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    ruicaonedrow

    エタるかもしれないアレとかコレとか/ユスグラ/パシラン/フィ晶♂/銀博/実兄弟BL(兄×弟)/NovelsOnly……のはず

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    ruicaonedrow

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    そろそろYAMADA

    WS 5-17.
     弟を迎えに行ってくれないだろうか、と依頼されたのはつい先刻のことである。何、おれが行ってやればいいだけの話なんだが、如何せん手が離せそうになくてさ。それに、最近何かと物騒だろう。護衛も兼ねて連れて帰ってきてくれると助かるんだが、と。
     暇を持て余していたことは事実であるし、居候の身でいけしゃあしゃあと断るわけにもいくまい。なのでユーステスはすぐさまに了承し、手入れの済んだ銃を携えて村へと出掛けた。閉まる扉の向こうに、油の匂いと、調理器具の触れ合う音を聞きながら。
     良い天気である。見上げた空は薄蒼を背景にして、刷毛で掃いたような雲が千々に浮かんでいる。思わず伸びをしたくなるような心地よい気候だが、ユーステスは唇を引き結んだまま顔色ひとつ変えることなく、淡々と、無数の轍が残るあぜ道を下っていく。界隈を渡る穏やかな風に乗せて、彼の頭頂部に立つ獣耳がふわりと揺れた。
     妙な感覚だった。
     違和感とでも言おうか、何となくしっくりと来ないような、窮屈さのようなものをずっと感じていた。ヴェールは未だユーステスの脳内に巣くい、過去の想起の一切を阻んでいる。
    「……キリエ……か」
     呻くようにその名を呟いて、首を振る。
     ――同じ名前が身近に二人……これを単なる偶然と片付けて良いのか……?
     ユーステスが認識しているのは、舞台役者を名乗りこの世界を破壊しようとしているキリエ・ルイゼだ。癖のある翡翠の髪とぐらぐらと煮立つような紅玉の双眸を持つ、得体の知れない美貌の青年。ただ、夜の森での邂逅の後、彼の行方はようとして知れない。
     そして、もう一人のキリエ。
     セインの兄を名乗る人物……キリエ・アリュシナオン。
     こちらのキリエはセインとは似ても似つかない。兄弟なのだと言われたところで首を傾げてしまう。亜麻色の髪に瑪瑙の瞳、そのどこにもセインに連なる面影などない。そればかりか彼は年端もゆかぬ痩せこけた子ども。どう贔屓目に見てもセインの方が年上だろう。ハーヴィン族という例外はあろうが、彼の体格や出自からしてもそれはあり得ない。
     だとすれば。
     ――何をもって、セインはキリエ・アリュシナオンを兄と見なしている?
     ――血縁ではなく、義兄弟……? あるいは……
     ――まさか、……何かと、入れ替わったのか……?
    「……、……」
     ふぅっとひとつ息を吐いて、ユーステスは顔を上げた。小鳥のさえずりが、木々の葉擦れが、せせらぎの音が耳の奥に蘇り、ひんやりとした空気が頬を撫でた。アイスブルーの瞳を瞬くその先で、一面の深い緑と、みずみずしい若葉の香りとが彼を出迎える。
     思考に沈む彼の足はいつの間にか森の奥深くへと入り込んでいたようだ。一旦立ち止まり、けれど進むか退くかの逡巡は一瞬で、ユーステスは黙って深部へと足を向けた。セインは恐らくこの先にいる。根拠はないが何故かそう確信していた。
     やがて、立ち並ぶ木々の間に小川を見る。川幅はそれほど狭くはなく、底の石がはっきり見えるほど澄んでいる。深さはせいぜい、彼のくるぶしを軽く濡らすくらいだろう。歩いて渡れないほどではなさそうだが――
     ――ここは……。
     そこここに点在する崩れ落ちた遺跡群に確かに見覚えがあった。水上に幾つも突き出した円柱の残骸や身を横たえた女神像。瓦礫に彫られたレリーフを指でなぞり、ユーステスは視線を上げる。間違いない、……件のキリエ・ルイゼと出会った森だ。そうしてあの木々の合間に謎の墨染を見たのだ。
     陽光が線状に差し込み、木々が揺れ、穏やかな風が渡る川向こうには、以前の不気味な雰囲気など微塵も感じない。ユーステスは服の裾が濡れるのも構わず小川に入り込み、そのまま細かい飛沫を跳ね上げながら対岸へと進む。初めて訪れた場所であるのにその足取りには一切の迷いがなかった。
    「……、……」
     どのくらい歩いただろうか。
     不意に視界が開け、ユーステスは足を止めた。額に僅かに浮いた汗を拭い、周囲を見渡す。
     木々の根が複雑に入り組み、階段状になった道の先に、片脚だけになった大きな門があった。緑の蔦が絡まり合い、垂れ下がり、さながら繊細な模様のレースが幾重にも被さっているようだった。周囲は静寂の中にあり、時折ざぁっと風が吹いては潮騒のように葉擦れが鳴る。ユーステスはひとつ息を吐いてから、ゆっくりと歩き出した。
     遙か昔、この地には大きな神殿があったのだろう。ところどころの遺跡群は古色蒼然たる様子で大半を森に浸食されてはいるが、木々の緑の中に朽ちた人工物が点在している様は却って趣深い。今や好き放題に伸びた雑草や下草に覆われた石畳の道、原型を留めぬほどに崩れた壁には豪奢な装飾が施されており、かつての栄華を偲ばせる。
     石柱の並ぶ通りを過ぎてまもなく、その足はひたりと止まった。彼は静かに双眸を細め、前方を見遣る。
     それは、大きな木の根元、緑に半分ほど埋もれる形で存在していた。遺跡の残骸であろう石壁が乱立する中、大理石の柱の上に申し訳程度の雨よけの屋根を乗せている、小さなガゼボ。蔦の絡まる柱には色とりどりの花が咲いて、蝶々がもつれながら飛び交う。
     ざぁっと風が世界を渡った。葉擦れが鳴り、木漏れ日が揺れた。梢に留まっていた小鳥が飛び立ち、枝の上の二匹のリスがチチッと鳴いて互い違いに駆け去っていく。ユーステスは、腰まである草を掻き分けてガゼボに近付く。そうして、足が土を踏み込んだところで、はたと気付いた。
     髪だ。茶色の頭がそう高くもないガゼボの縁から覗いている。あるかないかの風に静かにそよいでいる。死体か、と身構えるがすぐに誤解であると分かった。呼吸に合わせるように、僅かに上下して見えたからだ。
     ぼうっと風景を眺めているのか、それとも眠ってしまっているのか。恐らくは後者なのだろう、茶色い頭は縁にへばりついたままで特に激しく動くこともない。ユーステスは音を立てぬようにと殊更足を潜め、草に覆われたガゼボの入り口へ回り込んだ。崩れ落ちた石段に足を掛ける前に、大理石の柱の陰からそうっと中を覗く。
     その目が、は、と見開いた。次いで、何の感情もなかった口元が微かに緩む。
     それは確かに少年であった。予想に違わず気持ち良さそうに寝入っている。ただ、姿形は確かに捜索の対象たるセイン・アリュシナオンであるのだが、この少年をセインと呼称するにはひどい違和感を伴った。なりはそのままに、己の知らぬうちに違う名前と人格を与えられてしまったかのような、何もかもがちぐはぐであるような妙な違和感が。
    「……、グラン……」
     ぽつり、意識の海に浮上してきた名前を口にしたのなら、その方がしっくりくることに気付いた。ユーステスは小さく頷き、内部へと歩みを進める。
     円形のガゼボの内側は花崗岩を削り出した長椅子が置かれ、枯れ葉や枯れ枝が散らばる上にスケッチ用紙が大量にばらまかれている。大方、この程よい気候と静けさに勝てず、作業の途中で睡魔に引っ張り込まれたのだろう。座ったまま、ガゼボの縁に寄りかかるようにして目を閉じている少年――グランの手元には、ちびた鉛筆とスケッチ用紙の残骸が辛うじて引っ掛かっているだけだった。
    「うう、ん……」
     グランが呻き、もぞもぞと動く。その反動で、手に引っ掛かっていた最後のスケッチ用紙がするりと滑って落ちていく。ついでに鉛筆まで後を追ってカツンと乾いた音を立てるが、余程眠りが深いのかムニャムニャ言うばかりで起きようとしない。ユーステスは苦笑し、床に散ったスケッチ用紙を集め始めた。
     それにしても、絵を嗜んでいたとは驚きだ。まぁ、いろいろな事に興味を持つ年頃だから不思議だとは思わないが、なかなかどうして完成度が高い。特にこのスケッチは、鉛筆の濃淡で表された森の風景がガゼボという額に切り取られた何とも奥深い作品となっていた。このまま画廊へ飾られても違和感がない……ユーステスは絵画にあまり造詣が深い方ではなかったが、素直にそう思った。
    「……あれ……」
     不意に、声が聞こえた。ユーステスの耳はぼそりと零れた小さな呟きを聞きつけてピンと立ち上がり、顔は声の方を向く。そうして、銀色の髪の奥でアイスブルーの瞳を僅かに見開く。
    「ユーステス……? どうしたんだよ、こんなところで……」
     グランはそこにいた。少しだけ起き上がり掛けた姿勢のままで、目覚めたばかりの両目を手の甲で擦っている。ブラウンの瞳が眠そうに瞬きつつもユーステスを真っ直ぐに捕らえ、続いてきょろきょろと辺りを見渡す。
    「あれ……? 皆は……」
    「皆?」
     怪訝に聞き返せば、グランは後頭部を掻いて苦笑する。
    「ん……、ルリアとビィと……あはは、こりゃ置いて行かれちゃったかな」
     両手を上に上げて、大きく伸びをしつつも立ち上がる。身体に積もった葉や草の欠片を払って顔を上げたなら、グランは歯を見せて笑った。
    「さて、僕たちも帰ろうか。ねぇ、ユーステス」
    「……、……」
     差し伸べられた手を、けれど、ユーステスは取ることが出来ない。戸惑い、躊躇い、ブラウンの瞳を見返すばかり。その先で、グランは不思議そうに首を傾げている。
     罠だと疑っている訳では無い。いまいち信用ならないと、グランを否定している訳でも無い。ただ……どうしても違和感が拭えないのだ。この手は俺が取ってもいいものなのか。グランが誘っているのは俺ではないのでは。そもそも未だ『奪われた』ままなのだから、俺が本当にユーステスなのかどうかすらも分からないというのに――
    「大丈夫だよ」
     ふっと、思考の合間に声が挟み込まれる。
     ユーステスは目を見張った。いつの間に側に寄ったというのだろう、グランの悪戯っぽい笑顔がすぐ目の前、互いの呼吸が届く程の近くにあり、頭ひとつ下からこちらを見上げている。不意に首の後ろに手を回される感覚があり、はね除ける間もなくぐいと引き寄せられる。何を、と言うまでもなく、その言葉は外に零れ出す前に封じられる。
     接触はほんの一瞬。小鳥が餌をついばむ程の短さで、互いの唇が触れ合って、離れた。とん、と床を踏む音で我に返り、ユーステスは目の前の少年に目を遣る。はにかむように口元を緩め、頬を僅かに染めた少年を。
    「僕は、君を信じている。君ならきっとやり遂げてくれると思っている。だからこそ君を推したんだ」へへ、と鼻の下を擦り、もう一度目を上げる。真っ直ぐに見返す。「帰ろう、僕と一緒に。だって僕らは星の島へ、イスタルシアへ行かなくちゃいけない。ここでいつまでも遊んでいるわけにはいかな――」
     その先は小さな呻きの後、水音にくぐもって消えた。二人を繋ぐ銀糸が垂れ落ちた後、は、と止めていた息を零して、グランは目を丸くしたまま固まっている。まさかやり返されるとは思っていなかったのだろう。その耳が、顔が、みるみるうちに朱に染まるのを見る。
    「……あぁ、帰ろうか、一緒に」
     ユーステスは静かに独り言つ。
    「ようやく、……お前に会えたのだから」
    「……ん」グランは多少拗ねたように返事をして、ユーステスの胸に頬をすり寄せる。懐かしい感触は何故か、郷愁にも似た切なさをもたらす。「それでこそ、僕の――」と言い掛け、言い淀み、けれど顔を上げたグランはニッと相好を崩す。ぱっと熱が離れ、ユーステスが目を向ける先で、彼はくるりと踵を返した。手を差し伸べる。
    「さ、行こう。皆待ってる」
    「あぁ」ユーステスは頷き、今度こそその手を取った。小さいけれども、温かな手を。「行こう……グラン」
     ざぁっと風が吹いた。梢が揺れ、木漏れ日が揺れ、外套の裾をはためかせる。二人はしっかりと手を繋いだまま、連れ立って緑の中を歩いて行く。その姿はやがて、木々のあわいに溶け込んで――


    「ユーステス……!」


     名を呼ばれ、ユーステスははっと顔を上げた。瞬間、遠ざかっていた全ての音と色彩が一気に戻ってきて、あまりの情報量の多さに目眩を覚え、くらりと落ちてきた額を手で受け止める。う、と呻いた声はひどく掠れている。
     いつの間にか日が暮れようとしていた。周囲は夕暮れを告げる橙色の光に満ち、葉擦れが潮騒のように響いていた。木々を渡る風はひやりと冷たく、幹に背を当てたまま座り込むユーステスの褐色の頬をするりと撫でて去っていく。頭上に覆い被さる木々の葉も相俟って、辺りは一層薄暗く、寒々しく感じる。
    「だ、大丈夫……?」
     怪訝な声はすぐ近くで聞こえ、ユーステスは未だ揺れる視界をそちらへと向けた。夕闇を背にして、茶色の髪の少年が屈み込んだまま、ブラウンの瞳を瞬きながら心配そうに覗き込んでいる。
     ――今のは、……。
     胸の辺りに重石が詰まっているようだ。何となく息苦しい。
     ――夢……?
     否。夢であるのなら、あれほどの臨場感を伴うだろうか。本当に現実にあった事柄のような、それでいて、急に他の世界へと引っ張り込まれたような違和感。この手には未だ、繋いだ手の温もりが残っているというのに……ユーステスは睫毛を伏せ、呼吸を整えながら静かに首を振る。
    「……、グラン?」
     目を上げて呻くようにその名を零せば、少年はすぐに眉をひそめた。また違う名前で呼ぶ、とじとりと睨め付ける。
    「あのね、僕はセイン。セイン・アリュシナオン。いつになったら覚えてくれるんだよ」
    「……セイン……?」
     違う。
     目の前でむくれている少年は、夢の中に出てきたグランと何ひとつ変わらない。声音も、体型も、髪型も、着ている服も、目の色や髪の色も、何も。では一体、何が違うというのだろうか。名前? 記憶? 過去? ……それとも。
     ――変えられた……?
     しかし、誰が。何のために。
    「お前は、……何故……?」
     ぽつりと落ちた呟きに。
    「あのね」セインは身を起こし、はぁ、と呆れたようにため息を吐いた。「僕は君を捜しに来たんだよ。何も言わないでいなくなるんだから、……もう」
    「何……?」
     セインが言うには、ユーステスは朝から不在であったらしい。当初は散歩に出ているのだろうと呑気に構えていたのだが、昼を過ぎても戻らず、昨今物騒な事件が立て続けに起こっているので流石に心配になってきた。もしも村で迷うようなことがあれば迎えに行った方がいいかと家を出たものの、村中どこを捜しても見つからず、あちこちに聞いて回ったところ背の高いエルーンの青年が森へと向かったという情報を得て、遺跡群の入り口付近での発見に至ったのだとか――
    「ちょっと待て」話を遮ってユーステスは声を上げた。「俺は、お前の兄から頼まれて、お前を捜していたんだが」
    「兄さんが?」セインは訝しげに首を傾げる。「……兄さんはいないよ。昨日から港町で泊まり込みの警護だってぼやいていたじゃない……、忘れちゃった?」
    「……、……」
     ――どういうことだ……?
     アイスブルーの瞳を見開き、ユーステスは絶句する。
     ――一体、何が起こっている……?
    「取り敢えず、さ」セインはふぅっと息を吐いて腹を押さえた。「家に帰ろう。僕、いい加減お腹空いちゃったよ」
     ね、と差し伸べられた手を、ユーステスは黙って見返した。先ほど森の中で繋いでいた仄かな温もりと寸分違わぬものがそこに、すぐ目の前に存在している。ただ……。
     ――グラン……。
     胸中だけでその名を呼び、ユーステスはセインの手を取った。自分の手ですっぽりと覆えそうなほどに小さな掌は、グランが差し伸べてくれたものと何が違うというのだろう。
     ――俺はまた、……お前を見失ったのか。
     立ち上がったのなら、セインはそれでよしとばかりにひとつ頷いて、ぱっと手を離した。そうして身を翻して村の方へと歩いて行く背中を、ユーステスは暫く見つめていた。薄蒼の双眸を眩しそうに眇めたまま……そこにもう一人の少年の後ろ姿を重ねたままで。


     遅い夕食を終えて外に出たのなら、辺りは既に宵闇の中にあった。見上げれば紺碧を背景に見事な星空が広がり、中空には切り抜かれたように丸い月がぽっかりと浮かんでいる。街灯のない世界は月明かりにのみ照らされてぼんやりと薄青い。ユーステスはひとつ息を吐くと、外套の襟を寄せてゆっくりと歩き出した。その足下で小石が砕けて小さな音を立てる。
     哨戒というほど大したものではないが、明確な目的を持っていたわけでもない。ただ、セインが絵を描こうとしていたので、他の者の存在は集中の邪魔になるだろうと出てきただけだ。特に行く当てもなく、けれど、有事に備えて、周囲の地形や起伏の有無、建物の配置などは頭に入れておいても損はないだろうと思ったのだ。僅かでも滞在している場であれば当然のこと……長年の間に染みついた癖のようなものだった。
     遠く、眼下に望むデピス湖は黒々とした水を湛え、水面に映り込んだ月がゆらゆらと揺れていた。紺色に染まった木々がさやさやと揺れ、家々は室内の明かりを道の上に落とし、通り過ぎる度に微かな話し声や笑い声を聞く。ユーステスの気配に気付いたのか、物陰からのそりと現れた犬が、舌を出し尻尾を振りながら小さくなっていく彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
    「……」
     取り留めなく方々を巡っていた足が、不意にざり、と止まった。外套の裾がふわりと踊り、頭頂部の耳がピンと立ち、ユーステスは銀色の髪の向こうで瞳をすっと細める。
     夜の底に小さな明かりが灯っている。
     昼の賑わいは何処へやら、宵闇に沈む商店街は、青白い月光の中に影絵のようにして建ち並んでいた。街灯は既に消え、周囲に人気はない。だが、大樹の陰に置かれたベンチには洒落た形の手提げランプが置かれ、誰かが隣に座っているようだった。淡い橙色の光に照らされた黒い影は頭を俯かせ、膝の上の本をゆっくりとはぐっている。
     ――あれは、……。
     ユーステスは坂を下りる足を僅かに速めた。残された轍に足を取られぬよう注意しつつも、その目を、視線を、商店街の方へ真っ直ぐに向けたまま。
     ――間違いない、……あいつだ。
     風が渡った。葉擦れが鳴り、草原が波打った。
     大樹の傍にまで近付いたユーステスは、そこでひたりと歩みを止めた。背後から近寄ったにも関わらず、標的は、本をパタンと閉じて立ち上がったのだ。癖のある髪が揺れる。
    「やぁ、兄弟」振り向きもせず、彼は言った。「久々の再会を喜ぶ前に、まずその手の中にある物騒なものを仕舞って貰おうじゃないか」
    「……」
     小さく息を吐いて、ユーステスは今まさに引き抜きかけた銃を鞘に押し込む。青年はそれで良しとばかりに満足げに頷いて、くるりとこちらに向き直った。キリエ、……とユーステスは口の中だけで彼の名を呟く。
    「全く、油断も隙もあったもんじゃあないな」ははは、と笑いつつ、肩を竦めている。「ゼタ……だっけ、あの女騎士もそうだけど、組織とやらの構成員は矢鱈とけんかっ早くて困る」
     ――ゼタ?
     聞き覚えのある名に、ユーステスは僅かに目を見開く。だが、何故今その名が出てきたのか、問うまでもなかった。
    「成る程……どうやら『取り戻した』ようだな、自分を」
     ふ、と笑ったキリエは、傍らの本をひょいと拾い上げた。そうして息を呑むユーステスの手前、ファンサービスでもするかのようにぱちんとウィンクを一つ寄越すと、掌をひらりと振った。付いてこいとでも言いたげに。
    「どうせ聞きたいことがあるんだろ? いいぜ、話をしようじゃあないか」
     あぁでも往来のど真ん中というのは良くないな。込み入った話というものは、それなりの場所でするものだろう。なぁに、良いところを知ってるんだ。心配は要らないぜ、おれが奢るからな。さ、そうと決まれば出発!
     殆ど独り言のように喋りながら歩いていくキリエの背中をしばし黙って見送り、ユーステスはふぅっと息を吐いて首を振った。
     ――キリエ・ルイゼ……
     顔を上げると、遠く、キリエの視線とかち合った。足を止め、赤の双眸を歪め、何をしているんだとばかりに苦笑している。
     ――敵なのか、味方なのか。……それとも。
     ユーステスは唇を軽く引き締め、一歩を踏み出した。その姿を目の端に留めたキリエは、にっこり笑んで頷き、踵を返す。月光が照らし、風の音と虫の声とが響く世界に、二人の足音だけが静かに満ちていく。
     手提げランプの光が橙色に揺らめきながら照らし出すのは、道端にまばらに並んだ灌木の輪郭。デピス湖へと注ぐ小川は月光を湛えて、たゆたう水面に二人の影を淡く写し取った。キリエの独り言はいつの間にか鼻歌へと代わり、ユーステスは目を眇めながらも彼の後を追う……つかず離れずの一定の距離を保ちつつも。
     やがて遠くレメゲン山脈の影が近付く頃、キリエはふと立ち止まった。やぁやぁ、と言いつつ、にんまりと笑って振り返る。ユーステスも多少離れた位置で足を止める。
    「ここまでご足労だったね。取り敢えず、あそこさ」
     顎で指す方角にはレメゲン山脈の裾野をなぞる森があり、木立がさざめく中に、窓の形に四角く切り抜かれた光がぽつんと浮かんでいる。自然が奏でる音の合間に耳を澄ませずとも人の声が混ざり、ユーステスは耳を立てて周囲を窺う。
    「さて、作戦会議と洒落込むとしよう」
     鼻歌は再開され、キリエは機嫌良く歩き出した。小さく息を吐き、ユーステスも後に従う。その両脇で外套の裾がひらひらと踊った。
     近くに寄ってみれば、成る程、どうやらそこは小料理屋のようだ。食欲をそそる良い匂いが辺りに立ちこめ、談笑でもしているのだろう、時折どっと笑い声が上がる。キリエは特に振り返ることもなく玄関ポーチで留まり、本を小脇に挟み、手提げランプの明かりを消し、次いで扉をぐい、と開けた。蝶番の軋む音と共に内部の照明が溢れ出て、雑音と物音とがより一層大きくなる。
    「あらあら、いらっしゃい」
     二人を出迎えたのは細面の婦人であった。両手で支えた盆の上には空っぽのジョッキや皿が山盛りになっていた。キリエは片手を挙げて応じ、どこか空いている席はないかと目の上に庇を作って店内を見渡している。ユーステスは黙って入り口の傍に立ったまま、キリエをじっと見つめている。その背の向こうで扉の閉まる音を聞いた。
     夜も深い時間ではあったが、店内はそこそこ賑わっていた。卓は殆ど埋まり、大皿の料理や酒を幾つも並べながら、人々は思い思いに歓談している。給仕はホールをせかせかと動き回り、空の食器を片したりグラスに水を注いだりしている。辺りは騒がしくはあるものの、やかましさに耳を塞ぎたくなるほどではない。
    「おうい」キリエの声に目を上げれば、彼は店の端、窓際の卓に座っていた。一輪挿しに飾られた花が揺れている。「何、ぼうっとしているんだよ、兄弟。こっち、こっち」
    「……」
     ユーステスは一つだけ頷き、店内へとゆっくり歩みを進める。
    「やはり一日の締めは美味い飯に限るな。お洒落なカフェで珈琲でも一向に構わないがね」
     ユーステスが卓に付くのを見計らい、キリエは苦笑しながらもそう切り出してメニュー表をはぐった。先ほどの婦人が挨拶と共にグラスを運んできて、手際よく水を注ぎ、カトラリーを置いていく。何か食うかい、とキリエが聞いてきたが、ユーステスは静かに首を横に振った。生憎、食事を済ませたばかりなのだ。
    「ふぅん……」
     キリエはぱちぱちと目を瞬いたがそれ以上は何も言わず、横に控えた婦人に注文を告げた。あれもこれもと注文するキリエをちらりと横目で見た後、ユーステスはひとつ息を吐いて窓の外へと目を向ける。婦人は一つだけ会釈をして踵を返し、ヒールの音がそれを追った。
     やがて運ばれてきた料理で、卓上はすっかり埋まってしまった。新鮮な野菜サラダにぶつ切りの鶏肉が入ったコンソメ風のスープ。平皿の上には溢れんばかりの揚げ物が載り、美味そうな匂いを漂わせている。これだけの量をひとりで食べるのかと思わず目を見張るユーステスの手前、キリエはさっと両手を合わせると待ってましたとばかりに骨付き肉にかぶり付いた。頬の辺りまで肉汁で汚れるのも構わず、シュラスコの串に手を伸ばす。
     ものの数十分で周辺の皿は空っぽになり、ようやく満足したのか、葡萄酒のグラスを煽って顔を上げた。傍のナプキンで口回りを乱暴に拭い、キリエはふぅっと息を吐いた。
    「……確認したいことがある」
     ぼそり、口火を切ると、キリエは赤の瞳で真っ直ぐにユーステスを見た。あれだけたらふく飲んだにも関わらず、全く酔いを見せない。
    「お前は一体何者だ?」
    「おや」ぱちぱち、と目を瞬かせ「言ってなかったか? おれはしがない舞台役者のキリエ・ルイゼ。それ以上でもそれ以下でも……」
    「……」
    「おっと、そう怖い顔で睨むなって兄弟、……冗談だよ冗談」
     はは、と乾いた笑いを浮かべすっと手を挙げて給仕を呼んだ。新たに運び込まれたエールはジョッキの縁まで並々と入っていた。少しでも揺らせば零れてしまいそうなそれを、実に美味そうに飲み込む。
    「まぁ、疑いたくなる気持ちも分かるぜ。おれにとっても想定外のことが起きているんだからさ。例えば――」
     その先を噤んだ彼の目が、ユーステスを通り越して入り口の方を見遣った。ユーステスは一瞬怪訝な顔をしたが、彼の視線が向く先へと横目を走らせる。
     男女がいる。仲睦まじい様子は、夫婦のようにも見える。
     彼らはちょうど会計を済ませたところであった。給仕が深々と頭を下げて見送る中、痩せぎすの男が、ご馳走様、美味しかったよ、と笑顔を浮かべている。隣では細面の婦人がにこやかに会釈をし、寄り添う二人の姿は、蝶番の軋む音と共に扉の向こうに消えていった。
    「お前さんも見ただろう、……あの夫婦の姿を、さ」
     キリエの言葉に視線を戻せば、彼はジョッキを傾けたところだった。
    「入れ替わっている。おれの見立てに因るなら、幽世の住人たちと」
    「……幽世」
     その名を聞くのはいつ以来だろうか。奴らと最後に遭遇したのは、あの、雪深い廃墟だったように思う。ユーステスの弟であるサウィーニに擬態し、奴は、モノクロームの世界にそっと潜んでいたのだ。
     恐らく、引き金に掛けた指が震えていることに気付いたのだろう。やらせないよ、とユーステスを庇うようにして前に出たグランに斬り伏せられ、幽世の住人は空の底へと還っていった。すまない、と絞り出した言葉に、剣を収めたグランは振り返り、大丈夫と微笑む――
    「お、知っているのかい、兄弟。それは話が早い」
     ユーステスの瞳がすっと翳ったのを見たのだろうか。けれどキリエは特に言及することもなく、ジョッキを置いてピンチョスを摘まんだ。
    「あいつらがなにゆえ《舞台》に上がってきたのか、何を企んでいるのか、正直計りかねる。ただ、ろくでもないことは確かだな。一体ここまで、何人の住民が犠牲になったんだか」ぽい、と口の中に放り込みつつ「そもそも闖入者たるお前を排除しようとする動きはあるのに、何故奴らは野放しなのかも気になっている。どちらかといえば、《舞台》を壊しかねないのは幽世の住人の方だろうに」
     ――《舞台》を壊す。
     ユーステスはふぅっと息を吐いた。
    「お前の目的と合致するのでは?」
     キリエははっと動きを止めた。
     目をぱちくりと瞬き、次の瞬間「いやいや、意味合いが全く違うぜ、兄弟!」と慌てたように首を振る。「まぁ、おれは確かにこの世界を破壊するとは言ったが、奴らがしようとしている破壊とは訳が違う。そうだな……例えるならば、劇場を破壊するか、演目を破壊するか……おれの破壊は後者だ。無意味な犠牲を出したくはないからな!」
    「……」
     ――本当か?
     ユーステスは静かに、キリエの挙動を観察する。うんうんと大袈裟に頷きつつ、つまみものを食んでいる。時々エールの入ったジョッキを煽るが、そろそろ底が見え始めている。さざめく店内ではあるが、ジョッキの中の氷が踊る涼やかな音がよく響いた。
    「とはいえ……」
     ややあって。
     卓上の料理もそろそろ付きようという頃、キリエは爪楊枝を噛みつつぼそりと呟いた。皿は殆どが空っぽであり、飾りものの葉っぱや鶏の骨、揚げ物のカスしか残っていない。給仕は適宜空の食器を片付けに来ていたが、次から次へと追加で注文をするため、卓の上はいつまでも満載の料理で溢れていたのだ。ユーステスが辟易するほどに。
    「今のままじゃあやりづらいだろうな。少なくとも特異点が《役》に捕らわれているままではどうにもならないだろう。共闘するにせよ、連れて逃げるにせよ……」
    「何とかなるとでも?」
    「やり方がないわけじゃあない。現にお前さんの記憶だって取り戻せたんだからさ」
     一人、また一人と、客が退店していく。もう随分と夜も深い時間なのだろう。間を開けつつも何度もドアベルが鳴り、都度給仕が頭を下げ、空っぽになった卓をてきぱきと片付けていく。キリエは殆ど水になってしまったエールを煽って、小さく息を吐いた。
    「《舞台袖》という場所があるのは知っているかい」
    「……、《舞台袖》……?」
    「ああ。演劇をする上で、舞台の両端に存在する部分のことさ。あそこは出番となる役者が控えている場所であり、次の場面の準備を仕込む場所でもある。つまり……あそこにいる人間は《役》を演じる前ということになる」キリエはジョッキの縁を指で弾いて、したり顔で頷いた。「何とかして特異点を連れ込むことが出来ればあるいは……《役》から引き離せるかも」
     不意に言葉が途切れ、ユーステスは目を眇めた。当のキリエはといえば、はっと顔を跳ね上げて虚空を見ている。「ああ……しまった」苦笑しぽつりと独り言つ。「中座が長すぎたか。そろそろ戻らないとだな、……彼女、どうやらお冠のようだし」
    「……何……」
     言うが早いか、キリエは本を抱えてそそくさと席を立ち、卓の上に革の小袋を置いた。革が袋の形を保つほどに中身が詰まっているのだろう、じゃりん、と重たげな音がする。手を挙げると傍にいた給仕が一礼をして、小袋を受け取る。
    「もしも釣りがあれば、彼に渡してくれ。足りなければ……まぁツケということで」
    「はいはい」細面の女性は笑いながら、厨房から顔を出した。「毎度、どうも」
    「立ち入り禁止区画を、もう一度調べ直してみるといいさ」
     去り際に、キリエは言った。
    「特にお前さんと特異点が出会ったであろう、あの森を。そこがおそらく《舞台袖》だ」
     そうしてユーステスが訝しげに見つめる中、ひらりと手を振って扉の向こうへと消える。先ほどの客らと同様、その姿は「有り難う御座いました」という給仕の挨拶と共に蝶番の音の向こうに消えて、後にはしんとした静寂が残る。ユーステスは小さく首を振り立ち上がる。最後の客となった彼を、給仕たちが頭を下げて見送る……
    「む、……」
     その足をひたりと止めたのは、背後で扉が閉まったときだった。玄関ポーチを降りかけた足を戻し、ユーステスはじっと前を見る。
    「……あ、……」
     ばつの悪そうな顔をした、ひとりの少年……
     セイン・アリュシナオン――否、グランは、ユーステスと目が合うなりきゅっと表情を引き締めた。外壁に引っ掛かった角灯が周囲を淡く橙色に染める中で、二人は静かに互いを見遣る。
    「っ、その……あんまり帰りが遅いから、心配になって……」
     僅かの沈黙を打ち消したのは、グランのそんな言葉だった。
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    Replies from the creator

    ruicaonedrow

    DONE一幕一場(状況説明)
    KA-11.
     ここまで道が混んでいるなんて何時振りだろうと、ラモラックは思った。少なくとも、直近ではないことだけは確かだ。
     第一師団がブルグント地方で戦果を上げたときだったろうか。それとも、第三師団が見習いたちと共に近隣の盗賊団を壊滅させたときだったろうか。英雄ロットが不在の今、好機とばかりに攻め込んできた賊を、モルゴース率いる魔導師団が完膚なきまでに叩きのめしたときだったかもしれない。
     ああ、……あのときは本当にスカッとした。魔術の師匠たる賢女モルゴースの勇姿は勿論のこと、魔導師団と騎士団との一糸乱れぬ見事な波状攻撃。悲鳴を上げ、武器を放り投げ、這々の体で逃げていく奴らの情けない姿といったら! それと同時に、この国は前線基地ばりに、常に戦争と隣り合わせなのだと実感した。知識の上では理解していたものの、こうして目の当たりにするとみんなどうして仲良く出来ないのか不思議でならない。お腹が空いて気が立っているとかなのかなぁ。それなら、食べ物が沢山あるところが分けてあげたらいいのに。困っている人がいたら助けてあげて、食べ物も半分こしてあげる。それで一件落着だっていうのにさ!
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