記憶 今日は久々に大悟とオフが重なった日だった。一緒に買い物に行きたい、と言っていたことを思い出し、久しぶりに外でのデートをした。2人でショッピングモールの中を散策し、昼ごはんを食べてまた散策して、気がつけば夕方。
そろそろ帰るか、と駐車場の方へ向かおうとしたその時、何故か前を歩いていたある男が目に付いた。
直ぐに視線を外せば良かったものを、何故か吸い寄せられるかのようにオレはその男から目を逸らすことが出来なかった。
「流司くん?」
恋人である大悟の呼び掛けにも反応出来ないほど、オレの体は硬直したまま動こうとしない。
あれは間違いなく、あの人だ。何度も、何度も忘れようとしたのに、忘れられなかった。忘れさせてくれなかったあの人。
昔のオレに無理矢理、番の印を付けた、怖かったあの人。
俳優を引退したとは聞いていたが、こんな所で見かけるなんて思わなかった。
「流司くん?どうかしました?」
「いや、なんでもない。」
大悟に余計な心配はかけたくない。一応昔のことは話しているとはいえ、ずっと躊躇っていたような話だ。過ぎ去った話を掘り返して怯えているほど、この世界は遅く動いていない。
とにかく今はあの人から距離を取らなければ。
そう分かっているはずなのに体が鉛のように重く足が動こうとしない。背中を冷たい汗が伝った。
「流司くん、大丈夫ですか。とりあえず、ここ人目に付くので車まで行けますか。」
「……うん。」
オレの異変に気がついたのか、大悟は手を引き、そのまま車の方へ連れて行ってくれる。歩けば歩くほど呼吸は乱れ、酸素が上手く取り込めなくなっていく。
大悟に支えられ、なんとか車に乗り込んだものの、後部座席の背もたれに寄りかかるのが精一杯だった。正常な呼吸の仕方が分からない。
「けほっ、は、ぁ"、っ、だい、ご。」
「はい、ここにいます。ゆっくり呼吸してください。」
上手く酸素を取り込めず、回らぬ頭のまま、反射的に恋人の名前を呼ぶ。握られた手が温かかった。
ここにいるのはあの頃オレに触れてきた冷たいあの人じゃない。あの人が触れてくることはもう無いはずなのに、何年も前のことだというのにまだあの人の手の冷たさを体が覚えている。
「や、だ、思い出したくねぇのに、なんで、クソ……っ!」
あの人の声も、顔も、目も、何もかも忘れようとしたのに未だに忘れることが出来ない。あの人に触れられた感覚が首に、肩に、腰に、蘇ってくる。
蘇り続ける感覚を消そうと掻き毟ろうとして首輪に阻まれた。もたついた手ではファスナーを開けることも出来ず、金属を引っ掻く。
「流司くん、駄目です。指、血だらけになっちゃいますよ。」
大悟は引っ掻き続けていた左手を握ると、抱き寄せ、包み込んできた。咄嗟に抵抗するが、体格差のせいかなかなか腕から抜けられない。解放された右手で腕を掴むが大悟は離そうとしない。
「離せ、大悟!」
「嫌です!離しません!」
舞台で激昂する姿を見ることはあれど、自分に向かって怒りの感情を剥き出しにする彼を見たのは初めてだった。
先程まで必死に彼の腕を掴んでいた右手から力が抜ける。
よく見ると大悟は泣きそうな顔をしていた。
「……分かった、もうやんねぇから離してくれ。苦しい。」
そう言いながら大悟の頬に優しく触れると「あっすみません!」と慌てながらも離してくれた。
どうやら随分と強い力で彼の腕を掴んでいたらしい。ほんの少しだが、跡になってしまっていた。
「ごめん、かっこ悪りぃとこ見せたな。助かった。」
昔のことを話したとはいえここまで取り乱した姿を見られたのは初めてだ。叶うならば一生隠していたかった。
「いえ。隣にいたのが俺でよかったです。」
大悟は「帰りは俺が運転しますね。」と言うと運転席に乗り込み、車を発進させた。
彼は「お昼のイタリアン美味しかったですね。」「今日買ったお揃いの服、稽古場に着ていきません?」と他愛もない話題で話しかけてくる。「あそこディナーのメニューも美味そうだったから今度いくか。」「また茶化されそうだな。」と返答する。
「何も、聞かねぇの。」
探り探りのような会話がどうにももどかしくて、そう聞いてしまった。彼なりの気遣いなのは分かっていたが、歯止めが効かなかった。
「前に話してくれたじゃないですか。本当は思い出したくもない記憶だって。だから、俺からは何も聞かないです。」
どんな表情をしているのか後部座席からは分からないが、真剣なことは確かだろう。
昔の話をした時、そう言った気がする。
出来るならこんな記憶が植え付けられる前に戻れたらいいのに。曖昧にしか記憶が無いが、そんな些細な言葉だ。まさか覚えているとは思わなかった。
「俺はどんな流司くんも大好きです。だから話したくなったら話して下さい。絶対、失望したりしないので。」
「……そっか。」
大悟のその言葉に影など一瞬たりとも感じなかった。真っ直ぐで優しい彼らしい。
「オレも大好きだよ。大悟の全部。」
真っ直ぐな言葉には真っ直ぐな言葉で。
顔を上げると大悟は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。「なんつー顔してんだよ。」と小突くと、「あんまり流司くんからそういう言葉聞くことないので……。」と頬を紅くする。そんなことを言われると自分まで恥ずかしくなってきた。
「大悟、明日ってオフ?」
「いや、稽古ですけど午後からです。」
自分も明日は午後からだ。明け方まで起きていたとしてもなんら問題はない。
早めに夕飯を済ませたらすぐに準備をしよう。下手に時間を取らせたくは無いのだ。
「じゃあ、少しぐらい寝坊しても大丈夫だな。」
自分から誘うのは久しぶりかもしれない。横に視線を向けると、大悟も満更では無いらしい。
どんな一夜になるだろうか、と期待してしまう気持ちを隠しながら、帰路を走る車に揺られた。