チキンのトマト煮 彼とは沢山ご飯を食べた。
稽古終わり、公演終わり、マチソワ間、プライベートでも沢山。
料理上手な彼の手料理を食べさせてもらったことも何度か。どれだけ彼と食事を共にしただろう。
彼は1人でご飯を食べることが得意ではないと話していた。
彼は仲間とご飯を食べることが何よりの楽しみだと言っていた。
彼は俺が食べているとよく優しい視線を向けてきた。
「ねぇ、流司くん。」
食卓テーブルには食欲を唆る香りの真っ赤な料理が盛られた器が2つ。箸もスプーンも飲み物も全て2つだ。しかし、響く声は一つだけ。
「俺、前より料理出来るようになったんです。」
昔は自炊なんてほとんどしなかった。今では料理も慣れたものだ。
トマトと共にじっくりと煮込んだ鶏肉は箸を入れると直ぐに崩れる。箸で摘み、口に運ぶと彼の作ってくれたあの料理と全く同じ味だった。
「もう、同じように作れるようになっちゃいましたよ。」
同じ味。きっと誰が食べてもそう言うのだろう。同じレシピ、同じ食材であの日からずっと作り続けた。飽きるほど作って食べてきた。レシピを調べなくても作れるほどに沢山作って同じ味になったのだ。
けれど、違う。足りない。
自分でもどこかで分かっていた。でも、作らずには居られなかった。彼に関する記憶を少しでも残していたかった。存在を近くに感じていたかった。
優しい眼差しでこちらを見る彼の存在がなければ、どれだけ同じ味の料理を作れるようになったところで心の穴が埋まりはしないのだと。
分かってはいたが、理解したくはなかった。
気がつくと、器の中の料理はもうほとんど無くなっていた。
「俺、昔よりも芝居上手くなりました。」
鶏肉を飲み込み、彼にそう話しかける。
あの頃よりも沢山の経験を積んで、多種多様な役柄を演じて、自分でもわかるくらい上達した。今の自分が彼と芝居を交わしたらどんなものが生まれたんだろう。
「歌だって前より声量上がったし、ブレなくなりました。」
日々のボイトレと実戦的な経験により確実に歌のレベルも上がっている。あの頃歌った曲も今ならもっと上手く歌える。
「また、主役を任せてもらったんです。今度は今までで1番大きい劇場なんですよ。」
あの頃は初主演で、その作品は彼も見に来てくれた。
あの日、カーテンコールで0番に立って観客席に座っている彼の顔を見た瞬間思わず顔が綻んでしまったことを覚えている。そのくらい緊張しっぱなしだった。
今では主演を任せてもらうことも座長を任せてもらうこともかなり増えた。彼が聞いたら喜んでくれるだろうか。
「1番、見てもらいたいのに。」
憧れでかっこよくて大好きな先輩であり、恋人だった流司くん。恋人だった期間は半年にも満たないけれど本当に幸せだった。告白が成功した時、涙が止まらなくなってしまって彼にからかわれたことも覚えている。
初デートは俺の家だったことも。朝、隣で彼が眠っている姿を見ている時間がとてつもなく幸せだったことも。彼の煙草と香水の香りも。後輩としての自分からじゃ見えなかった彼の弱さも。何もかも。
先輩後輩の関係だけだった頃の時間も恋人になってからの時間も、どの時間を思い出しても幸せな記憶しかない。もっともっとたくさんの時間を共有して沢山の幸せを分かち合いたかった。幸せにしたかった。
「……帰ってきてくださいよ、流司くん。」
あの日突然、流司くんがこの世界から消えてから6年。片時も忘れることなんて出来なかった。むしろずっと追いかけ続けてきた。
「明日、俺の誕生日です。30歳。追いついちゃいましたね。」
今までは過去の彼の影を追いかけることも出来た。けれど、この先に彼はいない。これからは本当の意味で彼のいない世界を歩んでいかなければいけないのだ。
6年なんてもっと長いと思っていたのに。思っていたよりもずっとあっという間だった。
この6年の間、もしかしたら本当はどこかで生きていたりするんじゃないだろうか、と何度淡い希望を抱いたことか分からない。6年経って、彼のいない世界にも随分と慣れてしまったような気がする。ただ、心のどこかにぼっかりと穴が空いてしまったままなだけで。きっとどれだけ大切な存在であろうとそういうものなのだろう。
「あの時の、覚えてます?俺が30歳になる時は2人っきりでお祝いしてくれるって話。」
流司くんの30歳の誕生日。イベントの後、別々に帰ったふりをして家で2人きりでお祝いをした。その際、「俺が30歳になる時も2人っきりでお祝いして欲しいです。」と頼んだのだ。
あの時流司くんはなんて言ってたんだっけ。
「俺ちょっとだけですけど信じてたりしたんですよ?」
だから箸もスプーンも飲み物も2つずつ、料理も2人分用意して、向かい側に置いた。まるで彼がいた時のように。
明日は誕生日なのだ。少しの奇跡ぐらい期待したっていいだろう。
「ごちそうさまでした。」
目の前には何も手のつけられていないすっかり冷めた料理が1人分だけ残った。残った料理をキッチンに運び、ラップをかけて冷蔵庫に仕舞う。明日の夕食にでもしよう。
自分の分の洗い物を運び、給湯器をつけた。スポンジを取ろうとするといつもの位置にスポンジがない。そういえば昨日取り替えようと思って捨てたのだった。ストックから取り出すのを忘れていた。
上の戸棚を明け、スポンジのストックを探す。上の戸棚はほとんど使わないこともあって、どこに入れたのか思い出せない。
「あった!ん?なんだろう、これ。」
スポンジの袋の奥に紙袋を見つけた。買った覚えも貰った覚えもない。
恐る恐る紙袋を手に取り、戸棚から下ろす。リボンがついており、明らかにプレゼント用のものだ。自分が買って忘れていたものか?と疑いもしたが、思い当たる節は全くない上にこんな所に仕舞ったりなどしない。まるで、隠されていたようだった。
このまま放っておく訳にもいかない、と中を見ると、紺色の小さな箱が入っていた。箱の中には、アクセサリーが2つ。
シルバーの指輪とイヤーカフが入っていた。流司くんが誰かから貰ったのをしまってわすれていたのだろうか。彼が好きそうなもの、というよりはシンプルなあまりつけているイメージのないデザインだが。
「……あ、」
アクセサリーを手に取るとどちらも内側に俺の名前と日付が刻まれていることに気がついた。
この日は流司くんと初めて会った日だ。流司くんの舞台を見に行かせてもらった日。俺たちが出会った日だ。
紙袋を覗くと、中にはまだ2枚のカードが残っていた,
2枚とも表面にはブランドのロゴ、裏面にはよく見慣れた流司くんの字でこう書かれていた。
『大悟へ 30歳の誕生日おめでとう。』
『6年後の大悟の誕生日に渡すように』
1枚は俺へのメッセージ。もう1枚は自分用のメモのつもりだったのだろう。
あの約束をした時、彼がなんて言っていたのかようやく思い出せた。「覚えていたらな。」と返されたのだ。まさかこんな形で用意してくれていたなんて予想もしていなかった。
「はは……流司くんらしいや。」
6年前からプレゼントを用意してメモ書きまで残しているのに。忘れるつもりなんて全く無かっただろうに。
彼がいた頃は、俺がキッチンに立つことなんてあまりなくてこの戸棚を開けることも無かったからここに隠したのだろう。現に6年もこの家にいるのに全く気が付かなかったのだから。
「ありがとうございます、流司くん。やっぱり、敵わないな。」
メッセージカードに1粒、2粒と水滴が落ち、文字が滲む。時計が0時を知らせてくる。今日は俺の30歳の誕生日だ。