僕らにも慎みを見せてください!「アズール、今よろしいですか」
「どうぞ」
モストロ・ラウンジの締め作業も終え、あと1時間もすれば日付が変わるという時刻。扉越しに入室の許可を得たジェイド・リーチは、扉を開け、すぐさま閉める。この時間帯に、アズール・アーシェングロットの私室であり寮長室である部屋に入る際に必須の仕草である。完全に扉が閉じられたのを確認したジェイドは、改めて向き直り、尻を見つけた。
尻である。傷一つなく滑らかな白い肌を持つ、まろやかな形の良い尻だ。キングサイズのベッドの上に埋もれるように見えているそれは、当然持ち主の体と繋がっている。尻から伸びる白く柔らかそうな太腿の裏、ふくらはぎ、足の裏。上の方に視線を移せば、尻から繋がるきゅっと絞られながら柔らかな肉付きの腰。しみ一つない背中、背中の脇から少し見えている胸部、色が変わったためかより華奢に見える肩と、その肩を隠す長い銀糸の髪。照明を受けて真珠色に似た色合いへ変わり輝いている。
そんな風に、惜しげもなく裸体を晒してキングサイズのベッドに横たわる女。この部屋の主であり、オクタヴィネル寮寮長であり、モストロ・ラウンジ支配人であるアズール・アーシェングロットは、つい視線を巡らせて無言になっていたジェイドを頭だけで振り返った。彼女が唯一身につけている眼鏡越しに、長い睫毛に縁どられた青い瞳が不思議そうに見つめてくる。普段はきっちりと化粧で彩られた顔は素肌を晒し、少しだけ幼い。己の姿に羞恥を一切感じていないのも、そう思う原因だろうか。
「ジェイド? 何か用事があったのでは」
「…………失礼しました。寮内の備品トラブルかもしれないとの報告がありまして、寮長に確認を」
「お前は確認できていないんですか?」
「女性寮のシャワー室なんです。無人でも入るべきではないでしょう?」
「ああ、そういう。それなら確認しに行きましょうか」
こともなげに言ったアズールは、俯せのまま読んでいた本にしおりを挟み閉じると、やはり羞恥心を感じさせない所作で起き上がった。まろやかな尻が動き、足が畳まれて、白い背中が伸びる。その動きに合わせて僅かに揺れた豊かな胸がつい視線に入って、ジェイドはアズールに気づかれないよう視線を逸らした。
アズールは裸になって眠る。そもそも人魚として生まれ育ったので、裸で過ごした期間の方がずっと長い。陸の洋服はあらゆる工夫を凝らされていて興味深いが、眠る時にまで着ていたいとは思えない。それがアズールの主張だった。1年の頃は相部屋で、同級生の女子達が寝るために服を着ている中全裸で過ごすことはしなかった。ベッドに入ってから魔法で服を脱ぎ、起きてから最初に行うのは魔法で服を着ることといったサイクルだったという。そんな生活を経て、寮長室という個室を得た彼女は、就寝時間にあたる時間に一切の服を身につけなくなったのである。
正直、自室での過ごし方はそれぞれであるし、他人に迷惑をかけないなら何をしていようと構わないとはジェイドも思う。アズールは先に言った通り現在個室なので、裸で過ごしていようが迷惑はかからない。寮生が訪れた際には魔法で瞬時に服を身につけているため、この習慣を知っているのはジェイドと、片割れたるフロイド・リーチだけだ。
何故なら彼女は今のように、ジェイドとフロイド、あるいはその両方が訪れた時は服を着ない。
『お前達、海で僕の裸なんて見慣れているでしょう? 僕もお前達の裸なんて見慣れてますし、今更じゃないですか』
初めてアズールの就寝時の習慣を目に突きつけられた時、彼女が言った言葉である。その時も裸のままだった彼女は、ジェイドとフロイドが白い体をどれほどじっと眺めようが平然としていた。本当に恥ずかしいと思っていないのである。そうしてジェイドもフロイドも、タイミングが悪いと言うべきか、アズールから裸のままそう言われたのを契機に情を抱えていることを自覚したのだから最悪だった。
人魚は卵生であり、発情期は限られているが、人間に変身した体はそうはいかない。万年発情期の感覚をしっかりと持ち、しかもその手の欲求が最大の年頃である。格別の情を抱えた相手が、裸体という最も無防備な姿を、ある種の信用と共に晒してくる。何度体が反応しかけたか、同じく反応しかけた片割れと共に、アズールに知られないよう鎮めたか。
衝動のまま彼女の体に触れてしまいそうになって、その都度、ここまで積みあげてきた信用を自分から投げ捨てるのかと自問した回数は、10回では収まらない。本当は今夜もジェイドだけで訪れたくなかったのだが、廊下で寮生に相談され、フロイドを呼びに行く暇がなかったのである。
ジェイドの苦悩など一切知らないタコの人魚は、ベッドの端に腰かける形でマジカルペンを振るった。振るう直前、つんと立ち上がった胸の、海の中では存在しなかった乳輪を見てしまい、ジェイドの息が詰まる。何度か見ていても全く慣れない。色が薄紅色だったことはとっくに覚えている。思い出そうとすると熱が溜まるので、すぐさま記憶を遠くに置いた。
そうこうしているうちに、アズールは一瞬で服を纏う。黒に近い紫の、ワンピースタイプの服だ。膝下までの丈、アズールの手首を垣間見せる袖。胸元は少し開いているし、よく見ると基本がレース生地だが、先ほどの姿に比べればずっといい。落ち着いて話ができる、と息をほっと吐いて、服を着たアズールが流したままだった髪を手櫛でまとめていく姿を見る。彼女は寮生と顔を合わせる時は髪をまとめた姿で出るので、見慣れた所作だ。
見慣れた手の動きを、手によってまとめられる髪の動きを目で追う。そして髪が彼女の背中に全て流されたところで、ジェイドは固まった。視線は彼女の胸元から動かない。ぎくりと、ぎこちなく固まったジェイドが目に入ったのか、アズールが不思議そうに声をかけてきた。
「ジェイド?」
「……アズール、髪は下ろしてください」
「何故? 寮生が呼んでいるんでしょう? いくら就寝前でも、最低限の身嗜みは整えるべきだ」
にべもない返答は揺るぎなく、ジェイドに相応の理由を要求してくる。ジェイドはしかし、アズールへ回答することが出来ない。
アズールが身に纏っているワンピースは黒に近い紫、基本はレース生地。長袖部分のレースは薄いが、胸や胴、裾まで続く部分のレースは幾重にも重ねられており、アズールの白い体を透かすことはない。しかし、ハイウェストで絞ったデザインにより胸部が強調されて、アズールが下着を着けていないことを主張している。髪を下ろしたままならば、髪に隠れて気づかれることもほぼないが、上げてしまえば気づかれるだろう。それは正直いただけない。今からアズールが向かうのは女子の共同施設の区画だが、道すがら談話室を通り抜けていく必要がある。男子寮生が数人いるだろう。普段からアズールの豊かな胸は視線を集めがちだというのに、見慣れないワンピース姿となれば、更に視線を集めるだろう。気づかないとは思えない。思春期の男など、ジェイドとフロイド含めてそんなものだ。奴らのオカズにされるなど耐えられない。しかしアズールにはっきり言いたくはない。
さてどうすればいいか。代わりに結うとでも言えばいいだろうか。いやでもアズールのことだ、妙な動きをするジェイドを怪しんで任せようとはしない。考えている間にもアズールは髪を一纏めにしようと手を動かす。いけない。それはいけない。腕を上げたことで胸を反らすような格好になっているのもいけない。
ジェイドが珍しく本気で狼狽えたその時、扉の向こうから声が聞こえた。フロイドの声だ。
「アズールぅ、ジェイドいねー?」
「フロイド。いますよ、どうぞ」
「やっぱアズールの部屋にいたんだ……何してんの?」
「フロイド! アズールの髪を整えてください!」
「は?」
「お前何言ってるんです? もう結び終わりますけど」
扉の向こうから入ってきた片割れにすぐさま言えば、ジェイドと鏡映しのようになった黄金と海松色の瞳が瞬く。背中からアズールの意味が分からないといった様子の声も聞こえたが無視した。あの格好で、髪を一纏めにした姿で出ることなど許せるか。フロイドも一目見れば察するはず。
ジェイドがじっと目を見つめたことで、何か感じるものがあったらしいフロイドが、アズールの格好をジェイドの肩越しに改めてみる。そして「あー」と納得した声を上げると、フロイドはジェイドの横を通り抜けた。ジェイドはそれに、内心でガッツポーズを取りながら振り返る。
しかしジェイドの目に映ったのは、アズールの髪を直すフロイドではなく、自分が羽織っていた前開きのパーカーを脱ぎ、アズールの肩へかけるフロイドだった。
「アズール、これ着てて」
「お前のパーカー? いらないんですが」
「その恰好可愛いけどさむそーじゃん」
「さっきまで裸でしたけど」
「廊下は部屋より寒いでしょ? これからどこ行くの」
「女子のシャワー室に」
「換気してるとこじゃん、羽織ってって」
「寒さには強いと、お前も知ってるでしょう」
「オレとジェイドは知ってるけど、知らねー小魚ちゃん達が見たら寒そうって思うんじゃねえの?」
「…………分かりました、借ります」
実に渋々と頷いてフロイドのパーカーに手を通したアズールに、ジェイドはそっと息を吐いた。フロイドのパーカーはアズールのワンピースのデザインと系統が違うものの、あれなら体が隠れるので髪型は問題ない。思ってジェイドは、自分もまた薄手のカーディガンを羽織っていたのを思い出す。差し出して、フロイドのように丸め込めばよかった。自室で裸のまま過ごすアズールは、ジェイドの冷静さを剥ぎ取るばかりだ。
とりあえずほっと息を吐いていると、フロイドとアズールの会話が続く。
「寝る前のアズール、本当服嫌いだよね」
「邪魔なものを纏って安眠できるわけないじゃないですか。今は服を着てるでしょう」
「んー、着てるのそのワンピースだけな気がすんの気のせい?」
「そうですけど? これだけ纏えば十分でしょう、寝る前にわざわざ下着を着けたくないです」
天然の爆弾が落とされ、今度はジェイドだけでなくフロイドの息も止まる音がした。