WS オープニングイメージ あ、と思ったときには既に遅い。振り仰いだ額に、頬に、何か冷たいものが当たったと認識するよりも早く、遠く、雷鳴が轟いた。つい先ほどまではそんな気配など全くなかったというのに、青硝子を嵌め込んだような空は今や一面の灰色に覆われ、重苦しく垂れ込めている。微かな土の匂いが、吹き込む冷たい風が、激しい雨の到来を予感させる。
おかしいな――男の指が、胸元に仕舞い込んだ石に触れる――今日は一日中晴れる予定では無かったのか。少なくとも、雨の予報では……無かったはずだが。
やがて、豆粒があたるような音を残し、豪雨は唐突に訪れた。路面の染みが一気に大きくなり、篠突く雨は、界隈を真っ白に煙らせた。最早、隣人同士のささやかな会話さえもかき消されそうな雨音に、通りの人々は頭を抱えて逃げ惑うばかりだった。中には濡れることを厭わないのか、堂々と往来を歩くものもいるが、その姿もまた、町並みと共に霧に霞んでしまった。
男の足は路地を突っ切り、裏通りへと滑り込んだ。様々な商店が軒を連ねる大通りとは違い、住宅が近いこともあってか、人通りはまばらだった。手近な軒下に駆け込み、ふぅっと一息吐く頃には、雨は更に激しさを増して、周囲には雨音だけが響き渡っている。
「……、さて……」
これから、どうするか。
雲の様子からするに、この雨はすぐには止まないだろう。別に急ぐ用事ではないが、ここで長いこと足止めを喰らうのは避けたかった。この軒は意外と狭く、吹き付ける風が雫を運んで足下までぐっしょりと濡らしてしまうのだ――これでは、雨宿りの意味がない。
ああ、どこか。
世界がパッと明滅し、ややあって、空を裂くような雷鳴が響く。
どこでもいい、……この雨を凌ぐことが出来ればいいのだが。
界隈を所在なく彷徨っていた男の目が、ふと、留まった。何気なく視線を遣った先のことだった。その瞳をすっと眇める。
「……、カフェ……ミレニア?」
それはここから少しだけ離れた三叉路の端にある、小さな立て看板だった。雨に濡れ、多少色の変わった黒板には、可愛らしい装飾に綺麗な文字で『カフェ・ミレニア』と描かれている。視線を上げれば、洒落た形の付きだし看板がキィキィと鳴きながら風に揺れている。
――カフェ。
男は目を見張った。
こんなところにカフェがあるとは、なんたる僥倖! そこでなら濡れることもないし、雨宿りをしながら、手持ち無沙汰になることもない。日頃の行いが良いと、運は、こういうところで味方をしてくれるのだ。
肩が濡れるのも構わず急ぎ駆け寄り、逸る気持ちを抑えながら、凝った装飾が施された真鍮の取っ手を握る。そうして、硝子の小窓の向こうに人の気配を確認しながら、ぐい、と一気に引っ張った。
カラン、カラン。
始めに感じたのは、珈琲の匂い。それから、焼き立ての菓子の、甘く香ばしい匂い。静寂の店内にドアベルの音が響き渡り、雨に呑まれて消えていく。
青年は、不意に顔を上げた。
奥まった場所にあるカウンター。重厚そうな黒樫の台の上には、硝子製の大きな抽出機がどんと置いてある。更に奥、壁一面に据え付けられた食器棚にはコーヒーカップやソーサー、デザート皿などがずらりと収められており、それらを背景にして、青年は、すっとその赤い目を眇めた。
癖のある髪の、細身の美丈夫である。ボーダーのシャツにデニム生地のカフェエプロンを合わせている。彩度の低い組み合わせの中で、紐の橙色が実に映える――天候のせいで店内は薄暗く、照明もぼんやりとしていたから、尚更そう感じるのかもしれないが。
「やぁ」青年は言った。微笑んでいるのだろうか、想像よりもずっと穏やかな声だった。「いらっしゃい……どうぞ、お好きな席に」
お好きな席……か。
後ろ手にゆっくり扉を閉め、ドアベルの微かな音色を最後に世界の雑音がすっと遠ざかった。男はひとつ息を吐き、周囲をぐるりと見渡す。
木目調で統一された内装は、ところどころに蒼い天鵞絨の布をあしらい、それぞれを黄金色のタッセルで縁取っている。天井からぶら下がったいくつかのペンダントライトは全て星の形をしており、赤に、黄色に、緑に、淡い色合いで室内を彩る。壁に貼り付き、あるいは端に置かれた観葉植物はあるかないかの風にその葉を揺らし、外を見るというよりは飾りのためについているような洒落た形の窓からは、ぱらぱらと叩き付ける水滴が幾つもの線になって流れていくのが見えた。時折、思い出したようにちかりと光る。
店内に、他の客の姿はない。そればかりか、店員も、カウンターの向こうにいる青年ただひとり。誰も口を開かないとなると、辺りはとても静かだった。くぐもった雨音が小さく響く中を、男は、席を探す振りをしながらゆっくりと歩いて回った。
しかし、……こんなところに小洒落たカフェがあるとは。
調度品はどれもこれも年代を感じさせ、けれど、埃のひとつも被っていない。清掃が行き届いているのは確かだろうが、ここ最近出来たというにはあまりにも馴染みすぎていた。
時々は外に出てみるものだな。そう思い、男は苦笑した。近隣の状況すら分からないようでは、弟のことを笑えまい。
そんな店内の一角には、大きな鳥籠がどかりと鎮座し、周囲を取り囲むように鉢植えの植物が並んでいる。色とりどりの花が咲き乱れ、かぐわしい香りが満ちている。椅子やテーブルが並べられているエリアから少し隔てた場所にあるのは、珈琲の匂いと混じらないようにするためか。はて、鳥の鳴き声などしただろうかと鳥籠を覗き込んでも、そこには真っ白な羽根が一枚落ちているだけで主の姿は見えない。
その傍らには大小様々な絵が、額に入れられて飾られていた。スケッチだろうか、線だけで描かれたもの。色が入り、一枚の絵画として完成しているもの。モチーフはそれこそ、静物、無機物、人物画に風景画と多岐に渡り、花の色と同じような色彩で以て、辺りを鮮やかに彩っている。日の光が差し込む頃であったなら、さぞや壮観な眺めだろう……。
「サンダルフォンさん! 買い出し、行ってきまし――」
カランカランとドアベルの音が鳴り、静寂の中に、雨音が戻ってくる。男は首だけを回してそちらを見遣り、青年は顔を上げ、ああ、有り難う、とだけ返事をした。
少女は。
大きな紙袋を抱えたまま、背中で以て扉を抑え、そこで、そのままの姿勢で、はたと動きを止める。
「お客様、……ですか?」ぱちぱちと瞬いていた大きな瞳が男を捕らえ、そうして、すぐにぱっと綻んだ。「いらっしゃいませ! ようこそ、カフェミレニアへ!」
接客係か。彼女は、男の目の前を、会釈をしながらぱたぱたと足早に通り過ぎる。そうして手近の台に荷物を下ろすと、バッグヤードに消え、ややあって、またぱたぱたと戻ってきた。その手にメニューらしき細長いものを携えて。
空の色を写し取ったような、綺麗な蒼い髪をしている。頭頂部で三つ編みにしてひとつに結わえても尚、腰を多少過ぎるほどの長さがあるその髪は、カフェの暗がりであっても自ら光を放っているかのように煌めいている。青年と同じ、ボーダーのシャツに細身のパンツ、シンプルなカフェエプロンを腰に巻いて、橙色の紐で括ってある。
「お席はどこも空いてますので、どうぞ、お好きなところに」
男はそこで、はたと気付いた。店内の装飾に夢中になって、つい、席を決めることを忘れてしまっていた。急に気恥ずかしくなり、あ、うん、と曖昧に返事をしつつ、そそくさと窓の傍の席に座った。何となく、顔が熱い。
「こちら、当店のメニューでございます」
そんな声と共に俯いた視界に滑り込んだのは、先ほど少女が持っていた、メニューブックだった。黒い表紙には金色の箔押しで『カフェ・ミレニア』と記されており、店のロゴも入って、何とも洒落ている。
「本日のケーキは、当カフェのパティシエ特製、レモン風味のバターケーキ……ウィークエンド・シトロンでございます」軽く息を弾ませながらも、彼女は、にこにこと告げた。「週末に大事な人と食べるケーキ、という意味合いがございます。是非、ご賞味下さい」
「へぇ……」
男は、唸った。少女は一礼し、すっと下がった。後に残るのは雨の音だけだ。それから、雨音の合間を縫う、微かな雷鳴と稲光。
「ウィークエンド・シトロン、か……」
製菓に造詣が深いわけではない。そもそも、雨宿りのために立ち寄ったのであって、腹が減ったわけでもなければ、美味いデザートや、美味い珈琲を味わいたいわけでもない。けれど、少女の言ったウィークエンド・シトロンという名前が、男の心に静かに刺さった。好奇心の芽が、むくむくと顔を出す。
「すみません」
手を挙げて給仕を呼ぶと、先ほどの少女が近付いてきた。メニューを広げ、軽食を何点かと、オススメと書いてある珈琲を頼んだ。それから、
「ウィークエンド・シトロンも、ひとつ」
「はい」
少女はにっこり笑い、メニューを預かって一礼する。サンダルフォンさん、注文入りました! と元気な声を横目に、男は頬杖を突いて窓の外を見遣る。ひゅうひゅうと甲高い音を立てて風が唸り、ぱらぱらと雫が窓を叩く。通りの人々は無事に逃げおおせただろうか。それとも最早諦めて、ずぶ濡れのまま、風雨が弱まるのを待っているだろうか。
あの子も……この、降りしきる雨をどこかで見ているのだろうか。
――雨は未だ、止む気配を見せない。