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    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    おたのしみ

    WS 3章後半5.
     診療所の看護師――ネイザリィ・マルクスは、書類の上を走るペンを止めてふと顔を上げた。視線の先、大きな窓からは綺麗に晴れ渡った空が見える。
     収穫祭を間近に控え、街はにわかに活気づいていた。多くの家々は軒先にスワッグをぶら下げ、カボチャやパプリカを始めとした色とりどりの野菜で玄関を飾り立て、木の実を編み込んだリースを壁に取り付ける。街路樹は鮮やかなオーナメントと沢山の電飾を纏い、その一部は傍の花壇にまで溢れてきている。夜になればそれらの飾りはピカピカと煌めいて、まるで星空がそっくりそのまま街中に落ちてきたような、ロマンティックな風景となるはずだ……ネイザリィは終業後に大通りを歩きつつ、居並ぶ露店を冷やかしながら装飾を眺めるのを毎年の楽しみとしていた。恋人が隣にいたのなら雰囲気も手伝ってムードを大いに盛り上げてくれるだろうが、生憎ネイザリィは独り身だ。寂しくないとは言い切れないにせよ、誰に気を遣うこともなく一人で祭りを楽しむことが出来るのも、シングルの特権だと感じている。このことを同僚に話すと、強がっちゃって、と一笑に付されるのだが。
     ただ、収穫祭は良いことばかりを連れてくるわけでもない。心が浮き立つのは街も人も同じ。そのため、つい、注意力が散漫になりがちで、思いも寄らぬ怪我で運ばれてくるものが増えてくる。やれ路面で蹴躓いた、やれ調理中に火傷をした、そういう些細なものならまだ良いのだが、中にはいるのだ。機材に手を挟まれただの、はしごから転落しただの……今まさに診療所に入院しているセイン・アリュシナオンも、そのうちの一人であった。
     何でも、黒猫亭の飾り付けの最中だったという彼は、ふとした瞬間に足場をぐらつかせそのまま落下したのだという。さほど高さがないから良かったものの、床に後頭部を打ち付け意識を失った。そのため傍にいた彼の兄――キリエ・アリュシナオンがすぐに診療所へと運び込んだ。黒猫亭からは通りを一本違えればすぐに辿り着く。現場に近かったことも幸いした。
     セインの経過は良好で、後頭部に小さなたんこぶが出来たくらいで特に目立った外傷もなく、運ばれて数分で意識を取り戻した。神経所見も問題ない。ただ、ネイザリィは彼の言葉にある種の違和感を覚えた。
    「あのエルーンの青年は……一体、どうなったんですか……」
     妙な話である。
     当時付き添っていたのはキリエのみ、黒猫亭にもマダム・マーサだけだったという。入院患者にも、エルーンの青年などいない。夢でも見ているのか、それとも何らかの記憶と混同しているのか。しかも、話はそれだけで終わらなかった。
    「乗っていた小型騎空艇が墜落して、大怪我をしていたから……」
     頭を打っているのだから、その影響で幻覚を見ているのかもしれない。彼の肥大化した妄想なのかもしれない。しかし、彼の話には本当に体験してきたかのような妙な一貫性と具体性があった。曰く、数日前にアーク・ヴァレーに小型騎空艇が墜落した。乗員は大怪我をしたエルーンの青年がひとり。セインは崩れ落ちる彼の身体を支えようとして失敗し、一緒に倒れ込んだのだ、と。頷いて話を聞きながらも、ネイザリィの看護師としての直感が、これはおかしいぞと即座に警告を発した。
     すぐにでも帰宅できる状態であったセインを引き留め、数日間の入院を勧めたのも、ネイザリィの機転によるものだ。話の分かる医師で良かった。自宅へ戻っても彼の兄は日中不在、他に親族もいないというので、何かあっては困ると思ったのだ。
     ――結局、良くはならなかったけど……。
     ふぅっと息を吐き、卓の上に置かれたカップを手に取る。猫舌故、紅茶が冷めるのを待っていたのだがすっかり冷え切ってしまった。くい、と煽ると、渋みを強く感じた。
     かの妄想が日常生活を送るにあたっての妨げになるかと言うとそうではない。どこかが動かないとか酷く痛むとかは一切ないのだし、妄想を否定されたからと言って暴れ出すような、攻撃性のあるものでも勿論ない。彼はただ不可解な顔をして、空っぽのベッドを静かに見つめている。彼の目は、そこにエルーンの青年を見ているのだろう。小型騎空艇が墜落し内部から救出されたという青年は、酷い火傷と怪我を負い、ベッドに寝かされているはずなのだから。
    「さて、……と」
     膝を叩き、ネイザリィは立ち上がった。休憩時間もそろそろ終わり、次の組と交代して仕事に戻らねばならない。件のセイン・アリュシナオンは本日、めでたく退院となる。兄のキリエは仕事があって迎えに来られないと言っていたので、荷造りくらいは手伝ってやらねば。
     書きかけの書類をまとめ、卓に広げたお茶のセットを片付け、冷めた紅茶を一気に飲み干す。空の食器を洗い場で軽くゆすぎ、椅子の背もたれに引っ掛けてあったカーディガンを羽織ると、そのままカルテを手に、彼の病室へと歩き出した。


     お大事にどうぞ、の声を背に大通りへと出れば、賑やかな往来がセインを出迎えた。ナップザックを背負い直し、家々や木々の装飾をぼうっと眺め遣り、ふと思う。そうか、そろそろ収穫祭の時期になるのか。道理で何となく騒がしく感じるわけだ。
     入院期間はたかだが一週間程度であったとはいえ、久々に戸外へ出たのなら、もう何ヶ月も拘留されていたように感じる。なまじ身体は元気だったので、自由に動くことの出来ない生活は退屈以外の何ものでもなかった。兄が差し入れてくれたスケッチブックがなかったら、暇を持て余していたことだろう。もしかしたら、眠くもないのにベッドに横になり、ごろごろと無為な時間を過ごしていたかもしれない。
     けれど、解放されたはずのセインの表情はひどく険しい。歩き出したところで変化はなく、ブラウンの瞳は自分のつま先ばかりを追い掛け、視界に他の人が入り込もうと動じることはない。
     ――不可解なことがあった。
     目覚めてすぐかもしれないし、入院して暫くした後のことかもしれない。ただ、酷い違和感を覚えて誰彼構わず話し掛けたのは覚えている。何人も、……何人も。
    「アーク・ヴァレーの墜落事故……?」
     返答は図ったかのように同じ。皆一様に不思議そうな顔をして、知らないと……覚えていないのではなく、知らないのだと答える。確かに港町とアーク・ヴァレーは距離があり、耳をつんざく程の炸裂音もここでは風のいななき程度であったのかもしれない。けれど、当時どこから沸いたのかと思うほどの人だかりが現場にはあって、重軽傷者が出ているというのに誰一人として墜落事故を知らないなど……そんなことが本当に起こりうるというのか。
     ――一体、あの人はどこへ行ってしまったのだろう。
     酷い火傷と怪我で、生きているのがやっとという有様であったエルーンの青年。アーク・ヴァレーの墜落事故の当事者であり、小型騎空艇の乗員でもあった彼は、セインが目覚めたときには既に、傍にいなかった。かなり酷い状態であったので、もしかしたら他の病院……こんな小さな診療所ではなくもっと整った設備のある島へ運ばれたのではないかと思っていたのだが、どうやら違うようだ。そもそも、墜落事故さえ起こっていないような状況で件の青年だけが運ばれてくる意味が分からないし、彼の存在すら疑わしい。
     ――事故は全部、夢であった、……とでも……?
     あり得ない話ではない。臨場感を伴う夢など今まで何度も見てきた。けれど、今回は何かが違う。産毛を炙られる感覚も、周囲の焦げ臭さも、青年を助けたときの感触も、セインは覚えている。肌を伝うぬるりと生温かな液体も、鉄錆の匂いも、ずしりとのしかかる重みと共に感じた微かな鼓動と熱さも……全部覚えている。忘れられるはずがない。
     ――なら、僕は何故、診療所に入院する羽目になった……?
     担当する看護師によれば、黒猫亭の飾り付けを手伝っていたときにバランスを崩して、後ろ向きに落下したのだそうだ。頭を打ったのだから前後の記憶が曖昧でも仕方がないと言われたのだが、どうにも納得がいかない。大体、黒猫亭の名前くらいは知っているが、一度も入ったことがないのだ。常に飲み歩いている兄――キリエならともかく。
    「何がどうなってるんだよ……」
     はぁ、と特大のため息と共に独り言を吐き、足を止めて見上げた空は自身の心とは裏腹に雲ひとつなく晴れ渡っていて、陽光が世界にあまねく降り注いでいる。南天を巡る太陽を横目に、旅客あるいは貨物用の騎空艇だろうか、ごま粒のような点がいくつも通り過ぎていく。目に映る日常は昨日と何ら変わることもなく、何だか自分ひとりばかり取り残されたような気分に、セインはぞっと背筋が冷えるのを感じた。思わず、自分の腕を身体に巻き付ける。
     ――とにかく、兄と合流しなければ。
     事故が起きたときキリエは確かに傍にいたのだし、何ならセインや、かのエルーンの青年が搬送されるところも目撃しているはずだ。身内が怪我をしたというのに、無視をするなどという無下な選択ができるような男でもない。そうだ……兄に会えば、全てが明らかになる。この、得体の知れない違和感の正体もはっきりするだろう。セインは大きく頷き、まずは村へ戻らねばと、馬車の停車場のある噴水広場へと足を向ける。
     収穫祭が近いせいもあるだろう。往来は何やら楽しげな雰囲気で満ちていた。街路樹は綺麗に飾り付けられ、陳列窓の内側はカラフルな野菜たちが整然と並べられ、周囲には甘い匂いが立ちこめる。歩けないほどではないが通行人は意外と多く、彼らは時々道の真ん中で立ち止まってしまうような有様なので、ぶつからないように注意する必要があった。喧騒は様々な話題を伴って耳元を行き過ぎるが、笑い声や物音が被さり、ひとつひとつを吟味できるほど明快ではない。平時であれば聞こえる鳥のさえずりも水路のせせらぎも、今このときだけはざわめきのあわいに溶け込んでしまっている。
    「……ん?」
     セインがふと足を止めたのは大きな橋のたもと、ちょうど、診療所から下ってきた道が大通りと合流する場所であった。右へ折れると港へと至るこの通りは謂わば繁華街のようなところであり、大きな噴水を中心とした広場に、酒場やら喫茶店やら飲食店やらが軒を並べている。いつ行っても人通りが多いので、田舎暮らしのセインは辟易してしまうのだが、今日は何だか勝手が違った。微かな違和感にセインは目を細める。
     確かに、人は多い。目抜き通りなのだから当然だ。ただ……違うのだ。何かがおかしい。だが、それが何を示すのか明確に言語化できない……
    「ッ……!」
     突如感じた視線に、セインは、弾かれたように後方を振り返る。思わず止めてしまった呼吸を細かく切り崩して吐き出しながら、ブラウンの瞳を何度も何度も瞬く。
     そこにあるのは、変わらぬ街の日常だ。何もかもが先ほどと全く変わることのない、いつもの光景だ。しかし、違う。何かが違う。何かが……誰かが、こちらをじっと見つめているのだ。姿は見えずとも、はっきりと分かるほどに。
     足が、知らず後退する。通行人が奇異な目でセインを見遣る。木々。家。揺れる看板。石畳の道。足下の猫。セインの視線はあちこちを彷徨い、呼吸が徐々に切迫する。得体の知れない感覚に、総身に戦慄が走った次の瞬間、セインは身を翻して駆け出した。往来に溢れる人混みに、その身を滑り込ませる。
     人々は勿論驚いた。驚いたが、大勢の無関心がセインを覆い隠した。ナップザックを抱え、酷く怯えた顔で駆けていく少年を、誰一人として邪魔する者はいなかった。それどころか、巻き込まれては御免だと自ら道を譲る始末だった。
     視線は尚も後ろを追随する。べったりと貼り付くような感覚が、確かに背後にある。
     セインは後ろを振り返りたい衝動を必死に抑え込んだ。『それ』を確認してしまったのなら、確実に足が竦んで動けなくなる……そうなったら終わりだと確信していた。そうだセイン、考える前にとにかく足を動かせ。先に噴水広場にまで降りてしまえば、奴は、諦めざるを得ない。
     ――え……?
     急に挟まれた妙な思考に戸惑う間などない。石畳を踏んだセインの足はそのまま角を曲がり、大きな太鼓橋を渡っていく。息が切れて、胸が苦しい。しかし、立ち止まるわけにはいかない。
     ――そうだ、セイン。走れ。ただ、走れ。
     ――大丈夫。あそこで『彼』が君を待っている。だから、走るんだ。
    「一体何を、……ッ!」
     ざ、と風が渡った。人混みが途切れ、視界が一気に広がった。
     目の前に見えるのは大きな噴水。近くにある待合室の外には、二頭立ての立派な馬車が繋がれている。息せき切って駆けてくるセインの姿を認め、御者らしき年かさの男が片手を挙げた。そんなに急がずとも間に合うと言いたげに、困ったように笑っている。
     声は消えた。不気味な気配も視線も、いつの間にか消え去っていた。セインはようやく後ろを振り返り、肩越しに何もないことを認め、馬車に駆け寄りながら徐々に速度を落とした。殆ど全力で走ったので鼓動がドッドッと暴れ、停止しても尚呼吸は苦しく、頬が熱を帯びる。
    「まぁ、落ち着いて、まだ大丈夫だよ」御者らしき男がのんびりと話し掛ける。「準備が出来たら出発するからね」
     切れる息の合間に礼を言おうとするが声が詰まり、けほ、とむせ込んでしまう。仕方なくセインは軽く会釈をして、そのまま馬車に乗り込んだ。座席に着くとナップザックを前に持ち替え、ふーっと大きく息を吐いて身を沈め、
    「う、わっ……」
     予期せぬ揺れに、身体がぐらりと傾いだ。当然バランスを立て直せず、横に倒れ込もうとする間際に、隣に座っていた誰かの身体の側面にとんと引っ掛かった。鼻先にふわりと硝煙の匂いを感じ、セインは「ご、ごめんなさい!」と反射的に謝って慌てて身を起こすが、当の本人は気にしていないとでもいうのか全く何の反応もなかった。セインはそのまま座席に座り直し、次いで、ちらりと横目を走らせる。
     青年のようだった。
     よう、というのは、薄汚れすり切れた分厚い外套ですっぽりと全身を覆い、フードを目深に被っているため、僅かに覗いた口元からしか情報を得ることは出来ないからだ。引き締まった体躯に褐色の肌と銀糸の髪、頭頂部から張り出した二つの山は獣耳だろうか。ドラフ族でここまで細身の男など見たことがないので、彼は恐らくエルーン族なのだろう。そんな彼はふいと顔を逸らしたままで、頬杖を突いて外の景色を眺め遣っている。
     馬がいなないた。御者が手綱を上下に揺すり、大きな車輪がギィギィ軋む。四角く切り抜かれた二つの窓の外、街の風景がゆっくりと後方へ流れていく。北門を抜けた乗合馬車は午後の日差しをたっぷりと浴びながら、村へと続く石畳の道をひた走る。この分だと日没までには辿り着けるはずだ。
    「ねぇ、……本気なの」
     そんな声が聞こえたのは、ちょうど、行程の半分ほどを消化した頃だったか。心地の良い揺れに直近の疲れもあってついうとうとしていたセインは、ぼそぼそとした話し声に目を醒ました。壁に寄りかかるようにしていたので、かのフードの青年に迷惑を掛けていないと思うのだが、妙な体勢であったのか、身体のあちこちが微かに痛んだ。
     声の主は相向かいに腰を掛けた細面の婦人であった。困ったように眉根を寄せている。その隣、ちょうどセインのはす向かいに座っている痩せぎすの男が、首を横に振った。「君は気付いていないだろうけど」はぁ、と息を吐く。「あの街は危険だ。皆はそれが分かっていないんだよ」
    「そうは言うけど、いきなりすぎるでしょう。昨日の今日だなんて」
    「仕方ないだろ。あのまま街へ居続ければ、次の標的は僕らかもしれないんだ。脱出するのなら早い方がいい」
     何やら物騒な話だ。しかしあまりじろじろ見るのもどうかと思い、セインは腕を組んで目を瞑り、眠ったふりをし始める。森の傍を通っているのだろう、小鳥のさえずりと木々の葉擦れの合間にささやかなせせらぎを聞く。
    「お義母様も驚くわよ、こんな……」
    「母さんに迷惑は掛けないさ。ひとまず、かくまって貰えればそれで良いんだから」
     男の決意は変わらないようだ。婦人はずっと困惑している。でも……、と反抗するもののそこから先が続かないらしく、わずかな沈黙が降りる。
    「アーク・ヴァレーの件は君も知っているだろう。……一週間ほど前、行方不明だった六人の男女が相次いで死体で見つかったっていうやつだ」
     アーク・ヴァレー……セインの心臓がドキリとひずんだ音を立てた。けれど、男の口から語られる事件はセインの知っているものとは随分と趣が違う。小型騎空艇の墜落事故ではないのか、それとも、墜落事故の前後に男の語る事件があったというのか。セインは目を瞑ったまま、耳をそばだてる。
    「あの中に僕の古い友人がいたのは、君も知っての通りだ。ただ遺体の損傷が激しくて、僕は最後、彼に会うことすら叶わなかった。彼はそのまま空の底に葬られたと聞いた。ただ……」そこで男は言い淀み、小さく息を吐き出し、短く呻いた。「ああ、……でも、こんな話をしたのなら、君は多分僕の気が触れてしまったと思うだろう。確かに、僕は狂ってしまったのかも知れないな、……だって、僕はつい先日、街の人混みの中に確かに彼の姿を見たのだから。見紛うはずがない。あれは確実に、死んだはずの彼だ」
     婦人がはっと息を呑んだのが分かった。男は一呼吸置き、相も変わらず話し続ける。胸のつかえを下ろすかのようだとセインは感じた。友人の死を信じたくないがあまりに見てしまったであろうものを吐露して、混乱している己の心を整理したいのかもしれない、と。
    「ただ、彼についてはどうしても不可解なことがある。何故彼はアーク・ヴァレーになぞ出掛けたのだろう。あんな寂れた場所に一体何の用事があったというのだろう。それに、家族の誰にも行き先を告げないなど、……そんな不誠実な真似をする男だったか。いや、……少なくとも僕の知る彼は違う。違うはずなのに」
     ――彼の友人は、本当に死んだのだろうか?
     尚も続く男の話を聞きながら、セインは考えた。
     ――彼はおそらく、友人の死を人づてに聞きはしても実際に自分の目で確かめた訳では無いのだろう。だとすれば、友人が死んだというのは単なる語弊で、事実は全く異なるのではないか……三年前に突如行方不明となり、一部では死んだとされていた僕の兄のように。
    「彼は、死んだ。……それは本当だ。残念ながら」
     男はぽつりと呟いた。セインの勝手な推察に反論するかのごとく。
     セインはどきっとして目を開けるが、視界の端の男は未だ俯いたままだ。男を気遣わしげに見つめる婦人も、横顔が向ける視線の先にセインを映すことはない。
    「では、僕が見た彼の姿は一体何だったのか……そこで気付いたんだ。もしや」男はそこで言葉を切り、ため息の後に低く呻く。「入れ替わってしまった、のではないか……と」
     ――え……?
     セインは、婦人は、殆ど同時に顔を跳ね上げ目を見張った。
    「入れ替わる、……?」婦人の声は酷く掠れ、か細く震えている。「どうして、そんな」
     一体、何と……そう続く言葉が、聞こえたか否か。
    傍らのフードの男が不意に顔を上げた。ふぅっと息を吐き、ぽつりと零す。
    「……来る」
     途端、セインの背筋を駆け上がったのは、悪寒ともつかない、名状しがたい怖気であった。全身がゾッと総毛立つような言い知れぬ恐怖感、確かに覚えがある。そうだ、……港町で感じていた、あの……!
    「う、うわぁあぁああ!」
     絶叫が耳をつんざいた。
     何が起きたのかと認識する間などない。立ち上がりかけた身体が大きく揺さぶられ、傾き、よろめき、一瞬の暗転の後に金切り声が上がった。馬がいななき、轟音がとどろき、続いて土埃が視界を覆い、小石が、木っ端が、激しく叩き付ける。
     しかし、セインの小柄な身体は、大地に激突する間際に誰かに捕らえられた。力強いその腕は、その主は、何かを叫びながらセインをぐいと引き寄せた。頬に当たる、乾いた革の感触。微かな硝煙の匂い……
     セインはぎゅっと目を閉じる。手を伸ばし、縋るように、声の主にしがみつく。
     ――あ……。
     ふと、気付くことがある。この感覚を、……知っている。
     ――君は、まさか……
     ――……ユーステス……?
    直後、全身を襲った衝撃は、セインには届かない。セインを庇うようにして抱き留めた誰かのおかげで相殺された。一瞬だけ息が止まるがそれだけだ。衣類にぴたりとくっついた耳が鼓動を拾い、セインは目を瞑ったまま息を堪え、ただじっと流れに身を任せる。
     そうして訪れる静寂。もうもうと上がる土煙が、二人の姿を完全に覆い隠す。
    「おやおや……」声は、唐突に上がった。「これはこれは……なんたる僥倖。かような場所に特異点と……武器の契約者とが揃うとは」
     ざらざらとした、耳障りな声だった。御者や痩せぎすの男、婦人、フードの青年、そのどれとも異なる声は、セインのすぐ近くで嗤っていた。生者ではない、とセインの直感が告げる。こいつは、……生きている者では到底為し得ない音で話している。
    「成る程のう……かようにして特性を無力化するとは、あの男もよう考えたものよ。此奴らの御首級を持ち帰ったのなら、さぞ主様もお喜びなろうて……」
     背後でぶわりと殺気が膨らんだ刹那、セインの身体は、唐突に横に投げ出された。はっと身を起こしたその先で、銃声と共に、射出された銀色の線が宙を切り裂いた。ギャアッと断末魔が上がり、土埃の向こうで、ゆらぐ黒影がどちゃりと溶け落ちていくのを見る。腐臭が漂い、くくく……ハハハ……と、地に轟くような哄笑を聞く。
     長身痩躯の青年はそこに、セインのすぐ傍にいた。セインを守るかのように半歩斜めに立ち、じっと前方を睨んでいた。いつの間にかフードが外れ、外套が風を受けてふわりと揺れる。その姿に、セインは、あ、と小さく声を上げる。
     褐色の肌に、片面を覆う銀糸の髪。頭頂部に張り出した大きな獣耳は、周囲の気配を探るようにしてピンと立っている。ふぅっと息を吐いて構えていた銃を下ろすと、バチ、と電撃が銃身を這った。
     ――彼は……。
     大地にへばりついたまま、セインは視線だけで青年の動きを追う。見覚えのあるその容姿を、何とか記憶の沼からさらおうとする。
     ――どこかで……。
     そのときだった。
     青年の真横、土埃の向こうに不意に現れた墨染。それは徐々に、徐々に膨れ上がり、やがて異形の女性となって現れる。土気色の肌を持つ女の肩から先は鳥の翼となり、鋭い鉤爪の付いた先端に鈍く光る杖を持っている。頭頂部の冠羽は長く垂れ下がり、ところどころに豪奢な装飾が施されたウィンプルは彼女の頭部をすっぽりと覆っている。顔面の殆どは得体の知れない金属で覆われ、表情までは窺い知ることが出来ない。
    「チッ……!」
     青年の反応は僅かに遅れた。振り向く眼前には既に、女の得物が迫っていた。銃を向けるにはあまりにも近すぎ、あまりにも遅すぎる。女は勝利を確信し、ニタリと口角を引き上げ、……
    「ユーステス……ッ!」
     セインは叫んだ。叫んで起き上がり、大地を蹴った。青年を突き飛ばし、ついでに、彼の腰に引っ掛かっていた鞘から短剣を抜き取り、今まさに青年を襲おうとしていた一撃を間一髪でかわすとそのまま女の懐に潜り込む。青年が息を呑み、目を見張るのが分かった。グラン、と微かな呻きがこぼれ落ちる。
    「やあぁっ!」
     気合い一閃、逆手に持った短剣が女の腹部に深く突き刺さる。体液がどっと溢れ、セインの手を、腕を伝って垂れ落ち、大地をしとどに濡らす。女は唸り、激しく身を捩り、杖を振り回して何とかセインを引き剥がそうとするが、セインは怯まずに一歩踏み込み、柄を両手で握り込み、得物がずぶりと肉に埋まる感覚だけを頼りに、一番深いところで横向きに引き裂いた。ギャアッと甲高い声を上げて女は霧散する。後に残るのは、ガランガランと鈍い音を立てて転がった、彼女の得物のみ……
    「あ、……」
     セインはガクンとへたり込んだ。急に全身の力が抜けて、立っていることすら叶わなかった。心臓は滅茶苦茶に打ち付け、息が切れ、歯の根が合わない。目の前がくらくらする。
     ――い、……今の、は。
     得物を握る手は酷く震えていた。肩の辺りまで体液で濡れそぼち、一部は先端から地面に垂れ落ち、握ったままの短剣はまるで自分の一部となってしまったように離れない。
     ――……僕が、……やったのか……?
    「……、……」
     パキ、と小石を割り、俯いた視界に鉄靴のつま先が入った。セインがはっと顔を上げるより前に、眼前に差し込まれた銃身の先端が、そのままセインの顎をすくい上げた。セインの目の前に現れたエルーンの青年は、アシンメトリーの前髪の下、アイスブルーの双眸を鋭く尖らせて、こちらを静かに見下ろしている。
    「おい」低い声だった。その響きは、有無を言わせぬ妙な迫力がある。「お前……一体、何者だ」
    「え……?」
     声が掠れ、喉がこくりと鳴る。戸惑い、ブラウンの瞳で見返す先、青年は目を眇めている。
    「俺の何を知っている?」まさか、と呟き、セインの喉に突き付けられた銃の先端がぐっと押し込まれるのが分かった。「……『奪った』のは、お前か?」
    「う……っ……」
     答えようとするのに、否定しようとするのに、喉が詰まって言葉にならない。震える手では銃をはね除けることも出来ないので、セインはただ黙って青年を見上げた。唇を引き結んで、彼の双眸を真っ直ぐに見返す。
     目を逸らしてはいけないと、セインは何故か、強く思った。目を逸らしたなら、彼の言葉は本当なのだと認めることになる。彼は当然失望するだろう。……あぁそうだ、彼は信じたいはずだ。僕が無関係であること。自分の敵ではないこと。『奪った』のは僕ではなく、他の、
    「はい、そこまで!」
     沈黙を切り裂き、突如上がった声。
     セインは、そして青年は、ほとんど同時に声の方を向いた。風が吹き、周囲の土埃が拭い取られ、……蛇行する石畳の道の上にすっと立つ、ひとりの若い男をあぶり出した。男は癖のある翡翠色の髪を風に遊ばせながら、赤い双眸でもって、対峙する二人を遠くから眺め遣っている。
    「兄さん……」
     セインが掠れ声で呟くと。
    「全く、……お前らこんなところで何してるんだよ」若い男――キリエ・アリュシナオンは足早に近付きつつ、呆れたようにため息を吐いた。「立ち入り禁止区域だぞ、ここは」
    「……え……?」
     思いも寄らぬ単語に、セインは目を瞬く。立ち入り禁止区域……だって?
     そんな物騒な場所が村の周辺に存在していたのか。いや、……もしかしたら最近になって指定されたのかもしれないが。驚き、戸惑うセインに、キリエは少し考え込むような素振りをみせる。その目がふっと上がり、セインと向かい合う青年に向けられる。
    「君も、得物を納めてくれ」じとり、と睨め付け「そいつはおれの弟だ。何をやらかしたかは知らないけど、解放してやってくれないか」
    「……、了解した」
     ふぅっと息を吐いて、青年は武器を仕舞う。ようやく解放されたセインは、その両の手からやっとのことで短剣を引き剥がした。しばらく柄を握りしめていただけに指が強張っているが、動かせないほどではない。ただ、それよりも、腰が抜けてしまい立ち上がれそうにないことの方が気掛かりであった。
     ひとまず情報が欲しい。今どうなっているかを知らなければ、これからどうするかを考えることも出来ない。そう思い、セインはゆっくりと周囲を見回し、……そうして絶句した。
     馬車が……否、馬車らしき骨格を持った何かが、ひしゃげている。
     それは鬱蒼と生い茂る森の手前、デピス湖と、遙か遠くレメゲン山脈を臨む場所。大樹の根元に殆ど瓦礫のようになって散在している馬車の残骸は、本来往くべきであった街道より大きく逸れて、かの地に突撃したようであった。セインからは大分距離があるので細かい部分までは見えないのだが、到底、生存者がいるとは思えないような光景であった。
     ――もしも、……あの瞬間、誰かが僕を連れ出してくれてなかったのなら。
     セインはゾッと背筋が凍えるのを感じた。
     ――僕も、あのひしゃげた馬車と一緒に潰れていたかもしれないんだ。
    「あ、あの、……兄さん」掠れた声でセインは尋ねる。震えながら、馬車だったものを指さす。「あれに乗っていた人は、一体……どうなったのか、分かる?」
    「……あー、……」
     お前、あれに乗っていたのか、と小声で呟き、キリエはばつが悪そうに後頭部を掻いた。ただ、その後も言い淀んでいるのでセインは察した。あぁ、……そうか。誰も助からなかったのだ。痩せぎすの男も、婦人も、御者も……みんな、死んでしまったのだ。
     沈黙が降りた。誰も口を開こうとしなかった。そうしてしばらく、小鳥のさえずりと木々の葉擦れだけが静寂の中にさざめいていた。
    「おーい、キリエ!」
     遠くから声がした。
    「手を貸してくれ! こっちにも負傷者がいるようだ!」
    「あぁ、分かった!」キリエは顔を上げ、大声で応える。「今行く!」
     キリエの紅玉の瞳が、ちら、と俯いたままのセインに向いた。ひどく悲しみ、落ち込んでいると思っているんだろう。無理もない。凄惨な現場に居合わせた弟は、運命の女神のちょっとした気まぐれがなければ、今この場に存在し得なかったのだから。そんな彼に何と声を掛けて良いか、何と励まして良いかも分からないのだろう。そして、傍らに控えたまま、遠くを見遣るエルーンの青年も恐らく同じ気持ちなのだろう。
     けれど、違う。本当は違うのだ。確かにセインはじっと地面を見つめてはいたけれど、ずっと死者を悼んでいた訳ではない。彼は考えていた。ひたすらに考えていた。何が起こったのか。どうして自分は助かったのか。何故あのエルーンの青年は自分を助けてくれたのか……その手が、無意識に喉に向かう。青年が銃を突き付けた、喉元に。
     ――異形の女性。
     自分が斬り伏せ、紫色の霧となって跡形もなく消え去った、あの。
     ――どこかで……見たことがある……。
     どこか……あぁ、確か、最初の邂逅はフェードラッヘだったように思う。自らを幽世の住人と称し突如現れた異形の者たちは、白竜騎士団および駆けつけたジークフリート、パーシヴァルらの協力により赤き地平へと戻された。その後もことある毎に衝突し、つい先日など、カシウス救出のため月へ向かう準備の最中に組織の兵たちと入れ替わる形で潜り込んだので、イルザの怒りを買い、皆殺しにされていたではないか。そんな彼らが、何故この場に……《舞台》の上になど、
    「おい、セイン」
    「ッ……!」
     ぽんと肩を叩かれ、セインは、はっと顔を跳ね上げた。あ、と零れた声が掠れている。
     揺れる視界の中、場違いなほど晴れ渡った空を背景に、翡翠色の髪の男が覗き込んでいるのを見た。兄さん、と声にならない声で呻いて、セインは首を横に振った。脳内にこびりついた、奇妙な思考を振り落とすべく。
    「大丈夫か?」
     眉をひそめる兄――キリエは、セインの異変に気付く素振りもなく、ふぅっと息を吐いて上半身を起こし、背後に控える青年を振り返る。
    「なぁ、君。……頼みがある」キリエの言葉に、青年は片眉を上げて応じた。「こいつを、……おれの弟を、護衛も兼ねて、村まで連れて帰ってはくれないだろうか。村までは本当にあと少しなんだが、おれはその、……」そこで一旦言葉を切り、ふっと遠くを見る。「少し、やることがあるんでね」
    「……」
     青年は、多少迷うように視線を外したが。
     逡巡はほんの一瞬で、「了解した」と短く応えて足早にセインに近付く。「俺も、お前の弟とやらに確認したいことがある」
    「へ……?」
     抗う暇があらばこそ。
     ふわ、と身体が浮き、抱き上げられたのだと認識する前に世界がぐるりと回る。セインのすぐ目の前で外套が踊り、セインは目を丸くし、次いで自分の置かれた状況を把握して慌てて足をばたつかせた。
    「あ、歩ける、歩けるから!」カッと頬が熱くなるのを感じた。「下ろして、下ろしてったら、恥ずかしいよ!」
     セインの身体は青年の肩の上にあった。まるで米俵のように担ぎ上げられていた。青年はふぅっと息を吐くと、セインの必死の抵抗など何処吹く風で歩き出した。尚も暴れるセインが落ちないように、尻と腰の辺りをしっかりと押さえつつ。
    「う、ううっ……」
     青年の肩に引っ掛かりながらも遠ざかっていく景色と兄の姿を見送り、セインは、ふるふると身体を震わせる。そうして、どうか道中で知り合いに会いませんようにと、会っても見て見ぬ振りをしてくれますようにと、強く願うのであった。
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    ❤❤😭🙏🙏❤❤
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
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