に向かい合ったまま何事かを唸っている。
机の上には、大量の資料が積まれていた。どうしよう、どうしようと内心で焦っている――何に対して焦っているのかも分からないうち、へらりとした軽い声音と一緒に目の前に置かれたカップ自販機の温かい飲料。
――漂う湯気からは、甘いココアの香りがする。
「お疲れ様ァ~。だいじょぶ?」
視界の端に過ぎるグレーのスーツに、■■■さんと思わず呼びかけた。先輩、という呼び方なんていいよと言われたから。■■■先輩ってなんかむず痒いんだよねえ、という■■■の言葉に悩んだ末ではあるけれど。
どこか焦点の合わない、白く滲むような光景も、違和感なく自己の周りを取り囲んでいる。
「……はい……まあ……なんとか……」
きゅう、と手元にあった資料を抱え込むような体勢で唸っていると、女性は柔らかい声音でこう言った。
「突然だけどね。“普通”ってさ、凄く特別な事だと思うんだ。……なんて言えばいいんだろうね、こういう時。……うーん、参ったな。言葉が浮かばないや。あの子なら上手い言い方も浮かぶんだろうけどね」
そんな突拍子のない言葉と同時に、彼女がかん、と机の隅に肘をつけば、ふわふわと柔らかそうな紺色の髪が揺れる。
「とりあえず、大事にしなね。自分も、その作品も。
何があっても、誰に言われても。それだけは、キミ自身のもので、キミ自身にしかできないことなんだからさ」
――抱えているのは何時の間にか資料ではなく、自分の落書き達になっていた。他にも「作品」として息づく前の種が、資料だと思っていた紙の中に眠っている。気付いた途端、抱えていた資料達を思わず抱きしめてしまうような姿勢で固まると、彼女は明るい声で笑った。
「あとね。本、面白かったよ」
一瞬で極彩に花開く世界が、潮騒の音を立てて揺れている。それは、自分に巡る血の音か。それとも。
言いたかったことはそれだけだ、というように、彼女は緩やかに目を細めてからこう言った。
「――頑張れ、若人」
こんなバカみたいな世界に負けるな、と応援するように笑っているその人の目が、優しく光る薄荷色をしていると気付く前に――柘榴木蛍瑠は目を覚ました。
「……?」
覚えていないのだけど、何だかとても不思議な夢を見た気がする。――寝起きの所為なのか、それとも別の何かのせいか。一筋だけ涙が頬を伝っていく。理由も分からないまま、雫が頬を流れるままに任せていた。
見覚えのあるような、誰かが夢に出てきた気がする。随分と無邪気な表情で、そっと手に持った冊子をひらりと揺らして持っている姿が似合うような――会ったことがあるような、パンツスーツがしっくりくる知らない人。蛍瑠の動きに合わせてシーツが擦れる音は、何故か波の音のように聞こえた。
ネモフィラはじっと窓の向こうを見たまま、何も語らない。アノニマスも、今日はなんだかやけに静かだった。
起きる支度のためにベッドから足を下ろした時、急に温かいココアが飲みたくなった。――気の所為かもしれないけれど、一瞬だけ、そんな香りがしたように感じたから。
カレンダーは二月二十八日。
――そういえばもうすぐ桜の季節だと、唐突に頭に浮かんだ。
今年の桜は、どんな風に咲くのだろうか。