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    ruicaonedrow

    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    ruicaonedrow

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    セットアップ続き

    WS 1幕後半2.
     耳元で風が唸っていた。
     身体中にバチバチと音を立てて雨粒が当たる。目の前が真っ白に煙るほどの、篠突く豪雨が容赦なく降り注ぐ。前髪が額に貼り付き、雫が頬を流れ、衣服も、防具も、雨を吸ってずっしりと重い。
    「……――!」
     誰かが叫んでいる。だが、この酷い嵐にかき消されて、微かな音としてしか認知されない。彼はそれでも応えるように顔を上げる。前方を睨む。鉄靴を一歩前へ出して、強く、強く踏み込む。
     ――この嵐を鎮めなければ島が沈む。
     腰に吊した剣の柄を握りすらりと引き抜いた。父が遺し、幼少から共にしてきたもうひとつの相棒は、以前からずっとそこにあった物のように手に馴染む。
     ――まずはこの暴走状態を落ち着かせなくては。
     ――出来るのか、出来ないのかではない……やるしかないのだ。
     いつの間に側に来たのだろうか、気配を感じて首を回せば、そこに一人の女騎士が立っている。栗色の髪は濡れそぼち、鈍く光る鎧の表面には幾筋もの水滴の跡が付き、ぐっしょりと水を吸った外套は色味を増して、先端は甲板に落ちて雨に打たれていた。彼女の右手にぶら下がっている得物は、豪奢な装飾が施された細身の剣だった。
    「準備は良いな」
     凛とした声は、近くにいることもあってか、この雨の中にもよく響いた。頷き返せば、彼女はその双眸をきゅっと尖らせ、行くぞ! と声を上げて甲板を駆ける。彼もまた、分かった! と応えて雨の流れる大地を蹴った。己の得物を構える。
     目指す標的は舳先の向こうだった。乱雲の渦巻く空を背景にして、猛り狂う暴風雨の中心に存在していた。虚ろな目をした巨大な女の顔、蛇のようにうねる長い髪、そして、辺り構わず暴れ回る三匹の竜――かつてはこの島の守護神とされていた存在であったが、今はもう見る影もない。帝国軍人の耳障りな笑い声が、頭の端を過ぎった。
     ――大暴走を始めるようにちょっとだけ細工させて貰ったのさ……! この雨風はどんどん強くなって、いずれこの群島はひとつ残らず空の底に沈むだろうね!
     苦しいだろう。辛いだろう。こんな状態は、本望ではない。
     彼はギリ、と唇を噛む。
     ……だから。
     ぐん、と艇の高度が上がる。舳先の先端が標的に近付く。食らい付かんばかりに口を開けた竜どもを間一髪で避けつつ、繰り出される風の刃を、沸き起こる竜巻を、衝撃波で相殺する。「行け!」女騎士が吠えた。「背中は任せろ!」
    「ああ!」
     再度、剣の柄を握り込み、艇の縁を踏んで彼は跳んだ。大粒の雨が頬を殴り、風が塊になって身体にぶち当たる。肌が切れ、服が避け、けれど彼は怯まない。怯むはずもない。ブラウンの瞳をカッと見開き、しっかりと標的を見据え、剣を振りかざした……――


    ***


     その村はアーク・ヴァレーを越えた先、長大なレメゲン山脈のふもとに広がるデピス湖の湖畔にひっそりと存在していた。鮮やかな広葉樹の森に半ばその身を埋もれさせ、さながらアウギュステの水上都市ミザレアのように、湖の上に残りを張り出すような形で。
     家々は山肌に沿って点在し、港から連綿と続く石畳の道が砂利道となって合間を上っていく。山々のあわいから下ってくるせせらぎは清らかな流れをたたえ、森を通って、湖に静かに注ぎ込んでいる。畑には作物がたわわに実り、草原では牛がのんびりと草を食む。
     かつては、妖精女王の棲まう湖だとか恋人同士で訪れたなら必ず結ばれるとか、出自不明の噂が囁かれたものだがそれも無理はない。デピス湖の透明度は高く、湖面は空の色を溶かし込んだように蒼く、無風時には鏡のように周囲の景色を写し取る。緑萌える牧歌的な風景は神秘的な蒼い湖と相俟って、一枚の良く出来た絵画のようであったので。
     ……少年は。
     そんな中、ひとり、桟橋の上に佇んでいる。細身の身体を、橋の欄干に引っ掛けて。
     折からの風が彼の髪をかき混ぜ、湖面の靄を晴らし、小さく波を立てた。ブラウンの瞳を瞬いて風の行く末を見守った後、ひとつ息を吐いてスケッチブックを開いた。そのまま、傍らに置かれたベンチに腰を下ろし、鉛筆を走らせる。
     良い天気だった。空は雲ひとつなく晴れ渡り、鳥がさえずり、木々がさざめく。雨上がりの世界は目覚めたばかりということもあって、清浄な空気に包まれている。
     ぬかるんだあぜ道を手押し車が車輪を軋ませながら通り過ぎ、遠くの畑では老夫婦が炉端の石に座って何やら楽しそうに話し込んでいる。これから仕事に向かうのであろう若者は商売道具を肩に掛け、その横を、誇らしげに鼻を上向かせた犬が付き従う。盛んに尻尾を振り立るその脇を、何人かの子どもがはしゃぎながら駆け去って行く。
    「平和だなぁ」
     少年は、ぼそりと独り言つ。
     絵を飾ってみないか……そう誘われたのはいつのことだっただろう。
     港町の方に画廊併設の喫茶店があって、壁が寂しいらしくそこにどうかと、そのようなことをミナから伝え聞いたのは覚えている。何でも、そこの店主がアンタの絵をいたく気に入っていて、どうしても飾りたいから交渉してくれってさ、と。
     その店主とやらに直接聞いた話ではないから普段であれば断るところだ。しかし、ミナの知り合いだというし、ミナが人を騙すような人間でないことは十二分に分かっているので、いいよ、と快諾した。その代わり、美味しいケーキと珈琲をご馳走して欲しい、と冗談も付け加えて。
     モチーフ選びには、実に難渋した。今まで自己完結であったものを人前に出すとなれば、それなりの完成度がなくてはならない。それに、喫茶店に飾るのならば、洒落たものでないと浮いてしまうだろう。何日も何日も考え、試しに描きだしてみたり以前描いたものを引っ張り出したり、試行錯誤の末にようやく納得出来るものに辿り着いた。
     曰く――自分の見た夢。グランブルーファンタジーという、壮大な蒼の冒険譚。
     それは、主人公の旅立ちから始まる。とある島で暮らしている主人公は空に憧れ、遠く、空の果てにいる彼の父親に会いに行こうとしている。そこへ現れる、青い髪の不思議な少女。運命の出会い、そして束の間の別れ。少女を追う軍から逃げるべく、彼らは、小型騎空艇を駆り島を脱出する。
     ミナが店主とやらに紹介した絵も、その中の一作に過ぎない。身を切るような極寒の地、視界を覆うほどの吹雪と、見渡す限りのモノクロームの世界。とある任務を請け負った主人公とその仲間たちが、優秀なエージェントと共に、敵の本拠地に捕らわれた人質を救出に向かう……その道中の様子が描かれているものだ。
     夢の中で、少年は、かの物語の主人公たる年若い――おそらくは同い年の――騎空士であった。沢山の脅威を退け、沢山の人々を守った。多くの場所へ出向き、多くの出会いと別れを経験した。仲間たちは彼を慕い、彼もまた、仲間たちを愛した。彼の生き様は少年の憧れであり、夢から覚めても尚、心の中に居続けた。虚構の存在とはいえあれほどの臨場感を伴う体験はなかなかない。本当に自分自身があの世界にいたかのような、夢の中とはにわかに信じがたいような、夢と現実の境目が曖昧になるような胸躍る冒険。跳ね起きた後忘れないようにと、何とかしてこの興奮を留めておこうと絵筆を執った。それが全ての始まりだ。
     ――これを仕上げたら。
     ――これを切っ掛けにして、世界のどこかで、僕の絵が飾られるかもしれない。そうしたら……『彼』は気付いてくれるだろうか。今も元気に暮らしていることを分かってくれるだろうか。
     ――もし、……生きているのなら……。
     キュウウゥ。
     腹の虫が、そうだそうだとでも言いたげに一声大きく鳴いた。少年ははっと顔を上げ、それから、小さく苦笑した。腹の辺りに手を遣る。
     そういえば寝しなに食べたきり、水以外に何も入れてはいない。どうせ自宅へ戻ってもまともなものがある訳でもなし、通りを冷やかしながら、どれ、何か食べるものでも調達してこようか。消極的な決意と共にスケッチブックを閉じると、おもむろに立ち上がり、そのまま、ぶらぶら歩き出す。早くも昇り始めた太陽が、少年の姿を薄墨に象って地面にぼんやりと写し取った。
     村で唯一の商店街はデピス湖の東、大きな広葉樹を囲むようにして展開している。石畳の広場には港町から来る乗合馬車の停車場があり、ベンチやら休憩所やらが設置され、商店やら直売所やらが軒を連ねていて、村内でも随一の盛り場となっている。朝も早い時間帯であったが、散歩中の老爺やら暇を持て余した老女やら朝市を狙った主婦などで、周囲は賑わいの中にあった。木漏れ日が揺れ、犬が吠え、鳥が鳴き、日向の猫が欠伸をする。
    「はい、ありがとねぇ」
     近くの飲食店でサンドイッチをひとつと飲料を買い求め、少年は、傍のベンチに腰を下ろした。包み紙はほんのりと温かい。端をめくると、トマトの鮮やかな赤とフリルレタスの緑が即座に目に飛び込んでくる。炙ったハムの香ばしい匂いがふわりと立ち上って、腹の虫が早く食わせろとばかりに騒ぎ立てる。
     さすがに育ち盛りの身でお預けなど器用な真似が出来るはずもなく、スケッチブックを自分の身体に預けるようにして立て掛けると、早速、大口を開けてわしわしと食べ始めた。昨夜の雨で湿った座面が多少尻に冷たかろうと、調味料で口の周りがドロドロに汚れようと、今だけはさほど気にならなかった。
    「ふぅ……」
     食べ終わり、口元を拭い、そうして一息吐いて、空を仰ぐ。昨日の大雨が嘘のように晴れ渡った空は、地平線に雲を這わせたまま、青く、高く、澄んでいる。
     ――あの日。
     不意に、滑り込んだ記憶がある。
     ――そういえば……あの日も雨だった。
     肌を打つ雨粒。泥に足を取られながらも、息を切らせて薄暗い世界を駆け回った。木の陰、建物の周囲、増水した川、真っ黒に淀んだ湖……全ては、書き置きも何もなく、唐突に姿を消した『彼』を探すために。
     ――あれから、三年……か。
     便りなど一度もない。勿論、戻ってくることもない。
     酒癖の悪かった『彼』がその日も港町でしこたま飲んだ後にうっかり足を滑らせてデピス湖に落ちたのかもとか、外をふらふら出歩いているうちに魔物に喰われてしまったのではとか、痴情のもつれから恋敵に刺されたのだとか、散々な言われようだった。けれどそのどれもが、とある事実を示唆していた。曰く、『彼』は死んでしまったのだ、と。
     ――馬鹿なことを言う。
     しかし、否定は出来ない。
     こうして毎日のように、朝一番の便を待つことも、誰もいない自宅でただいまと声を張り上げることも、郵便ポストを奥まで覗き込むことも……途中で何度も止めようと思ったのに結局止めることなど出来なかった。無駄だと分かっていても、やめた瞬間に『彼』の存在全てを否定する気がして嫌だった。
     それに、……ふとした拍子に『彼』は戻ってくるかも知れない。おかえりと迎えてくれるかも知れない。いなくなったときと同様に、唐突に。失踪したのは嘘だったのだと、あれは夢だったのだと、……そう思わせてくれるくらいに、
    「……ないか」
     カランカラン、と鐘が鳴った。少年は、顔を上げた。
     港町の方角から、幌馬車が一台、石畳の道を上ってくる。当初は豆粒ほどの大きさだったそれの形が、徐々に明瞭になる。立派な黒毛の馬の二頭立てだ。後ろに大きな幌を掛けた荷台を引き連れて、少しずつこちらへと近付いてくる。
     石畳を叩く蹄の音。車輪が回り、荷台が軋む。時折、馬がいななく。
     それは、最早見慣れた風景だった。毎日のように繰り返される日課であった。やがて御者の顔が判別出来るほど近くなり、馬車は、颯爽と村の門を潜った。御者が静かに手綱を引き締め、大樹の木陰、停留所の前にひたりと止まる。
     少年は、いつものように馬車を眺めた。御者の挙動を黙って見ていた。扉が開き、ひとりまたひとりと、村に降り立つのを、いつものように、
    「……え……?」
     声が、漏れた。
     思わず立ち上がっていた。けれど、駆け寄ろうする心とは裏腹に、足がその先の仕事を放棄してしまった。膝が笑っていることに気付いたのは、もう少し後のことだ。注意していなければ、崩れ落ちてしまうほどに。
     ただ、少年の目は、真っ直ぐにそれを見ていた。大きく見開いたまま、まじろぎもせず、じっと、それを見つめていた。
     それは、ひとりの青年――……
     ゆったりとした足取りで馬車から降りたその青年は、大地に足を着くと、肩を回しながらゆるりと周囲を見渡している。麻のチュニックに細身のパンツを合わせた恰好は失踪当時の服装とはあまりにかけ離れていたけれど、癖のある翡翠色の髪に赤の双眸、ああ、見紛うことなど、
    「に、……兄さん!」
     声を、上げた。
     掠れたその音は、この賑わいの中に届くかも分からない。それでも。
    「兄さん、……僕は……!」
     身体が震える。しっかり支えていないと倒れてしまうだろう。しかし足はよろめきながらも先へ行こうとする。ベンチの上にスケッチブックと包み紙の残骸を置いたまま。
    「兄さん……!」
    「ん……?」
     青年は。
     不意に、こちらを向いた。その目がはっと見開き、次いでぱっと綻ぶ。
    「おお、我が愛しの弟、セイン・アリュシナオンよ!」まるで舞台役者の唯一の見せ場のように、彼は朗々と謳い上げる。「息災であったか、お前の兄キリエ・アリュシナオンは今、懐かしのこの地に――……」
     その先は続かなかった。
     広げた両手に、その胸に。少年は、強張った足を叱咤して、地を蹴って飛び込んだのだ。ウッと短い呻きは、多少体躯をよろめかせた衝撃は、ここまで心配させた代償としては軽すぎる。そのまま腕を振り上げるが、戦慄くばかりで結局、下ろせはしなかった。
    「馬鹿!」代わりに叫んだ。叫びといえない程の震え声で。「馬鹿、……この、馬鹿兄貴ッ!」
     青年は応えなかった。ただ、吐息をひとつだけ、ふぅっと落とした。
    「……悪かったよ」
     暫くしてぽつりと零した言葉は、しがみつき、むせび泣く弟の耳に届いたか、否か。


     少し飲み過ぎたみたいだ、と歩きながら兄は言った。実は港町で熱烈な歓迎にあってね、つい夜明けまで……はは、そんな顔してくれるなよ、ちょっと昔なじみと飲み比べをしただけさ。あいつを沈めるには多少コツがいるんだが……まぁそれは置いておいて、取り敢えず寝かせて貰えないだろうか。おれが昔使っていた部屋が、まだそのままあるのなら。
     何言ってるんだ。いつ帰ってくるかも分からないのだから、あるも何も失踪した当時のままでいじっていないよ。乱暴に目元を拭って、弟はむくれる。そりゃあ放っておいたら埃まみれになるから定期的に清掃はするけど、基本的にはそのままだ。家具をいじることもない。
    「そりゃあいい」キリエはにかっと笑い、大きく頷いた。「それじゃあ弟よ、帰ろうか、……懐かしの我が家へ!」
     そうして意気揚々と自宅へ戻るなり、彼はかつての自室に籠もり、こんこんと眠り続けた。起こそうかどうしようか、まさか死んではいないだろうなと、セインが気にするほどには。
     そう、……気にするだけだった。実際に行動に移す余裕などなかった。
     何せあれだけ派手に名乗りを上げたのだ。この村は案外狭く、情報が行き渡るのに数時間もあれば十分。つまり、キリエの無事を知った住民たちが、大挙して押し寄せることなど想像に難くない。問題は……当の本人が爆睡しており、全く起きてくる気配がなかったことくらいで。
    「おいおいキリエが帰ったって本当か? 俺ァあいつに貸しがあるんだ、なァに、酒代をいくらか肩代わりしたくらいなんだが……万単位で」
    「良かったねぇセイン、……全く、あの馬鹿を呼んでおくれ、儂からよぉく言い聞かせてやろう」
    「ねぇ、キリエを出してよ、いるのは分かってるんだから。あいつ、うちの代金踏み倒したままなのよ。ねぇ、早くして」
    「キリエお兄ちゃん、遊ぼう。いつもみたいに鬼ごっこしようよ」
     次から次に訪れる来客――老若男女、実にバリエーションに富んでいる――を愛想笑いで追い返しつつ、自分の与り知らぬところで随分と悪事を働いていたんだな、全く、せめていなくなる前に精算しておいてくれよ、とこめかみを押さえつつ、最後の客を捌いたところで気付けば世界は既に夕暮れの中にある。扉を閉めれば外の雑踏が絶たれ、しんとしたいつもの静寂が戻ってくる。
    「はぁ……」
     大きく、大きく息を吐いた。
     いくら刺激に飢えているとはいえど、あそこまで大騒ぎする必要などなかったんじゃないか、とセインは思う。まぁ確かに突然失踪したという前科はあろうが、帰ってきた当日にまたいなくなるほど薄情者でもないだろう。明日も明後日もその先も――兄さえ許せば、ずっとここにいてくれるはずなのだ。言いたいことがあるのなら、そのときにすればいい。
     ――それとも。
     不意に目を遣れば、橙色に染まる室内の床に、くたびれたナップザックが荷解きもせずに放られている。表面には無数の傷と汚れがあって、恐らくは、キリエと共に旅をしたその歴史を静かに物語っている――一筋縄ではいかないような、彼らなりの冒険譚を。
     ――前回、兄が『そのとき』を待たずしていきなりいなくなってしまったものだから、確実にいるであろう『今』を狙ったのかもしれない……けど。
     ――それは、多分僕も、
    「ま、……いいか」
     それ以上を振り切るようにして呟き、セインは、傍の木製スツールに腰を下ろす。目の前のイーゼルには下書きだけ済ませたカンバスが引っ掛かっていたが、続きを進めようとする気にはなれなかった。ただ、ぼうっとそれを眺め遣った。
     艇の甲板だった。
     画面の奥に向かって伸びるそれには、両脇に木箱が積まれ、帆から垂れるロープが幾重にも巡っている。木箱の影には猫がいて大あくびをしている。これから干すのだろうか、洗濯物で溢れかえる籠を小脇に抱えた少女がこちらに向かって柔らかく微笑みかけている。彼女の長い髪は風に煽られてあちこちへ流れていくので、その一房を顔の横で押し止めながら。
     ……そうだ。
     青い、……青い空が、デピス湖の見事な蒼さにも負けじと、彼女たちの頭上に広がっていたのだ。水平線で固まった雲が多少視界に顔を覗かせるだけで、後は綺麗に晴れ渡った空が。目映い陽光は彼女たちの世界にあまねく降り注いでいて、そうだ、ルリアなどは凄く喜んでいたじゃないか。前日まで酷い雨だったのだし、大分洗濯物が溜まってしまっていたのだから、朝も早くから張り切って洗い始めていたっけ。ソラが日向ぼっこをする傍らでビィは林檎を囓り、互いに他愛の無い話をして笑い合い、ユーステスはいつものように銃の手入れをしていて、……あぁそうだ、ユーステスも長期任務から戻ってきた直後のことで、穏やかな風が界隈を渡る、とても平和な日常の一コマだったはずだ……――
    「ふぁ……よく寝たなぁ」
     唐突に響いた声。そして、足音と床板の軋み。
     セインは、冷や水でも浴びせられたように、ハッと顔を跳ね上げる。慌てて首を回せば、階下にゆっくり降りてくる、ひとりの青年の影を見る。癖のある翡翠の髪と、赤い目の……
    「あ……」声は掠れた。心臓が早鐘を打つ。気付けば掌の内側が汗でびっしょりだった。「に、……兄さん……」
     けれど、あれの意味を反芻する間もなく、かの妙な記憶は世界の方々へ霧散した。思考が滑り込んでくる感覚は、後は背筋を震わせるような怖気を残して消えてしまった。何度もブラウンの瞳を瞬き、掌をズボンに素早く擦りつけて、セインは勢いよく立ち上がった。スツールが音を立てて倒れるが、気に留める余裕は無かった。
    「お、お早う兄さん」と言って笑う。否、笑おうとする。「随分と遅いお目覚めだったね」
    「ん、……まぁ」くあ、とキリエは欠伸をかみ殺し、両手を上へやって背中を伸ばす。……特に、セインの異変に気付いた様子はない。「おかげさまですっきりした」
    「それは何より」
     スツールを起こしている間に、キリエは階段を降りきって、棚からグラスを取り出し、傍の水差しから水を注いでぐいと一気に煽った。勝手知ったるなんとやら、というやつだが、別段腹が立つこともない。何せここは彼の家だ――正確にはセインの今は亡き両親のアトリエで、彼らは居候のようなもの、だったのだが。
    「おっ」
     そのキリエは。
     突如驚いたように声を上げて目を見張った。
    「その絵、お前が描いたのか?」
     応える暇もない。まだ絵を続けていたんだな、と感心したように呟いて、キリエはイーゼルに足早に近づき、顎を擦り腰を屈めてカンバスを覗き込んだ。そんなに近付かなくともとセインは思ったが、彼の赤い双眸がじっと熱心に絵を見つめている手前何とも言えなかった。
    「そりゃあ……続けるよ」
     キリエと入れ替わるかたちで遠ざかり、セインはぼそりと言った。
    「だって、……それ以外にやることが、無かったんだし」
     ――兄が、いなくなり。
     ――毎日毎日、狂ったように兄を捜し回り。
     ――けれど戻ってくることなどなく。そればかりに生活が圧迫されるようになって。
     ――誰かが……言ったんだ。
     ――このままだとお前が壊れてしまう、せめて、何か他に心を砕けるものを。
    「そうか」
     委細を問うこともなく会話はそこで途切れた。兄の目はカンバスから離れ今度は壁に掛けられた幾つもの額縁に移っていった。大小様々、装飾も様々に飾られた絵は、静物、無機物、人物画に風景画と多岐に渡り、色のあるもの、ないもの、そもそも下書きだけのものなど、分け隔て無く納められている。ミナに頼まれた絵も幾つか紛れているのは、ひとえに、集めて眺めたときにどんな印象になるのか確認したかったからだ。もっとも、全てが完成しない限りはあまり意味の無い行為ではあるが。
     セインはひとつ息を吐いて、卓の上に散らばった絵の具やパレットをいそいそと片付け始める。教本や資料の類いはひとまとめにして端に寄せ、紙に埋もれてしまった椅子を引っ張り出す。今までは自分ひとりであったからこの辺りにも無頓着でいられたが、流石に兄がいる手前そうもいかない。急遽もうひとり分のスペースを拵えたところで、セインはじとりとキリエを睨め付ける――全く、帰ってくると早くに教えてくれていれば、片付ける暇もあったというものを。
     なので、一通り絵を見終わったのか、キリエが「なぁ弟よ」と話し掛けたときには、セインの姿は部屋の隅にあった。ほうきとちり取りとを持って、床の掃き掃除をしていた。「なぁに、兄さん」と、床の綿埃から目を離さずに応える。
    「腹が減ったな」呑気な声だった。「そろそろ食事にしないか」
    「……」
     吐いたため息は、案外大きかった。
     わざとではないにしろ、キリエがぎょっと目を剥く程に。
    「あのねぇ、兄さん」身体を起こし、向き合い、両手を腰に当て。「いきなり帰ってきたところでうちには何もないよ。野菜の尻尾とか、魚の骨とか、そういうのしかないんだよ」言いながら詰め寄れば、兄は、何かを口ごもりながらも引き攣った笑みを浮かべて、少しずつ後ずさっていく。「もう少しさ、早めに、便りでもいいから知らせてくれれば、僕だって鬼じゃあないんだ、長らく行方不明だったお兄様の華々しい凱旋なんだと、ご馳走を作って待っていたさ」
     歓迎の横断幕でも掲げてね! そこまで言い切り、セインは、もう一つ大きく息を吐く。まぁでも……それが兄だ。キリエ・アリュシナオンという男だ。即断即決がモットーであり、思い付いたら即行動してしまう行動力の化身。ぐだぐだと思い悩み、折角の機会をことごとく逃してしまうセインにとって、いくら破天荒とはいえど憧れる部分でもある。
    「ということで」
     兄が口を開き何かを――多分言い訳だろう――言おうとする前に、セインはぱんと手を打って遮った。
     にっこりと、笑う。
    「食材調達と洒落込もうじゃないか、兄さん。みんな兄さんに会いたがってるし、……色々と『精算』する必要があるでしょう」
    「うっ……! それは、その」
    「逃げるなよ、キリエ・アリュシナオン」
     笑みは決して崩さず、低い声が告げる圧にキリエはヒッと悲鳴を上げ、……次いで、がくりと肩を落としたのだった。


    「――……参ったわね……」


     女騎士は足を止め、周囲をぐるりと見渡した。鉄靴が砂利を踏み込んだらしく、パキ、と小石を割る音が響く。
    「一体、何が起きてるの……?」
     真っ白だ。
     前も、横も、後ろも。頭上も、何なら足下さえも。
     時折吹き込む風がミルク色の霧をかき混ぜて、世界が――草むら、あるいは石畳の道――おぼろげに顔を覗かせるものの、少し経てばすぐにまた、全てが白に沈む。周囲はしんと静まり返り、人の声はおろか、物音すらも聞こえてはこない――自分の息遣い、鼓動、足音を除いては、何も。
     ひとつため息を吐き、首を振って、女騎士は歩き出す。二つに結わえた豊かな金髪の尻尾を、肩口の向こうへと追い遣って。
     さて、事の始まりは何だっただろう。思い出せる最後の記憶は騎空艇に乗ったところで終わっている。そこから何を経てここに辿り着いたのかは、さっぱり分からない。どこかへと放り込まれたかのようだ。夢でも見ているのかしらと思わせる程、唐突に。
     けれど、……夢ではない。無論、幻覚でもない。頬をつねれば当然のように痛むし、肌を撫でる空気の、名状しがたい違和感は決して作りものではない……そう断言できる。女騎士は、彼女の得物――アルベスの槍に這わせた指を静かに握り混んだ。
     例えば……――
     例えば、これが罠だったとしたら、……どうだろうか。気付かぬうちに、得体も知れぬ星晶獣の術中に嵌まっているだとしたら。または、かの『敵』共の卑しい策略なのだとしたら。
     ――あり得ない話じゃあないけれどね。
     何せ心当たりなど掃いて捨てるほどあるのだ。女騎士は、うんざりと肩を竦めた。
     ――ま、……仮に罠であるとしても、進むしかないんだけどさ。
     白は、どこまでも続いている。赤の鎧と蜂蜜色の髪が、金属の擦り合う音を残して濃霧を過ぎる。歩みを少しだけ早め、周囲を警戒しながら、……臨戦態勢を決して崩さず、得物に手を掛けたままで。
     ざ、と風が渡る。霧と女騎士の色とがない交ぜになる。
     彼女は思わず目を瞑った。庇うように腕で顔を覆った。突風と言い換えても良いほどの勢いに、とても目を開けていられなかった。髪が舞い上がり、外套がはためく。
     そうして。
     いきなり……視界は開けた。
    「……は……?」頓狂な声が漏れたのは最早当然といえよう。立ち止まった彼女の蒼の瞳が、驚愕に見開かれ、何度もしばたたく。「何、……これ……?」
     街だ。
     彼女は突然、街中へと放り出された。
     それも、全く見知らぬ場所に。
     恐らくは大通りであろう。さんさんと降り注ぐ目映い陽光の下、そこそこの広さがある石畳の道の両脇に、建物がずらりと軒を連ねている。鮮やかな緑を茂らせた街路樹の根元にはベンチが置かれ、傍に設置された花壇には色とりどりの花が咲き誇っている。洗濯物がはためき、水路のせせらぎが遠く響く。
     うららかな日である。平穏で長閑な、どこにでもある日常の風景である。
     ただひとつ……人通りが皆無であることを除けば。この界隈のどこにも、人の気配が一切感じられないところを除けば。
     ――どういうこと……?
     女騎士は眉をひそめる。訝りながらも、足を踏み出す。石畳を叩く固い感触は紛れもなく現実のそれではあったが、瞬間ぞくりと背筋を駆け上がった感覚は、気のせいで片付けられるものではない。もしかしたら、……あぁそうだ、もしかしたらここは元々往来が少ない箇所なのかもしれない、通りを一本違えたのなら、危惧するようなことは何も起こっていないのかもしれない。この平和な町並みに相応しい光景が、当たり前のように広がっているかもしれないのだ……鉄靴が、知らず歩度を速める。
     用水路に架かる橋を渡り、誰もいない十字路を北へと進む。やがて見えてきた噴水は盛んに水を噴き上げていたが、回りのベンチにはやはり誰も座っていない。周囲を見渡しても、風が木々を騒がせる音や水の音だけが響くばかりで、どれだけ耳を澄ませようと、人の声など聞こえてはこない。
     ――どうなってんの……?
     酒場なのだろうか、通りに面して開かれた扉の向こうにはテーブルや椅子が雑然と並べられ、食欲をそそるような香ばしい匂いが漂ってくる。けれど店員らしき姿はどこにもなく、門を潜ったところで誰も迎えてはくれない。そもそもの気配がないのだ。声を出して呼ぶことすら憚られるほどに。
     調度品はどれも綺麗に整理され、埃ひとつ被っていない。壁際に山と積まれた酒樽も、石造りの壁に引っ掛かった謎の剥製も、テーブルに置かれた煤けたランプも……人がいないことを除けば目立って不自然な点はない。それはどの広場、どの建物、どの通りに於いても同じことであって、
     ――住民は、一体どこへ消えたの?
     ぐるりと周囲を一通り見回ったところで、女騎士は首を傾げる。一応港らしきところも行ってはみたのだが、木箱や商品が積まれているばかりで他に何もなかった。艇も同様だ。しんと静まり返る市場の片隅で、生け簀に入れられた魚たちが悠々と泳いでいる姿は、却って不気味に見えた。
     ――一体、何が起こって、こんな……、
    「……」
     女騎士は、ひたりと足を止める。
     一際大きな三叉路。静寂の中で葉擦れだけが響き、花壇の中で花々が揺れ、立ち止まったままの女騎士の金髪をふわりと舞い上げた。唇を真一文字に結んだまま周囲に素早く目を遣り、彼女は、さて、と呟いて静かに得物を握り込んだ。
    「レディの後を付けまわすなんて、随分と高尚な趣味を持ってんじゃない」誰もいない世界に、彼女の声が朗々と響き渡った。アルベスの槍の先端に、ぼうっと青白い光が灯る。「そろそろ顔を見せなさいよ、さもなければ」
    「ゼタァ!」
     瞬時、聞こえた声。
     けれどそれは、女騎士の――ゼタの意識の外にあった。え、とだけ零し、驚きに目を見張る彼女に、その腕の中に、何かが飛び込んでいく。迎撃の構えを取るが当然間に合うはずもなく、悲鳴を残し、そのまま背中から倒れ込む。アルベスの槍が、彼女の手を離れ、石畳の上に落下してガランと乾いた音を立てる。
    「痛た……」腰をさすり、顔を上げると。「って、……ベア?」
     栗色の長い髪が、その髪をひとつにまとめる青いリボンが、彼女の眼前でひらりと揺れた。
     ゼタと同じデザインの鎧を群青に染めた、もう一人の女騎士――ベアトリクス。それが、ほぼ反射的に起き上がり、土埃を払って、彼女へ向けて手を差し伸べている。
    「良かった、……ゼタ、ゼタだよな?」心配そうに、けれど嬉しそうに、茶色の瞳を笑わせる。「何だ、ゼタも『呼ばれた』のか」
    「え?」
     何、今なんて……『呼ばれた』? 『呼ばれた』……って、何に?
     二の句が継げず、差し伸べた手に縋ったまま固まるゼタを見て、ベアトリクスは眉尻を下げ、困ったように頬を掻いた。「まぁ……その……」と言葉を濁しつつ、横目で周囲を探り、声を潜めた。「取り敢えず、詳しい話は後だ。ここじゃあ、誰が聞いていないとも限らないしな」
     ――罠。
     ゼタの脳裏に、不意に閃く言葉がある。
     ――そうだ、例えば……これも罠なのだとしたら。こうやって親しい者の姿を模して、あたしを嵌めようとしているのだとしたら……?
     否。ゼタは立ち上がり、首を横に振る。例え罠だとしても構わない。今はただ、情報が必要だわ。この状況を打破出来るか、あるいは、……そう考えながら、大地に転がったままのアルベスの槍を拾うとその柄に静かに握る。極めて自然に、けれど、警戒は解かぬままで。
    「こっちだ」
     ゼタは。
     そうして先導して駆けていくベアトリクスの背中を。
    「ちょっと、待ちなさいよベア!」
     などと、踊るポニーテールの尻尾を見つめながら追い掛けていくのだった。

    「――……やれやれ……」

     やがて。
     静寂の戻った街並み、その建物の片隅から、ひょっこりと覗く人影がひとつ。
    「いやぁ、危ないところだった」風景に溶けていく足音と二人の女騎士とを見送りつつ、その姿が完全に消えた辺りでようやく苦笑して、後頭部を掻く。「流石は星晶獣を狩る者たちだな、全く、油断ならない」
     それは、ひとりの青年。目深に被ったフードからは、癖のある翡翠色の髪と、鮮やかな紅玉の双眸が覗く。くるぶしを覆うほど長い外套の端が、彼の動きに従ってゆるやかに揺れた。
    「……しかし、これで五人……『彼』を入れて六人か」
     不味いな、と呟き、目を眇める。
    「早くなにがしかの手を打たなくては、……」
     風が吹いた。
     言葉尻を攫い、木々を騒がせ、土埃を舞い上げ、青年の外套をばたばたとはためかせ……――
     まもなく風が収まり……再び、しんと静まり返る界隈には最早何もなかった。そこに確かにいたはずのひとりの青年の姿も、その気配でさえ、……何も。  
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
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