WS 5-511.
店の外に出たなら涼やかな夜風が頬を撫でた。既に日の落ちた界隈は街灯がぼんやりと照らすだけで、人通りは殆ど無く喧騒は遠く、虫の声だけが辺りに響き渡っている。
「有り難う御座いました」
初老の男性が殆ど直角のお辞儀で見送る中、ご馳走様でした、と会釈をしたセインは、通りの向こうで待つユーステスの元に駆け寄った。先に店を出ていたユーステスは高台の手すりに身体をもたれさせ、キラキラと輝く街の景色を眺めている。セインの足音を聞きつけたのか、近付くより先に彼の耳が跳ね、次いでアイスブルーの瞳がこちらを向いた。セインを認め、すっと細くなる。
「お待たせ……えぇと、幾らだった?」
おずおずと聞くと、ユーステスは首を横に振る。財布を開こうとした手を遮って、そのまま仕舞わせた。「お前の兄から費用は預かっている」ふ、と笑んだ。「それで十分事足りた。気にすることはない」
「そ、……そうなんだ?」
ぱちぱちと目を瞬くと、ユーステスはひとつ頷いた。
――本当だろうか?
兄にそんな甲斐性があるとは到底思えない。けれど彼の気遣いを無視する形でぐだぐだと揉めていても仕方ないとは思う。ここはすっぱりと認めて、後で何かしらで返せばいいよな……と、セインはにっこり笑った。
「有り難う、ご馳走様でした」
「ああ」
ユーステスは頷き、こちらに向けて手を差し出した。セインは深く考えず手を取った。温かな感覚が掌を包むのと同時に「じゃあ、行こうか」と声を掛け、二人は歩き出す。目抜き通りへ続く緩やかな坂道をゆっくりと下っていく。
左手側、柵の向こうに見える街は眠りにはまだ早く、電飾が盛んに瞬いている。収穫祭を間際に控えただけあって、大通りに近付くにつれ人の往来が蘇り、両脇にずらりと並ぶ家々は綺麗に飾り付けられていく。街路樹や花壇も煌々と照らし出され、あるいは色とりどりに輝いて、その有様は聖夜のイルミネーションを彷彿とさせる。
「収穫祭、か……」
ユーステスがぼそりと呟き、セインは顔を上げた。彼は銀色の髪の下で、アイスブルーの瞳を眇めていた。
「随分と賑やかなものだ」
「まだ準備の段階だけどね」セインは苦笑する。「一応、その年の五穀豊穣を祝うお祭りなんだけど、目的が忘れられちゃってる気がするよ。みんな騒げればいいっていうか……」
以前は神輿が出たとも聞くが、維持費がどうので数年前からやめてしまったらしい。村ではまだ、はずれにあるほこらに種々のお供え物をするが、街の方はどうなのだろうか。人混みが苦手なセインは大概引きこもってばかりなので、ここ最近の祭りの調子はミナから聞いたものが全てだ。とても楽しく、騒がしく、人も物もいっぱいに溢れている、と。
「催し物とかも沢山あるんだよ。去年は踊り子さんたちのステージがあったみたいで、凄い人だかりだったって言ってた。吟遊詩人とか、大道芸人とか、街のいろいろなところで音楽や歌や拍手が鳴って、露店もいっぱいあって……」
もしも収穫祭に間に合うように絵を仕上げられたら、沢山の人が見てくれることだろう。あのカフェならばちょっとした休憩所に、またはデートにぴったりだと思う。もしかしたら女の子たちが連れ立って来てくれるかもしれない。可愛いものや洒落たものに敏感な彼女たちには、自分の絵はどう映るのだろうか。
――実際に飾る場所を確認出来たのは大きかったな。
収穫祭は明後日なので新たに描き出すことは出来ないが、雰囲気に合うものを選ぶことは出来る。もう少し色味を抑えたものや、ラフだってきっと様になる。ひとつひとつを額装し梱包し、明日の夕方には搬入しに行こう。そして当日はどうなっているかをちゃんと見に行こう。それで……
「もし、……もし嫌じゃなかったら、で、良いんだけど」
知らず知らずのうちに掌に力が入ってしまったようだ。ユーステスの視線がこちらを向いているのが分かる。けれどセインは目を上げることが出来なかった。俯いてしまったまま、ぼそぼそと続けることしか出来なかった。だんだんと頬が熱くなっていく。
「収穫祭の日、一緒に来てくれたら嬉しい――」
みなまで言い終えただろうか。
「中止じゃ! 中止にせぇと言っておるのじゃあ!」
不意に聞こえた金切り声に、セインははっと顔を上げ、ユーステスもまた耳をピンと跳ね上げた。大通りに至った二人の足はそこで止まり、同時に前方遙か遠くを見遣る。
それは噴水広場へと至る道の途中。水路を跨ぐ大きな橋のたもとに何かがいる。往来の人たちはそれを遠巻きに眺めたり、足を止め指を指して笑ったり、何あれと囁いたり、関わり合いになりたくないとばかりに早足に遠ざかっている。周囲のさざめきは興味と不安をない交ぜにして、夜の底に留まっている。
「お主らは何も分かっておらん! こんなもん、今すぐ中止にせぇ!」
老婆だ。ぼろきれを纏った老婆が喚いている。手に持った数珠らしき輪っかを振り回している。
「お主らが祀るは厄災! 奴らが啜るは我らが生き血、我らが領土ぞ! 五穀豊穣なぞとんでもない、奴らがもたらすは破壊と殺戮じゃ!」
老婆の目はざんばらな白髪の中にも爛々として、その動きもどこか尋常ではない。周囲のきらびやかな装飾と相俟って、ゾッと背筋が粟立つほどの狂気がそこにあった。当初は面白がって見ていたであろう群衆の輪が、少しずつほぐれて乱れていく。
「えぇい、何をしておる! 早々に中止にせぇ! 皆が死ぬぞ! 死んでしまうぞ!」
「……行こう」
セインはそっとユーステスの手を引いた。これ以上見ていられなかったというより、嫌な予感とでも言おうか、足下から這い上がってくるような強烈な怖気に耐え切れそうになかった。ユーステスは何も応えなかったが、ひとつ息を吐いて静かに歩き出した。老婆から、その狂気の視線から庇うようにしてセインの隣に並んだ。
老婆の声は徐々に小さくなり、途中でふつりと途絶えた。どうやら憲兵にしょっ引かれたようだった。おいおい婆さんいい加減にしてくれよ、と若者の声がする。これで何度目だと思ってるんだ、あんまりひどいと牢屋にぶち込むぞ――
喧騒はゆっくりと戻ってくる。少し離れれば、笑い声も話し声も、人の往来も、先ほどの騒ぎなど何だったのかというくらいに普段通りである。セインもユーステスも互いに何も言わず、互いに黙ったまま歩みを進めた。セインは俯いたままだったからユーステスがどうしているかまでは分からないが、多分気にしてくれているのだろう。時折視線を感じる。
――違う。
セインは、けれど、怖がってなどいない。ただじっと考えている。先ほどの騒ぎを。老婆の言葉を。
――きっとあのお婆さんは知っているんだ。これから何が起こるのかを、文字通り、正しく。
何故そう思うのかは分からない。だが、セインは殆ど確信していた。
収穫祭の日に何かが起こる。その何かは概ね良くないことであり、……《舞台》は呆気なく幕切れとなる。
――セイン、これは君が望んだことなのか?
――こんなことを君は望んでいたのか? こんな結末を……君は許せるのか?
「……僕は……」
呟いて、セインは顔を上げる。その目がちょうどユーステスとかち合って、二人はしばし見つめ合った。先に目を逸らしたのはどちらであっただろうか。鐘の音に気付いた、セインの方かもしれない。
二頭立ての馬車は、今、ゆっくりと噴水広場に入ってきたところだった。石畳を叩く蹄の音が周囲に響き、街路樹のたもとにある待合所から人が吐き出される。ベンチに座って談笑していた老夫婦はやっと来たのかと腰を上げ、行商人らしき壮年の男性は両手に余るほどの荷物をもう一度持ち直した。
「最終便ですよぉ」と待合所の傍で御者が手を振っている。「これを乗り越したら明日までありませんよぉ、さぁさどなた様もお乗り忘れなさいませんよう」
「……間に合ったみたいだね」
セインが言うと、ユーステスは頷いた。それを見て、セインは殊更に声を潜めた。
「あのさ、……後で聞いて欲しいことがあるんだ。君に」
「……、構わない」
ユーステスは一瞬怪訝そうな顔をしたが、多少の間を置いてそう応えた。