うちのクラスの降谷は赤井先輩と同棲してるらしい①緑の瞳の先輩「もう我慢の限界なんです!!」
「降谷の気持ちもわからなくはないんだがなあ……」
担任の西島先生はペンを持ったままの手で額を掻いた。
「先生にはわかるわけありませんよ……同じ寮の生徒にパンツを盗まれた僕の気持なんか……」
そう僕は寮に暮らしている。もちろん男子寮なのだが、僕が洗濯すると必ずパンツが盗まれてしまうのだ。外干ししたから上級生にでも悪戯されたのかと思ったが、寮の乾燥機を使っても、友人と一緒に乾燥機に入れても、僕のパンツだけが盗まれる。
僕らの暮らしている寮は男子校の中に建っているため、外部の犯行とは考えづらい。しかし、先生に注意してもらっても、パンツを盗むなと寮の中にポスターを張っても、未だにパンツ泥棒は名乗り出るどころか犯行を続けている。
「降谷……」
「確かに、僕のパンツは五枚千円ですけど、もう十枚以上盗まれてるんです!!高校生にとって二千円がどれぐらい貴重なお金かはわかりますよね!?先生!」
「え、そこ?気持ち悪いとかそっちの話かと……」
「え?まあ、男のパンツなんか盗んでどうするんだろう、とは思いますけど……」
泥棒の考えることなんかわからないし、わかりたくもない。僕がそう言うと西島先生は眉間に皺を寄せた。
「あのな、降谷。これは大事な話だから、よおく聞いてほしい」
「え?なんですか、急に」
さっきまでひたすら困っていた先生が急に真剣な表情になったので、僕も膝の上に置いていた手で握りこぶしを作った。
「体育祭で女子の恰好して走ったのは覚えてるな?」
「はい。つい先月の話じゃないですか。もちろん覚えてますけど……えっ、あれが気持ち悪いからって嫌がらせを!?で、でも、あれはテニス部の伝統で先輩たちもやったって言ってたから僕は!!」
「ああ、伝統だ。それは間違いない。先生がこの高校にいた時もテニス部の生徒が女装して部活対抗リレーに出ていたよ」
西島先生はこの学校の卒業生だ。クラスで自己紹介したときにも言っていた。そのせいで、他の先生から未だに生徒扱いされているのが悩みだと苦笑していた。
「それならどうして……!」
伝統に則ってリレーに出て嫌がらせを受けるなんて納得がいかないと身を乗り出すと、僕の肩を西島先生はポンと掴んだ。
「降谷……お前は似合い過ぎてたんだ」
「……え?」
「だからさ、その……そういう対象として見られている可能性もなくはない」
「えっ……ええ―――!?」
僕の声が静かな職員室に響き渡る。まずい、と思ったが他の先生たちは黙々とお仕事をされている。聞こえているの聞こえないふりをしてくれるのは有難いようで、逆に居心地が悪い。
僕は声量を落として西島先生にもう一度確認した。
「先生……冗談ですよね……?」
「いや……先生は降谷が驚いてることに驚いているよ……。小さいころ、女の子みたいね、とか、かわいい~とか言われなかったか?」
「う~ん……ないですね。どっちかというとヤンチャでしたから。確かに容姿のことでイチャモンを付けられることはありましたが、返り討ちにしてやりました!あっ」
「いや、うん、いいよ。子どもの頃の喧嘩を今更怒ったりはしないさ。でも、そうか、そういうタイプだったのか……」
「はあ、まあ……」
パンツが盗まれる理由は今まであれこれ考えた。自分の容姿が原因かもしれないとは考えたことがなかった。
というのも、この高校に入ってから容姿のことを言われることはほとんどなかったからだ。高校生にもなれば金髪も青い目も珍しく思わないのだろう。それに校内には僕以外にもハーフっぽい先輩がいる。だから、あまり目立たずにやってこれたつもりだった。
「あの……先生?」
「ん?」
「その、僕の下着をそういう意味で盗んでいる人間がいるのかもしれないなら、余計に寮を出たいんですけど」
「そうだよなあ……」
「はい。テニス部の顧問の先生には練習にきちんと出るなら寮を出てもいいと言われていますし」
そもそもテニス部の部員で寮に入ってるのは一年生では僕だけだ。他には数人の地方から出て来た先輩たちが寮で暮らしている。
僕がこの学校を選んだ理由は、特待生学費免除制度があって寮があるからだった。入試で特待生に選ばれ、中学までのテニスの成績でスポーツ特待生にもなっているため、学費も寮費も免除され、僕が払っているのは食費だけ。親の遺産で暮らしていかなければならない僕にとってかなり有難い。だからできれば穏便に三年間を過ごしたかったのだが……。
「寮を出てから行く当てはあるのか?」
「それは……安い物件を見つけたのでそこから学校に通おうかと……」
「家賃はどうするんだ?」
「今からバイトを増やせばなんとか……」
「あのなあ、降谷。お前は事情が事情だからバイトが認められているけど、基本的に特待生はバイト禁止なのは知ってるよな?」
「は、はい……」
勉学に集中するために学費を免除されているのだから当然と言えば当然だ。学校としても進学実績を残してほしくて優秀な生徒を引き入れている。つまり、僕は学業の面でも、テニスでも成績を残すことを求められている。これ以上、バイトを増やして、勉強と部活を両立させていけるのか。そこに不安がないとは言えなかった。
「でも……」
「わかってるよ。俺だって降谷と同じ立場だったら頭に来るし、寮を出て行きたくなるだろう……だからさ、一つだけ提案があるんだ」
「えっ……提案?」
「ああ……ルームシェアの相手を探している生徒が一人いてな……」
「えっ、家賃は折版ということですか!?」
「ま、まあな……その辺は本人と要相談なんだが……」
「ぜひ紹介してください!!」
「ただ!」
先生は興奮する僕の前に両手を広げた。先生が重要なことを話そうとするときの仕草だ。ホームルームや物理の授業のときにもよくやっている。
僕が口をつぐむと、先生は右手の人差し指だけを立てた。
「条件がある」
「な、なんですか……?」
「その生徒なんだが……学校をさぼりがちでな……学校にきちんと通うように働きかけて欲しいんだ」
「……もしかして結構神経質なタイプなんですか?」
「まあ、そういう側面もあるかもしれん。悪い生徒ではないんだ。少なくとも降谷のパンツを盗むことはないだろう、多分」
「するわけないだろ」
唐突に第三者の声が聞こえて僕は振り返った。すると職員室のドアのところに一人の生徒が立っていた。
「赤井先輩……?」
「おお、顔見知りだったか!それなら話は早いな!」
「あ、いえ、そういうわけでは」
僕はそう言いかけたけれど、先生は席を立って赤井先輩のほうへと歩いて行ってしまっていた。
赤井先輩のことは一方的に知っていた。テニス部の先輩に、僕のようにハーフの同級生がいると聞いたことがあったのだ。緑の瞳に黒髪で、びっくりするほどのイケメンという情報しか聞いていなくても、僕はすぐに誰が赤井先輩かわかった。それぐらい赤井先輩は目立つ存在だった。見た目だけではなく頭脳明晰で運動神経も抜群。部活には所属していないらしいが、同じ三年のテニス部の先輩は、赤井なら何部に入ったって全国大会に出られると言っていた。それを聞いて僕はさすがに盛りすぎなんじゃないかと思ったけど突っ込むことはしないでおいた。
「赤井、彼がこの前話した俺のクラスの生徒なんだが……」
「格安で住めるところを探しているんでしたよね」
赤井先輩はそう言うと僕の方を見た。緑の瞳は僕を見ているはずなのに、僕のさらに後ろを見ているような気がして、僕は落ち着かない気持ちになった。
「ホオ……」
「あ、あの、僕っ」
「君、洗濯と掃除は得意か?」
「えっ、はい……一通りの家事はできます!」
引っ越し先が欲しいあまりについ家事力をアピールしてしまったが、ほぼ初対面の相手に対してそれを聞くってどうなんだろう。同じ学生なのにまるで雇用主と被雇用者みたいじゃないか。とはいえ、今の僕は背に腹は代えられない状況だ。これ以上、パンツを盗まれるのはお財布的にもメンタル的にもきつい。
「そうか。じゃあ、ついてこい」
「は、はい……?」
僕は横目でちらりと西島先生を見た。いくら三年生とはいえちょっと態度がでかすぎませんか?目だけでそう訴えると、先生は「まあまあ」と視線だけで僕を宥めた。
僕は仕方なく赤井先輩の後について職員室を出た。
「あの、どこに向かってるんですか?」
「君の新しい住む場所だ」
早速家を見せてくれるらしい。赤井先輩は僕を振り返らずに校門を出て行った。自転車置き場をす通りしていたから学校には歩きで来ているようだ。家は近くなのだろうか。
「あの、先輩……?」
「赤井でいい。日本のその呼び方は仰々しくて好きじゃない」
はあ、なるほど。神経質というより気難しいタイプだな、これは。
「では、赤井さん。今はひとり暮らしなんですか?」
「ああ」
ご家族は、と聞きたかったけれど、聞き返されることを考えて僕は言葉を飲み込んだ。でも、黙ったまま歩き続けるのも間が持たない。僕は共通の話題を探したけれど、思い浮かんだのは西島先生から聞いた話だけだった。
「西島先生から僕のことはどう聞いているんですか……?」
「学校一の秀才で、テニスのジュニアチャンピオン。寮で暮らしている」
赤井さんはそこまで話したところで僕を振り返った。
「盗難被害に遭っているそうだな?」
「は、はい……」
「ふうん」
赤井さんはまた前を向いた。な、なんなんだ?また僕よりももっと遠くを見るような目だった。もしかしたらただの癖なのかもしれないけれど、何もかも見透かされているような気がしてやっぱり落ち着かない気持ちになった。
「さあ、ここが俺の家だ」
「えっ……ええっ!?」
「何かご不満かな?」
「い、いえ……そういうわけでは……」
僕は赤井さんが冗談を言っているのかと思った。しかし、彼の顔は至極普通で、道中の口ぶりからしても冗談をいうようなタイプには思えなかった。
それでも、僕が案内されたその家はとても学生が下宿するような建物には見えなかった。いかにも歴史のありそうな洋館で、豪邸というほど大きくはないが映画に出て来てもおかしくない趣きがある。小さな庭には小さな赤い花をつけた薔薇の枝が生い茂っていた。
「えっと……これが赤井さんの家なんですか……?」
「正確には母方の祖父母のものだった。二人とも他界して母の元に回ってきた」
「つかぬことを伺いますが、ご家族は……?」
「全員海外にいてね……もともと色々な国を転々としていたんだが、俺は日本の高校に興味があったんで、こっちでひとり暮らしをしている」
「はあ……」
まるで漫画の世界の高校生だ。学費を免除してもらってバイトしてなんとか高校に通っている僕とは住む世界が違う。気後れするなと言うほうが無理な話だ。
「行こうか」
「えっ」
「中も見るだろう?」
「は、はい……」
僕は通学リュックの肩紐を両手で握りしめて赤井家の門をくぐった。
「好きな部屋を使ってくれて構わない。おすすめは二階の部屋だな。この家で一番日当たりがいい」
「あ、いえ、僕はそんないい部屋じゃなくても!」
「俺と君以外誰もいないんだから気にすることはない。俺は基本的に書庫で寝起きしているし」
前を歩く赤井さんは徐に振り返り、僕の髪に手を伸ばした。僕はこれまでの経験で髪の色を指摘されるのかと身構えた。僕の髪は人目を引きやすい。子どもの頃は揶揄いの対象にされることもしばしばで、何度ケンカになったかわからないぐらいだった。
高校に入ってからはさすがにそんなことはなかったけど、初めて会う人に必ず聞かれるので地毛だと主張するのがもう習慣になっていた。
「君の髪は朝日みたいな色をしてるから、朝日が一番最初に入る東向きの部屋がいいと思ったんだ」
それだけ言うと、赤井さんはふっと前を向いてしまった。
この髪をそんな風に言われたのは初めてだ。僕は撫でられた髪を自分で触ってみた。相変わらず細くて扱いにくい髪質だったけど、赤井さんに触られたところだけ少しあたたかいような気がした。
「まずは共用の場所を案内しよう。玄関から真っ直ぐ伸びる廊下の先にキッチンとリビングダイニングがある。冷蔵庫や家電は好きに使ってもらって構わない。俺は基本的に家で食事をしないから気にしないでくれ」
「えっ」
「なにか?」
「家で食事しないんですか……?」
「ああ」
言い切られてしまうと「どうして」とは聞きにくい。お金持ちみたいだから外食が普通なのだろうか。赤井さんみたいなイケメンだったら一緒に食事をしたい女性も山のようにいるのだろう。
「わかりました。自分の分だけ用意しますが、もし必要だったら言ってください」
「わかった。あとはバスルームと……」
赤井さんの家の中は思っていたよりも綺麗に片付いていて、見た目よりも内装は新しかった。きっと何度か手を入れているのだろう。それでもどことなく暗い雰囲気なのは壁の色が落ち着いているからだろう。夜が似合う家だというのが僕の印象だった。
「外がもう暗くなってきたな。今夜は泊っていくか?」
「え、いいんですか?」
「ああ。今夜は俺も予定がない。泊まってみて引っ越すかどうか考えてみたらどうだ?」
「それは有難いです。では寮に連絡してきます」
僕はそう断って、ポケットの中からスマホを取り出した。
「あれ、まただ……」
「どうした?」
「圏外になってて……最近よくあるんですよね。高校になって買ったばかりなのに壊れちゃったのかな」
「……見せてくれ」
「え?あ、はい……」
僕は自分のスマホを赤井さんに渡した。そういえば連絡先を交換してなかった。赤井さんはプライベートに干渉されたくないタイプのようだけど、僕には西島先生との約束がある。さぼりがちな彼を学校に連れていくためには連絡先は知っておいた方がいいだろう。
「繋がったぞ」
「えっ!本当だ……どうやったんですか??」
「あー……まあ、もう大丈夫だ」
赤井さんは一度は説明しようとした様子だったが、説明するのをやめてしまった。職員室に話したときも感じたけど、彼は自分を特別だと思っているような節がある。君には話したって理解できないだろって?言ってみなけりゃわからないだろ!
「ちゃんと説明してもらえませんか?次に同じことがあった時に困りますから」
「もうないよ」
「どうしてわかるんですか?話してください!」
「ホォ……君は外見より強情だな?」
「……見た目のことを言われるのは好きじゃないです」
僕がキッと睨むと、赤井さんは僕を面白がるように口の端を釣り上げた。
「なるほど。だから鈍いのか」
「はあ?」
「いいだろう、説明するから落ち着いて聞け。そのスマホは通信妨害されていたんだ」
「えっ……えっ、どういうことですか?誰が、なんのために!?」
「落ち着けと言っただろう。とりあえず、そこに座りなさい」
赤井さんはまるで先生のような口調で、僕にダイニングにある椅子に座るように言った。
「紅茶を淹れよう。レモン?ミルク?」
「どちらも結構です」
「日本人はなぜ何も入れたがらないんだ……」
赤井さんはなにやらブツブツ言いながら紅茶の支度を始めた。どうやら紅茶には一家言あるようだ。初めて彼の人間性を垣間見たような気がした。
そんな彼が淹れてくれた紅茶は確かに美味しかった。素直にそう伝えると、赤井さんは「紅茶の淹れ方だけは母親に厳しく教えられた」と言っていた。出身がイギリスなのだそうだ。なるほど、それで……。
「さて、君のスマホの話に戻ろうか。結論からいうと君はストーキングされている」
「えっ?」
「盗難被害も同じ犯人の仕業だろう」
「ま、待ってください……ストーカー?僕に??」
「心当たりは?」
「あ、ありませんよ!……でも」
「でも?」
「さっき職員室で西島先生に言われたんです……体育祭で女装したのが似合っていたらしくて……僕としてはそうは思わないんですけどね!?それで、そういう対象として見られているかもしれないと……」
「なるほど……見てみたかったな」
「写真ならスマホの中にありますよ。見ますか?」
「見る」
体育祭は校内で行われる行事だが、うちの学校の敷地は東都有数の広さがあり、体育館、テニスコート、陸上競技場、サッカーグランドに分かれてクラス対抗戦が繰り広げられる。全員参加の行事だが、そのすべての競技を見ることは生徒でも先生でも不可能なのだ。ましてや、運動部に所属していない赤井さんが運動部の部活対抗リレーを見ていないのは当然と言えば当然だった。まあ、ただ単に面倒で体育祭をさぼっていただけかもしれないけど。
「えっと、確かこの辺に……」
画像フォルダーを探すと体育祭の写真はすぐに見つかった。まだ一ヶ月しか経っていないし、僕は普段あまり写真を撮らないから探すのは簡単だった。
「この隣に映っている生徒は?」
「ああ、彼はヒロ……僕の幼馴染です」
「ホオ」
「あ、ヒロは絶対に犯人じゃありませんからね!?」
小学生の時からの親友がそんなことをするはずがない、という理由を別にしても、寮生でない彼に僕の下着を盗むことは不可能だ。寮は学校の敷地内にあるから外干ししている時は盗めなくもないが、寮の中のランドリールームの乾燥機から下着を盗むことはできない。僕が一緒にいれば寮生でないヒロも寮の中に入ることは可能だが、ここのところ僕は盗難を警戒して夜中に洗濯をするようにしていたから犯行が可能なのは寮生に限られる。それが僕に引っ越しを決断させた最大の理由だった。
「そうか……」
「はい」
「下着を盗まれていたとはな……」
「あっ……はい」
僕は思わず俯いた。男が男に下着を盗まれていたと聞いて、赤井さんはどう思っただろう。恥ずかしくて、悔しくて、顔を上げられずにいると、赤井さんはポンと僕の頭に手を置いた。
「辛かったな」
「……はい」
「もう大丈夫だ」
「赤井さん……」
「犯人は俺が始末する」
「……え?犯人が分かったんですか!?」
「ああ」
「誰なんですか!?教えてください」
僕は思わず赤井さんの肩を掴んでいた。もし犯人がわかったのなら引っ越す必要もなくなる。こうして僕を案内してくれた赤井さんには悪いが、いくらルームシェアとはいえ家賃はない方が有難い。アルバイトを増やさないでいいなら勉強にも練習にも時間を割くことができる。
そこまで考えたところで僕は赤井さんから家賃を聞いていなかったことを思い出した。これだけ立派な家だ。水道光熱費だけでも結構かかりそうな気がする……。西島先生には格安だと言っていたけど、金銭感覚がそもそも違う気がする。最初から僕が彼と一緒に暮らすことは無理だったのかもしれない。そう考えた時、僕は残念だと感じていることに気が付いた。
「どうした?」
「あ、えっと、なんでもないです……あはは、犯人がわかるかと思ったらホッとして……お腹が減っちゃいました」
「そうか」
赤井さんはそう言うと、柔らかく微笑んだ。彼のそんな表情を見たのは初めてだ。穏やかな緑の瞳は今は僕を見てくれている。こうして見つめ合うとやはり美しいひとだ。彼は僕の髪色を朝日と表現したけど、僕は赤井さんの黒くて緩くウェーブしている髪を春の夜みたいだと思った。
「夕飯にピザでも取ろうか」
「え」
「安心しろ、俺の奢りだ」
「あ、いや、そんな……!あ、あの、良かったら僕に作らせてもらえませんか?」
「え?」
「さっきパントリーを見せてもらった時にパスタとトマト缶とソーセージの瓶詰が見えました。普段、家で食事をされないならこういう時に料理してしまったほうがいいんじゃないかなって……ダメですか?」
「いや、有難い。正直言って持て余してたんだ」
「よかった……!すぐに用意しますね!」
僕は寮に外泊する旨を連絡して、さっそく料理に取り掛かった。
赤井さんの家のキッチンはまったく使われていない様子だったけど、最低限の調味料は揃っていた。それに、家族が送ってきたと言う缶詰はどれも味が良く、特にトマト缶は甘みが強くて、塩水につけられているソーセージとの相性は抜群だった。
僕が料理している間、赤井さんは僕の部屋のベッドメイキングをしてくれた。住まないかもしれないのに用意してもらうのは心苦しかったけど、今夜は泊まらせてもらうわけだから寝る場所は必要だ。
それに僕はまたま赤井さんから犯人を教えてもらっていない。いつ話してくれるのかと思っているうちに僕も赤井さんもパスタを食べ終わっていた。
食後に赤井さんが今度はハーブティーを淹れてくれた。気持ちを落ち着かせる効能があるそうで、確かに優しい香りがして、ほんのり甘かった。
「蜂蜜を入れてあるからな」
「なるほど……僕、ハーブティーってほとんど飲んだことがなかったんですけど、とても飲みやすいです」
「それは良かった」
「あの……それで僕をストーカーしてる犯人についてなんですが……」
「ああ、そうだな。しかし、まだ証拠が揃っていないんだ。きちんとした形で伝えたいから少し待ってくれるか?明日中にはなんとかなるだろう」
「あ、はい……すみません、こんなに良くしてもらって……」
「構わんよ。君のような危なっかしい子を放っておくと大きな事件に発展しないとも限らないかならな」
「えっ……僕、危なっかしいですか……」
小さいころからどちらかというと『しっかりしてる』と言われることが多かった。友だちの家族とか、学校の先生からは『降谷くんがいれば大丈夫ね』なんて言われることもあった。でも、こうして赤井さんを前にしていると自分がまだまだ世間知らずな子どもに思えてくる。彼の緑の瞳には僕が知らない世界が映っている。そんな気がした。
「ほら、もう寝る時間だ」
「ん、子ども扱いしないでください……」
「瞼が閉じてしまいそうじゃないか。慣れない場所に来て疲れたんだろう……。ほら、部屋に行こう」
「……はい」
「いい子だ。安心しろ……寝ている間に全部終わるから……」
「うん……」
抗いがたい眠気に襲われて、僕はよろけながら階段を上った。赤井さんが用意してくれた部屋はカーテンが開いたままだったけど、それを閉めることもできず、僕はベッドに横たわった。少し埃っぽいけど、それが妙に心地よくて、僕は枕に顔を押し付けた。
今日は色んなことがあったな。西島先生から赤井さんを紹介されて、赤井さんと話さなければ盗難がストーカーによるものだなんて考えもしなかっただろうな……。
それにしても。赤井さんはどうして赤井さんは僕をストーキングしている犯人が分かったんだろう。スマホの通信障害の直し方も結局教えてもらえなかった。すべて煙に巻かれているような気がする。
赤井さんは何かを隠してる……?
夢現にそんなことを考えていると急に体がぞくりとした。何かがおかしい。いや、おかしいことだらけじゃないか。僕はスマホの写真を見せただけなのになぜ犯人がわかったんだ?その前にスマホの調子が悪かったときだって、彼は何かを操作している様子はなかったのに、スマホは圏外ではなくなっていた。
そもそも、赤井さんはどうして僕を家に泊めてくれたんだ?いくら西島先生に頼まれたからって一人暮らしの家にほぼ初対面の人間を案内するには不用心すぎる。赤井さんはとてもじゃないが迂闊なタイプには見えない。どちらかといえば、他人からプライベートを覗かれるのを嫌がるタイプだ。
思い出せ、思い出せ……もっと何か決定的に違和感を覚えたことがあったはずだ。
そうだ、寝る前に彼が言っていた台詞だ。『寝ている間に全部終わる』と彼は言っていた。つまり、僕が寝ている間に何かがあるということだ。
そこまで考えたところで、僕の耳がベッドが軋む音を捕らえた。僕は寝返りを打っていない。僕じゃない何かがベッドの上にいる気配がした。
重たい瞼をなんとかこじ開けると、赤井さんが寝ている僕に覆いかぶさっていた。
「おっと、目を醒ましてしまったか。一番効く茶を出したんだがな……」
それが寝る前に飲んだハーブティーのことだとすぐにわかった。入眠作用のあるお茶を飲ませて何をするつもりだったのか。頭にカッと血が上った。
「赤井、貴様……!」
全ての犯人は、この男だったんだ……!最悪だ、最悪だ、最悪だ!どうして信じてしまったんだろう?先生が紹介してくれたから?ううん、それだけじゃない。彼が僕と同じで黒い瞳じゃなかったから。同志だと思ってしまったんだ。
「おっと、騒がないでくれよ?」
赤井はそう言うと僕の口を手のひらで覆った。すぐにその手を払いのけようとしたが、なぜか手も足もまったく動かなかった。
「ん、ん、んーーー!」
「この状態で喋ろうとするのか。すごいな、君は」
「んんんん!!!」
感心してる場合じゃないぞ、赤井!お前の後ろに……!
「ああ、そうか。俺が触れているから君にもあの男が見えてるんだな」
赤井の言葉の意味がすぐには理解できなかった。僕がわかるのは赤井の後ろに嫌な目つきの太った男が立っていることだけ。
赤井の仲間なのだろうか。いや、違う。だって、その男の手は今にも赤井の首を絞めようとしている。
もしかして、アレが僕のストーカー……?
「安心しろ、あの程度の霊は俺には触れられない」
「んんん?」
え、霊?霊って、幽霊のこと?まさかと思ったが、確かに男の様子はタダの人には見えなかった。壁に飾られている風景画が男の体を透過して見えているのだ。僕はオカルトの類は信じてなかったけれど、半透明の人間か幽霊のどちらの存在を信じられるかと言われれば、後者のほうがまだ信じられた。
男の幽霊は僕を見てにやりと笑った。悪意のある笑みだ。見ただけで全身に鳥肌が立った。
男は赤井を僕から引きはがそうとしていたが、赤井に触れようとしても何かに弾かれてしまうようだった。
男はすっと壁の方に引き下がって、ふっと消えてしまった。諦めたのだろうか、そう思った瞬間、僕の耳元に聞いたことのない男の声がした。
「れええいいいきゅうううん……はあはあはあはあ……今日のパンツは何色かなあああああああ」
「んんんん!!!!」
き、気持ち悪い!!!!
僕が目だけで声のする方を見ると、さっきの男が僕の顔のすぐ横にいた。やだやだやだ!それ以上、近づくなあっ!!!!
僕は泣きたい気持ちになって赤井を見上げた。
「な?こいつが犯人だっただろ?」
「んんんんん(わかったから何とかしてください!!)」
幽霊がどうやったら消えるのかなんて知らない。でも彼ならなんとかしてくれるような気がした。そんなことを考えている間に冷たい何かが僕に触れた。
幽霊男の手だ。冷たい手が僕の上半身をまさぐっている。僕は嫌悪感と恐怖で気を失いそうになるのをなんとか堪えた。
「おい、お前……調子に乗るなよ……」
赤井の冷え冷えとした声に幽霊男の手が震えたのがわかった。
「薄汚れた手で触るな、変態」
「な、なんだとおおおおおおっ、れいきゅんは俺のものだあああああ!彼だって俺のことを愛してるんだよおおおおお」
「……そうなのか?」
そんなわけないだろ!僕は渾身の力を振り絞って首を横に振った。
「そうか。では消してしまっていいな?」
「んん!!」
赤井が幽霊を消す方法を知っていることに安堵しつつ、僕はさっき一瞬でも赤井を疑ったことを心の中で謝罪した。
「お前のような幽霊は俺も初めてだ。どうやって消し飛ばしてやろうか……」
赤井が意地の悪そうな笑みを浮かべると、強気だった幽霊がたじろいだように見えた。
「いたぶってやりたい気もするが彼の前だからな。一瞬で済ませよう」
赤井はそういうとなぜか僕の口元から手をどけた。
「え?」
「そこでよく見てろ、変態」
赤井はそう言うと動けない僕の唇に自分の唇を重ねた。え、これって……キスだよな……?な、なんで、赤井と僕が!?ていうか、なんで今!?
あまりに急なことで目を閉じることもできずにいると目の端で幽霊男が光ったのが見えた。その顔には涙が浮かび、大きな体は徐々に光の粒になって砂の像のように崩れ落ちていった。
窓から朝日が差し込み、さっきまで幽霊だった光る砂は跡形もなく消えていった。カーテンを開けたままにしておいたのはこのためだったのだろうか。
「よし、終わったそま。これでもう君の下着が盗まれることはないだろう……って、おい!!」
赤井は僕の平手を食らって目を見開いていた。
「な、なんでキスするんだよ!他に方法はなかったのか!?」
「は?助けてもらっておいてその言い草はないだろう。あの幽霊にはこれが一番効くと判断したまでだ」
「だって、だって、は、はじめてだったのに……!!!」
「ホオ……」
赤井は意地の悪い笑みを浮かべた。
「それはそれは。御馳走様」
「馬鹿ぁっ!!!!」
僕が投げた枕をひらりと躱し、赤井は部屋を出て行った。
そこでようやく僕は冷静になった。勝手にキスしたことは許せないけれど、赤井が助けてくれたのは確かだ……。それなのに……。
僕は気まずいものを感じながらも身支度を整えて部屋を出た。一階に降りて行ったが、家の中はしんとしていて赤井の姿はどこにもなかった。
気を悪くして出て行ってしまったのか、それとも彼が寝床にしているという書庫に行ってしまったのだろうか。どちらにせよ、赤井が僕と顔を合せたくないと思っていることは間違いない。僕は静かに家を出て学校へと向かった。
あまりに自分の理解の範疇を超えたことが起きたせいで取り乱していた心が、朝日を浴びて徐々に凪いで行く。赤井は僕を助けてくれた。それは疑いようもない事実だった。
彼はもしかしたら、最初からこうなることをわかっていたのかもしれない。幽霊が見える彼には、職員室で会った時から僕の傍に幽霊男がいるのが見えていたのだろう。
そう考えると、先生の前で家事を目当てにしているような態度を取っていたのも納得できた。実際は赤井は料理は別として他のことは自分で出来ていたように見えた。僕に憑いている幽霊を祓えば僕が寮に帰るとわかっていて、わざと素っ気ないふりをしたのだろう。そうすれば、僕がやっぱり寮に住むと先生に言いやすいから……。
僕は赤井の家から持ってきたスウェットの上下に目を落とした。シャワーを浴びた後に赤井から借りたものだ。これを返すという口実が僕にはある。問題はその時、僕がどういう態度をとるかということだ。
その日の放課後、僕は洗濯したスウェットを持って再び赤井の家を尋ねた。家の中は電気が消えていて、誰もいないのが見て取れた。僕は玄関の前に自分のリュックを置くと、その横に腰を下ろした。
僕を見て赤井はなんて言うだろう。怒って無視するかもしれない。そうだとしても、僕は彼にきちんと伝えないといけないことがあるんだ。
「驚いたな」
僕がぱっと顔を上げると、制服を着た赤井が僕を見下ろしていた。
「あ、赤井……さん」
「ここには二度と来ないと思っていたよ」
「あ、あの、これ……」
僕はおずおずと借りたスウェットと差し出した。
「わざわざ洗ってくれたのか?」
僕は黙って頷いた。
「そうか。ありがとう」
「それを言うのは僕のほうです……それなのに今朝はあんな態度をとってしまって……」
「混乱してたんだろう。仕方ないさ」
赤井はそう言うと肩を竦めて見せた。海外ドラマで見たことがある仕草だ。海外生活が長いせいかすごく様になっている。
「あの、それで……」
「ん?」
「僕をここに住まわせてください!!!」
「……は?」
「掃除も洗濯もなんでもします!だから、僕をここに!」
「待て待て……なぜそうなる?君はもうストーカーに悩まされることはないんだぞ?」
「わ、わかってます……でも赤井、さんは」
「赤井でいい。今朝もそう呼んでいた」
「うっ……あ、赤井はルームシェアの相手を探してるんですよね?」
「ああ……母親が俺を信用してないんだ。誰か一緒に住んでいればまともな生活をすると思っているらしい」
「実際、学校さぼってる日もあるんですよね?」
「まあな」
「それなら僕があなたを朝起こします!朝食も作ります!助けてくれたお礼をさせてください!」
「……君がそうしたいなら構わんが」
「はい!……あ、あの家賃のことなんですけど……」
「金はとらんよ。母も学生から金をとりたいと考えているわけじゃない」
「えっ……いいんですか?」
「その代わり、俺は食料品を買う習慣がない。料理を作りたいなら君の方でなんとかしてくれ」
「わかりました!」
一番の懸案事項がクリアになったことに安堵していると赤井が僕のために玄関のドアを開けてくれた。
「お邪魔します……」
「ただいま、の間違いだろ?」
赤井の言葉にびっくりして振り返ると赤井はドアを閉めて僕の体をドアに押し付けた。
「えっ……」
「今日からここは君の家でもある」
「あ、は、はい……」
「つまり、俺と同棲するわけだ」
「えっ、ちがっ、ルームシェアです!」
「似たようなもんだろ」
赤井はそういうと僕に顔を近づけた。経験のない僕でもわかる。キスする距離だ……!
「ちょ、ちょっと、揶揄わないでくださいっ」
「おや?君の恩返しにキスは含まれてないのか?」
「含まれてるわけないでしょう!……ていうか、赤井は僕とキスしたいんですか?」
「ああ」
「ええ!?なんで!?」
「君が気に入ったんだ。俺に平手打ちしたのは君がはじめてだからな……」
これは、もしかしなくても、ビンタしたことを根に持ってるな……。
「それに君の作る料理はうまい」
「食べてるときは美味しいなんて一言も言わなかったくせに……」
「そうだったか?では、もう一つ証拠を提示しよう。俺は他人に紅茶を淹れたりない。君には二回も入れた」
「二回目は僕を眠らせるためだろ!」
「それだけじゃない。君にまた飲みたいと思わせるためだ……」
赤井が僕の耳にそう囁いた。体にゾクゾクとする声だ。囁かれたほうの耳が熱くて、あの幽霊男みたいな嫌な感じはしない。でも僕にはもうその理由を考える余裕はなかった。
「い……」
「ん?」
「い、一日一回なら……してもいいです……」
「ホオ」
赤井は揶揄うみたいな声でそう言った。冗談だったんだ。僕は文句を言おうとしたけれど、赤井の唇が僕の口を塞いでいた。
「これから楽しくなりそうだ……宜しく、降谷零くん?」
「え、あ、よ、宜しくお願いします……」
赤井と二度目のキスをした夜、とんでもない約束をしてしまった僕はベッドの中に入ってからもなかなか寝付くことができなかったのだった……。