ふとした瞬間、なんの気もなしに魔が差すことは誰にだってあるだろう。立香は特にこれといって思い悩んでいたわけではない。干してある彼のシャツを手に取った時、ふと数日前の情事の朝を思い出して、もう一度そのシャツに袖を通したくなった。
「ぶかぶかだ……」
身長が185センチもある彼のシャツは、当然ながら身に合わない。だけど、その大き目の服を着たことで彼の匂いに包まれ、彼に抱かれているような錯覚すら覚えてしまう。早く脱いで、アイロンをかけなければと思うのに、もうちょっと着ていたいという気持ちが抑えられない。それだけに留まらず、もっと彼の匂いに包まれたい。この場にいない恋人の存在を感じたい、と思ってしまって、己の身体はふらふらと寝室へと向かっていく。ベッドを前にして、下に履いていた己のズボンは取っ払った。どうせなら全て彼に包まれるような状態が良かった。
「落ち着くなぁ」
亀の様に布団に包まる。全身すっぽり、彼に包まれているようで凄く凄く、落ち着くのだ。
「(もうちょっと、もうちょっとだけ……)」
暖かくて、心地よくて、気持ちよくて。徐々にまどろむこの感覚に身をゆだねてしまう。
「(ちょっとだけ、寝てもいいよね……)」
そういう時は大概、ちょっとでは済まないのだけど。立香は意識をゆっくりと手放した。
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「ただいま。……立香?」
ダンテスが帰宅したとき、最初に感じたのは違和感だった。普段であれば扉を開けると同時に夕食のいい匂いが漂ってくるし、音に気づいた立香がおかえり、と言ってくれる。しかしながらどちらも今日は無く、家がやけに静まり返っているのが気になる。もしや寝落ちてしまったのかとリビングのソファも見るも、そこにもいない。
とりあえず寝室へと向かい、扉を開けると自身の顔が緩むのを感じた。愛しい恋人が、酷く穏やかな顔で眠っていたのだ。起こさぬよう、繊細なガラス細工を扱うかの様な手つきでふわふわとした頭を撫でる。疲れた身体に沁みるような心地がした。
暫く立香の寝顔を堪能していたが、後ろ髪を引かれる思いで一旦寝室を離れる。夕食を注文する為だ。無論自分が作ってもなんら問題なく、なんなら作りたいとすら思っている。しかし、作っている最中に起きてしまう可能性は否めず、何よりも立香へ罪悪感を感じさせたくない。優しい恋人は、仕事で疲れているのに働かせてしまった上、己は惰眠を貪ってしまったと気にしてしまう。それに、より長くこの顔を見続けていたかった。