セルリアンブルーに花束を(全年齢版)- セルリアンブルーに花束を(全年齢版) -
田無美術大学絵画学科油絵専攻2回生、岸辺デンジ。
彼は、遺影ばかりを描いている。
◆
無機質なリノリウムの階段を踏みしめて、絵画棟の最上階へ向かう。石膏像と椅子が散らばるだだっ広い一室は、学生が自由に絵を描くために常時解放されている場所だ。
デンジの定位置は常にその1番奥。窓際の壁にそって、いつものように画材を広げた。
イーゼルに立てかけられたキャンパスには、一面の青と僅かな肌色。
「また描いてるの?」
「……」
名前も知らない同級生に不思議そうな目を向けられたが、デンジは無視してチューブから木製パレットに絵の具を広げる。左から順にパーマネントホワイト、ミスティブルー、ウルトラマリン、プルシャンブルー、セルリアンブルー。少し悩んで、アイボリーホワイトとジョーンブリヤンNo.2を隅の方に僅かに置く。よく使い込まれた豚毛の平筆で油を適量取って、おもむろに青をかき混ぜた。
デンジは今日も、名前も知らない男の遺影を描き続けている。
岸辺デンジ、絶賛苦学生。奨学金という名前の借金を背負いながら、美術大学に通う19歳だ。
昔から絵を描くことは嫌いじゃなかった。見たものを見たように描くことで自己を主張できるのが心地よくて、幼少期から100円ショップの画用紙やチラシの裏を何度も何度もクレヨンで埋め尽くしていた。
だが、孤児として施設で育ったデンジにとって、美術大学なんていうのはおおよそ手の届かないはずの遠い存在だった。施設の管理者である岸辺―――デンジは彼の下の名前を聞いたことがない―――が、「その才能を放ったらかしにしたら俺が刺されそうだ」と言い、名前や住所を提供して、デンジを美大に進学させてくれるまでは。
夢のようだった。夢のように幸せで、楽しくて。
夢のように、苦しかった。
デンジは、岸辺に謝らないといけない。一生かけて償わないといけない。どうしてデンジが絵を描き続けているのかを、全て話していないから。絶対に話せない。こんなことのために莫大な学費をかけてしまっていることを、臆病なデンジは口に出せない。
デンジが絵を描く理由。それは、殺した男の遺影を描くためだった。
16歳になった頃から、デンジはよく夢を見た。スーツを着た自分がアメコミの敵役みたいな姿になって、銃をブッ放つ異形を殺す夢。
毎回それは、よくあるアパートの扉を開けるところから始まるのだ。何度もなるチャイムを遮って、顔を思い出せない髪の長い女がいて、猫がいて、それを守るように異形に立ち向かう。傍から見れば英雄譚のような光景だが、デンジは毎回吐きそうなほど憂鬱になる。
なぜなら。夢の中のデンジは、決まって最後はその異形を刺し殺すから。
頭から銃を生やした、髪の少し長いスーツの男。左腕の代わりと言わんばかりにくっついているライフルから放たれるのは、音速の凶器。それを同じような異形になったデンジがいなして、雑音が混ざってよく分からなくなった彼の名前を呼んで。
そうして最後に、腕から生えたチェンソーで彼の腹を刺し殺す所でいつも飛び起きる。
生ぬるい臓物の温度と流れ出る鮮血と辺りに漂う死臭がやけにリアルに鼻に残って、反吐が出る。
苦しい、悲しい、虚しい。最悪な気分だ。
デンジは自分のことを殺人犯だと思っている。いくら夢の中であろうと、誰かの命を奪ったことに変わりは無い。最低な気分で目が覚めて、最低な気分のまま一心不乱にスケッチブックに鉛筆を走らせる。自分が人殺しだということを忘れないように。
デンジは3年間、名前も知らぬ異形の男の遺影を衝動のまま描き続けている。顔だって半分しか分からないのに、何故か描かなくてはならないという気持ちに駆られながら、幾度となくその姿を描いた。
贖罪なんて綺麗なものではなく、これは懺悔だった。
殺してごめんなさい、痛かったよな、安らかに眠ってくれ。生まれ変わって幸せになって、どうか、俺の事を殺しに来て。
告解にも至らない、デンジだけの懺悔の時間。
それが、デンジにとっての「絵を描く時間」だ。
美大に進んで、彼は油絵専攻を選んだ。鉛筆のスケッチも悪くないが、白と黒の世界は味気なくて、喪服を着ているだけに見えるのが嫌だった。あの体から流れ出る赤色を忘れるために、デンジは青色ばかりで絵を描く。青をかき混ぜて背景を染めて、揺らぐ深い藍の髪を描いて、肌色の美しい輪郭を作って、死装束のような白いシャツを着せる。
そうして、顔を描こうとしたところでいつも手が止まる。
ずっと、彼の顔が分からないのだ。
彼は頭に銃が生えているから、その瞳の色も分からない。つり目?タレ目?眉の形は?瞳孔は小さい?眉間の間はどれくらい?空想で埋めてみたこともあった。でも、どれもしっくり来ない。
―――デンジは彼のことを何も知らない。それどころか、名前だって分からないのだ。
顔が分からないんじゃあ、これは遺影として失敗だ。駄作もいい所の失敗作。夕日が射し込む窓辺で、ピタリと手が止まる。
お前は、誰だ?
何も答えない、顔のない遺影が浮かんでいる。気色が悪い、気色が悪い、気色が悪い!
手が震えて、平筆を取り落とす。カラン、という音と共に、デンジの体は急に体温を無くした。
「っ、ああぁぁあああ!!」
衝動的にデンジはしまい込んでいたはずの赤い絵の具をチューブから直接キャンパスの顔に塗ったくって、勢いよく真ん中から真っ二つにへし折った。
耐えられない。耐えられるわけが無い。
人を殺したという罪悪感だけが、デンジを突き動かす。
ごめんなさい、殺してごめんなさい。どんな罰だって受ける。許さなくったっていい。赦さなくていいから。
早く俺を殺しに来て。
「っ、はぁ、はぁ、はぁ…………」
息を切らしたままぽつんと部屋の隅に佇んでへし折れたそれを見つめ、やがて無機質な顔でイーゼルの横の山に積み上げた。
「……また描けなかったなァ」
あーあ。絵の具、無駄にしたかも。もったいねー。セルリアンブルー、高ぇのに。
積み上げた遺影の山は、全て同じ空っぽの顔。
田無美術大学絵画学科油絵専攻2回生、岸辺デンジ。
彼の学内でのあだ名は、「遺影描きのデンジ」だった。
◆
田無美術大学の辺りは大学が乱立するキャンパス街で、早川アキが勤める出版社はその大学向けに書籍を卸している。営業部に配属されているアキは頻繁に各大学を訪れて、生協向けに何冊かの本を置いていく。
この日も、美大にその仕事をしに来ていた。
「いつもありがとうございます」
「いえ、今後ともよろしくお願いします」
社交辞令の挨拶を交わしてから会社に戻ろうと思ったが、この日は有給消化の都合で午後が休みになっていることを思い出して踏みとどまった。
どうしようか。せっかく美大にいるんだから、何か見ていくのも悪くないかもしれない。
美術大学は、一般向けに学生が制作したものを並べる為のギャラリーを解放している。何となく、そこに向けて歩くことにした。田無美術大学はこの辺りでは有名な私立の美大で、企業や団体との提携で様々な取り組みを行っている。生徒の作品のレベルもかなり高いと評判なのだ。タダで見られるのなら、1度見ておくべきだろう。
アキは美術の事には詳しくないが、綺麗なものは見て損は無いだろうと考えた。
足を踏み入れたギャラリーは、白い壁と開放的な大きな窓から光が差し込む広々とした作りだ。あちこちに彫刻や水彩、デジタルデザインなどが並ぶ中、アキが目を向けた壁際には油絵のコーナーが設けられている。
風景画、風刺画、自画像、静物画、と陳列されたその中に、ぽっかりと空いたスペースが1つ。作品が無いらしい。誰が何を置くのだろうか、とそこを見つめていると、アキの背後から足音がした。
「スンマセ〜ン。そこ、いいっすか?」
「あ、すみません」
年下らしい、金髪の細身の青年がキャンパスを持ってやってきた。アキが見つめていたスペースにずんずんと進んで、作品を立てかける。
それは、青色が鮮烈な人物画だった。
自分と少し似た、髪を伸ばした男。白いシャツと黒いネクタイに身を包んでいるのだが、おかしな部分が一つだけ。
顔がないのだ。
それは人物画なのに、個人を特定するための顔が一切描かれていない。それどころか、赤い絵の具でぐちゃぐちゃにされている。よく見ればキャンパスは1度、真ん中で真っ二つにへし折られているようで、側面を無理やり木材を使ってくっつけられている。そんなキャンパスの真ん中……ネクタイの辺りは絵の具がよれて皺になってしまっているのが妙にリアルで、アキは急に背筋がゾッとした。
単純に彼は、絵が上手い。それはアキにもよく分かる。
でも、絵が上手いどころか、彼の絵はまるで何かの生き写しなのだ。ネクタイの結び目、髪のなびき方、ワイシャツの陰影。
そして、なにより。
ぽっかりと空いた、真っ赤に塗り潰された顔がこちらを見ているように鮮烈だった。
これがきっと、正しいんだ。
これできっと、間違ってないんだ。
これは、何を訴えている?
まるで、自分が探している『何か』に近いような。
「……ぶっ壊してやっぱりくっつけた、みたいにしか見えねぇのに」
「あ、バレちった」
「えっ」
アキの独り言は、青年の耳に入っていたらしい。
「……ホントはさぁ、これ、失敗作なんよな」
「失敗作?」
「顔がねぇ遺影とか、失敗作でしかねーじゃん」
アキにとってはこれで完成だと思っていたのに、本人はこれを失敗作の遺影だなんて呼んだ。
「遺影……君の家族か誰かなのか?」
「んー?知らねー奴。名前も顔も分かんねぇ。でも、これは遺影」
不思議なことを言う青年だ。彼がかけたキャンパスの男は、清々しく青い背景の中にぽつんと存在している。
なんだか髪の長さといい、自分に似ていて変な気分だ。
キャンパスの下に設けられた白い四角の中に、青年は癖のある丸い字で『遺影No.205 岸辺デンジ』と走り書いた。きゅ、と油性ペンの音が良く響いた。
「……205」
「そーそー。俺の記念すべき205枚目の遺影。飾るつもりなかったんだけど、キョージュがなんか出せってうるさくてよォ……無理やりくっつけた」
「そうなのか……えぇと、君は、岸辺君?」
「岸辺君とか気持ち悪いからデンジでいーよ、オニーサン。で、アンタは?ガクセーじゃないっしょ?」
「あぁ、俺はこういう……」
アキはついいつもの癖で名刺を出した。受け取ったデンジは「……あー、そこのでっかいビルのところかぁ。俺キョーカショ持ってるぜ、美術史のヤツ。必修だったから」とそれを着ていたツナギのポケットにしまう。所々汚れたそれは、デンジの作業着だ。
「営業部だから、また会うこともあるかもしれない。よろしく頼む」
「ン。ヨロシク、ハヤカワさん」
こうして。光安出版社営業部所属の一般サラリーマン、早川アキは、遺影描きの青年と出会った。
◆
久しぶりに刺激的な出会いをしたが、それでもアキの日常が唐突に変わる訳では無い。朝起きて、コーヒーを淹れ、ベランダで新聞を読みながらカフェインで目を覚ます。スーツに着替えてから伸びてきてしまった髪を括って、いつも通り出勤する。今日は、いつもの外回りに加えて、朝一で営業会議がある。予定を思い出してから、プリウスのエンジンをかけた。
朝の9時に出勤して、9時半から会議。営業成績の報告と、今後の方針を決めていく。アキは入社して2年目ながら、社内でもトップの成績を叩き出している。それを褒められることは悪い気はしなかった。
「さすがだね、早川君。この調子で頼むよ」
「はい、ありがとうございます」
でも。アキは笑顔を浮かべながらも。
「(あぁ。嬉しくない)」
底知れぬ虚しさを抱えている。
生まれた時から、何をしても虚しいと思う時がままあった。
野球部の試合でホームランを打った時。テストで100点を取った時。志望校に受かった時。
どんなに嬉しい事があっても、いつだってアキの心の中には、得体の知れない虚しさがあった。
まるで紡錘形の、檸檬の爆弾のようなそれをひた隠しにしてアキは今日まで生きてきた。
何かが足りない。
否、誰かが足りない。
家族もいる、友人もいる、先輩も後輩も、みんな真面目で優秀なアキを褒めてくれる。
でも、違うのだ。
アキにとって、その言葉をくれる相手が違う。誰なのかと言われると答えに詰まってしまうけれど。
俺が褒められたい人間は、お前たちじゃない。
「オニーサン、何してんの?」
「……デンジ君か」
「デンジ君!そんな丁寧に呼ばれたの久しぶり過ぎてウケる!」
ぼうっとしながら公園のベンチで昼休憩をとっていると、横からつい最近聞いた声が。絵の具汚れの付いたツナギではなく、シンプルなTシャツとジーンズを着たデンジだった。
「昼休憩なんだ。君は?」
「俺?バイト帰り。今からガッコー行って続き描く」
よいしょ。さも当たり前のようにアキの隣に座って、コンビニの袋からジャムパンを取り出して、大きく一口。
「んめ〜〜……」
「……朝のバイトなんだな」
「ンー?あぁ、まぁそんなとこ。絵の具もタダじゃねーしなぁ」
油絵具は、意外と高い。デンジが常日頃愛用しているのはホルベイン製の40mlチューブなのだが、これが安くても1本990円。絵の具は色によって値段が変わるので、高ければ3000円を超える時だってあるのだ。
おかげでデンジの生活費はカツカツ。稼いだ金の半分以上が、あの美しい青い絵の具に消えていくのだ。
「このジャムうめぇな。ジャムだけ売ってくれや」
「なんだそれは……」
コンビニの安いジャムパンを美味しそうに食べる青年が、なんだか眩しく見える。もう少し会うのが早ければ、弁当のおかずに入れていた唐揚げを分けたのに、とアキはなんだか残念に思った。
「ほら、たまーにあんじゃん?『このパスタのソースが美味いからソースだけ売ってくれ』みたいなの」
「……まぁ、ある」
「だろォ?!」
なんだか騒がしい、アキとは似ても似つかないチンピラみたいな風貌なのに、妙にしっくりくる。不思議だ。
アキは缶コーヒーを片手に、そんなことを考える。
あの『遺影』を見てからなんだか虚しさが加速していたのだが、デンジを見ると途端に心が落ち着いた。
この前初めて会ったのに、まるで前から知っていたみたいに。
「……デンジ君は、」
「デンジ」
「……?」
「あんたにクン、とか付けられんのなんか嫌なんだよね。呼び捨てでいーよ」
口の端についたジャムをペロリと舐めて、デンジは目を細めた。
「…………デンジは、なんで絵を描いているんだ?」
「んーーー…………」
空を見たデンジが、数秒考える。
スッとアキを見たその目が、年齢に合わないくらい大人びていて。
「殺されたいから」
それからも、アキとデンジの奇妙な昼休憩は続いていった。デンジは絵を描く時間を確保する為に、基本的に夜か朝にバイトをしているらしい。昼になると決まってコンビニのジャムパンを片手にベンチに座っていて、アキも外回り中にそれを見つけるとつい声をかける。
弁当のこと、仕事のこと、学校のこと。
何故か話しは尽きなくて、どちらかが弁当を食べ終わって立ち上がるまで、二人は穏やかに会話をする。デンジは次第にアキに懐いて、「ハヤカワのセンパイ、略して早パイ」なんてあだ名で呼んでくるようになった。
「デンジ、いつもパンだけでいいのか?」
「あー。俺、そんなに飯食わねぇんだよな」
アキは、実の所かなりの世話焼きだ。体の弱い弟の面倒を見ているうちに、誰かの世話をする癖がついてしまっていた。少食で細くて折れそうなデンジの体は、アキの世話焼きに火をつけた。
弁当のおかずを多めに作って分けたり、飲み物を与えたり、コンビニの割引券を差し出したり。
アキは与えたがりの愛したがりだ。甘やかして世話を焼いて相手をダメにするタイプのよくない男で、歴代の彼女はみんな口を揃えて「貴方といるとダメ人間になるから別れたい」と言って去っていった。
「ほら、これ。おやつに持っとけ」
「お〜。あんがと!」
今日もアキは、箱に入ったチョコレート菓子を手渡す。コンビニの引換券で貰ったものなので、実質タダ。実質タダといえばデンジは「タダなら……」と貰ってくれるので、アキは最近この言い回しを覚えた。控えめで不器用なデンジの笑顔は、アキの虚しさを少しづつ満たしていった。あるべき場所に収まるような、そんな居心地の良さ。
「あ、そういえば」
デンジと話していて、アキはとあるものの存在を思い出した。カバンの中から封筒を取り出して、2枚あるうちの1枚をデンジに差し出す。
「これ。取引先の人に貰ったんだけど、2枚あるからやる」
「なんこれ」
手に取ると、そこにはとある展覧会のロゴと、下には「特別招待券」の文字。
「あ!これ!」
「この前、それ行ってレポート出すと単位が出るとか何とか言ってただろ。ちょうど良かった」
「え、マジで?いいの?!俺なんも返せねーよ!」
「返さなくていい。余らせて無駄にするより、お前の単位になる方が嬉しいから」
「……そ〜〜かよ」
照れて俯くデンジが、ほんの少しだけ可愛いと思った。だから、つい。アキは口を滑らせた。
「じゃあ、お礼の代わりに俺とそれ行ってくれるか?」
「……へ?」
「俺は美術とか詳しくないから、横で説明してくれ」
「……おれ、そんなに上手く説明出来ねーよ」
「いいよ。お前の言葉で聞きたい」
穏やかな顔のアキに、デンジはなんだか胸の当たりがムズムズした。
「しゃ〜〜ね〜〜なァ!美術初心者の早パイに俺がキソから教えてやんよォ!」
そこで二人は初めてLINEを交換した。今の今まで、何の連絡もなく昼食を共にしていたのはある意味奇跡だ。
約束をして、待ち合わせ場所を決めて、土曜日の朝に二人は美術館の入口前で落ち合った。
「今日のこれって、どういう内容なんだ?」
「アー、今日のは美術史絡んでるからな〜〜……俺思い出せるかなァ……」
エントランスに入って、チケットの特別招待券の部分を学芸員がもぎ取る。パンフレットを1部ずつ手に取って、二人は絵が並ぶ回廊をゆっくりと歩いた。
デンジの解説は、本当にざっくばらんで独特な言い回しだった。
「キリスト様が偉い!凄い!ってのを字が読めねー俺みたいなのに広める為に始まったのが宗教画な」
「そんな言い方……」
「ジジツだし」
でも、デンジは上手く解説が出来ないと言う割に面白い文脈で話す。
例えば、キリストの磔刑は「これは『キリスト教は異教徒!認めねーかんな!』ってブチ切れたユダヤ教のヤツらにぶっ殺されたところ」だったし、ピエタは「んで、その後に『息子が死んじゃったよ〜』ってなってるマリアサマな」だった。なんでそんな俗っぽい言い方をするんだ。頭には入りやすいが。
だが、印象派の話だけは少し違った。
「アキ、美術知らんって言うけどさ。モネとかセザンヌくらいは知ってるっしょ」
アキの頭の中で睡蓮が咲いた。アレか。セザンヌはちょっと思い出せないが、名前は分かる。
「年号とかこまけーのは俺も忘れたけど、とにかくこの印象派ってのが絵描きの流れを変えたワケ。で、この中のセザンヌをめっちゃリスペクトしてたのがピカソな」
「ピカソってその流れからなのか?」
「セザンヌの絵の描き方にカンドーして、ピカソとかブラックって奴が描き始めたのがキュビスム……だったハズ。去年の必修だからあんま覚えてねーけど」
デンジとアキの前には、青い絵の具で描かれた人物画。デンジはこれを「青の時代」と呼んだ。
「青の、時代」
「友達がジサツして病んだピカソが、青とか緑ばっかで描いてた時のやつを、青の時代って呼んでんだよ」
「なんか、あの。教科書のゲルニカしかほぼ知らなかったんだが」
「まぁそんなもんっしょ。ちなみに言うと、ピカソってめっちゃ女取っかえ引っ変えしてたんだぜ」
青の時代。
それを見た時、アキは真っ先にデンジだと思った。
相変わらず、デンジは遺影を描き続けている。顔がぽっかりと空いた、自分によく似た男の遺影。青い絵の具で、執拗なまでに塗り潰されたあのギャラリーの遺影は一際異質さを放っていた。
不思議と、アキはあの絵が好きだった。なるべくしてああなったような、壊れて完成するような、そんな危うい綺麗さがあった。
デンジは、殺されたいから絵を描くのだと言うけれど。
デンジのすんとした横顔を眺めていると、急にデンジの目がパッと輝いた。
「あ!ダナエじゃん!」
「だなえ?」
「ゼウスがコナかけたキレーなねーちゃん!描く時みんな素っ裸にするから俺これ好き!」
「お前なぁ……」
頭の中が思春期なデンジは、神話の絵が割と好きだった。理由は単純に「描く時みんな女神様のこと素っ裸にするから」。当たり前だ。みんな堂々とヌードを描くために神話の絵ばかり描いたとまで言われているのだから。当時のアカデミーでは、ヌードとして描くのが許されていたのは神話画か宗教画か歴史画だけだった。ヴィーナスやらエロースやらヘラやらなんやら。確かにみんな脱いでいる。デンジが言うには「ダナエはゼウスが惚れた女」で、ゼウスが変身した金色の雨によってペルセウスを身篭ることになる。艶やかな肌の質感は、本当にこれが絵の具で描かれたのか疑うような滑らかさだ。
「ダナエとスザンナとパリスの審判はヌードのテッパンな!早パイも覚えとけ!」
「そんな偏ったことだけ覚える気はねぇよ」
きゃらきゃらと無邪気に笑うデンジが、本当に楽しそうで。絵なんて微塵も興味がなかったのに、アキはデンジと出会ってから美術の本を少しづつ読むようになっていた。デンジが話していたことがあながち間違いでも無いことを知って驚いたこともある。デンジといると、知らない自分が見えてきて、同時になんだか懐かしい気持ちになった。
展覧会の帰り道、画材屋に寄りたいというデンジについて、アキは初めて画材屋という場所に立ち入った。
壁を埋める絵の具、筆、紙。狭い通路に所狭しと並んだ迷路のような道を、デンジはずんずん進んで行く。アキには何が何だかさっぱりだ。デンジが立ち止まったのは、絵の具がびっしりと並んだコーナー。
「んー、と。これとぉ、これとこれ」
「……油絵具?」
「そー。無くなりそうなのあるから」
「全部青いな」
「青いとさ、赤色のこと忘れられるじゃん」
「はぁ……?」
デンジが不思議な事を言うのは今に始まったことでは無いので、スルーした。
「一番好きな色とかあるのか?」
「一番好きなの?ん〜〜〜…………これ!」
デンジがアキに突き出したのは、ホルベインの40mlチューブ。
「セルリアンブルー?」
「海とか空の色な。俺さぁ、水族館好きなんよ。特にペンギン。めっちゃ可愛い。飼いたい」
「ペンギン」
「ほら、池袋にさぁ、ペンギンが飛んでるみたいに見える水族館あんじゃん?テレビであれ見た時からこれ好き」
随分可愛いことを言うな。何だこの可愛い生き物。アキはちょっとショックなくらい、デンジの事が可愛く見えた。
「でもよォ〜〜……」
「でも?」
「これ、バカ高ぇの」
アキは値札代わりだというシリーズ記号を見る。Eだ。値段表のEと照らし合わせる。これは40mlだから。
「3,168円………………?!」
「な?!だから俺、これもうめっちゃケチって使ってんの!なんでこんな高ぇの?!意味わかんねー!」
呆然とした。この片手で握れるチューブが、3000円?
「リンジシューニューあった時とか、なんか賞もらった時にだけ買ってんの。好きなのにさァ!」
何となく、健気なデンジが可愛くて。
「デンジ」
「んー?」
「今日はこれ、買ってやるよ」
「おー。…………って、はっ?!」
「セルリアンブルー。好きなんだろ?」
「え、でも、」
デンジの手から40mlのチューブをするりと奪って、アキはレジを探した。アキの方が身長が高いので、その大きなコンパスを使って距離を引き剥がす。
「ま、待てって!早パイ!早まんなって!」
「早まってなんかねぇよ……あった」
レジには誰も並んでいなかったので、ここぞとばかりに絵の具を置いた。エプロンをした女性店員が、にこやかに笑って「こちらですねー」とレジに通した。
「うっそ、おま、まじかよ、3000円だぞ?!」
「だからだよ」
「は?!」
クレジットカードで一括払い。小さな紙袋を、花束のように恭しく手渡した。
「これで、今度は顔かけるといいな」
「…………早パイ、バカだろ。」
アキは知らず知らずのうちに、デンジに惹かれていたのだろう。
だからなのだろうか。
それを見た時、アキは見て見ぬふりが出来なかった。
その日は金曜日の夜で、アキは職場の飲み会に付き合わされていた。アキは確かに酒が好きだが、1人でゆっくり飲む方が好きだ。それでも上司との付き合いの事もあるので、出席して酒を流し込む。とりあえず生、から始まりそのままジョッキで二杯程。ちまちまとつまみで胃を満たし、程々に酔いを回す。熱い体に、妙に冷めた脳内が酷く不釣合いだ。9時を回った頃に店を出て、二次会に行くか行かないかを上司が点呼しているその向こう側。
看板のネオンが目に痛い、あからさまなラブホテルの下で見知らぬ男に腰を抱かれるデンジを見て、一瞬にして酔いが覚めた。
「早川、お前どうする?」
「すみません、明日は予定があるので」
挨拶もそこそこに、アキは早足でホテル街の方面へ消えていく。酔っ払った同期や上司は既に反対方向へ顔を向けていた。
雑踏をかき分けて、麦畑のような眩しい金髪を追いかける。
「………?………、……」
「…………。…………!」
居た。デンジだ。中年の、少し小太りの男と何やら話している。物陰からそれを見ていると、次第に中年の方が声を荒らげた。
「………!……………!!」
「っ、……………。」
周りの会話とパチンコ屋の音がうるさくて、アキは舌打ちをしてもっと距離を縮めた。
あと数メートル先という所で、アキは怒号を聞いた。
「時間割いて金払ってやってんだから黙って言う事聞け!このクソガキ!」
バチン!と乾いた音がして、男はデンジの顔を殴った。ネオンの中で病的に照らされた肌が、赤く腫れている。
殴られたショックなのか放心状態のデンジと、その手を無理やり引いてホテルに立ち入ろうとする男。
カッと視界が赤く染まる。その赤は、デンジの遺影の鮮血に酷く似ていた。
「おい」
デンジの、掴まれていない反対側の手を捕まえる。くん、と引っ張られたことで、ゆっくりとデンジがアキを見た。
「あ?誰だお前」
「俺のツレに何の用だ。その手ェ放せ」
「ハッ、何言ってんだお前。コイツにツレなんているわきゃねぇだろ」
「いいから離せっつってんだろうが!」
怒鳴ったアキは呆然とするデンジを抱き締めるように奪い返して、「帰るぞ」と声をかけた。男はそれを見て、不機嫌に唾を吐いてどこかへ立ち去って行った。
「はやぱい、なんで、おれ……」
「話は家で聞く。こんな所さっさと出るぞ」
不気味なくらい大人しくなったデンジを、アキは自宅へ連れ帰った。
一人暮らしの2LDKは、几帳面なアキらしく片付いている。ソファにデンジを座らせて、冷凍庫から取り出した保冷剤を差し出した。
「痛いだろ。冷やしとけ」
「…………いらない」
「いいから」
無理やり保冷剤を頬にあてる。デンジの目は死んだ魚のように無機質で、何も映していないように思えた。
「……お前が何のバイトしてたかは、なんとなく分かった」
「…………」
「なんであんな危ないことしてたんだ」
「……るせぇな、口出すなよ」
「おい、」
「俺には!何にもねぇの!!」
耐えきれなかった。心の中がぐちゃぐちゃで、何が言いたいのか上手くまとまらない。ただただ感情が溢れて止められない。デンジはそれが癇癪だと言うことを、理解出来ていなかった。
「親もいない、金もない、先生には迷惑かけてばっか、頭も悪ぃし、何にも持ってない!もうウンザリだ!夢であいつを殺すのも、生きてるのも!だから、だからおれ、」
「すこしでもいいから、ころされたくて」
フーッ、フーッ、と興奮状態の猫のようにデンジはアキを睨みつける。頭の中をそのままぶちまけて、ほんの少しだけ癇癪が収まる。
デンジにとっても、こんなのは初めてだった。
殺されたい。
それは紛れもないデンジの本音だ。
「ごめんな、さい……ころして、ごめんなさい……
たのむから。なぁ、はやぱい、」
小さな子供みたいに感情をコントロール出来なくなったデンジは、ボロボロ泣き始めた。握った保冷剤が、痛いくらいにアキの体温を奪っていく。
「ころして」
縋り付く子供に、アキは何も出来なかった。
「……落ち着いたか?」
「……ン」
アキの肩口に顔を埋めて泣いていたデンジが、鼻を啜った。タオルを一枚貸してやって、おもむろに置いてあったブランケットを被せてやる。
美術館で楽しげにしていたデンジとは、似ても似つかない姿だった。
痛々しくて、寂しそうな子供。床に膝立ちしていたアキは、何となくデンジの隣に座る。泣き疲れたデンジが、右肩にもたれ掛かった。デンジの体は病的に軽くて、恐ろしい気持ちに襲われる。
「…………おれさぁ。親に捨てられたんだって」
「……」
「せんせーの孤児院の前に、ちっせぇ俺が放ったらかしにされてて、そのまんまそこで育ったの」
一体それが何歳の時の話なのか、アキは知らない。でも、親に甘えて育つはずだったデンジが孤独に生きてきた事だけはわかった。
「おれ、なんにも持ってねーの。金もねぇし、頭も悪ぃし。おまけに、ずーっと誰かを殺す夢も見る」
「……だから、遺影?」
「そう。お前を殺したのはおれだから、はやく殺しにこいって、アピールしてんの」
あはは。力無く話すデンジを、アキはぎゅう、と抱き締めた。
「でも、ちっとも殺しに来てくんねーからさぁ。どうやって殺してもらおっかなぁっておもって。そんときに初めて声かけられたの。金やるからヤラせろって」
美大に入ってすぐだった。施設は高校卒業と同時に退所が決まっていたから、デンジは小さな古いアパートで一人暮らしを始めることになっていたが、如何せん金がない。食パンで食い繋ぎながら、食パンより高価な絵の具で一心に遺影を描く生活。そんな中で声をかけてきたのが、青少年を食い物にするような輩だった。
「初めてヤッた時、すんげー痛かった。痛かったけど、死ぬくらい痛くて、殺されてるみたいで気持ちよかった。気持ちよかったから、やめらんなくなってさぁ。ウケるよな」
デンジは罰を欲している。殺されるくらいの酷さを望んで、痛みに溺れるように自ら体を差し出した。
「フツーにきもちぃときもあるけど、イッた時って意識フっ飛ぶじゃん?それも、死んだみたいでサイコーだった」
「さっきのは、」
「さっきの?……えっと、金減らされそうだったから、文句言ったらぶん殴られた」
金が貰えて、痛くて気持ちがいい。
デンジはそれに依存して、週に2、3度は体を明け渡していた。でも、それはあくまでも対価があるから受け入れていたに過ぎない。
いてもたっても、居られなかった。抱き締める力を強くして、頭をかきだく。
「…………デンジ」
「ん?なに?早パイもおれのこと、殺してくれんの?」
「……そうだな。とびきり酷くしてやるよ」
「やった」
うれしい。
今度は、アキが耐えられなかった。
デンジをベッドに組み敷いて、そうして。
アキの世界は、セルリアンブルーに染め上げられた。
◆
デンジは、アキに殺された。
それはもう、とびきり酷く殺された。
「黙って俺に殺されろ」
そう言ってアキはデンジを優しさで惨殺したのだ。
殺されたから、顔のない遺影を描くのを辞めた。
かわりに。
「……また俺の事殺したのか」
「だってよォ〜。アキ、ツラがいいから描いててたのしーんだよ」
相変わらず作品のタイトルは『遺影No.213』だが、今度はきちんと顔が描かれていた。
セルリアンブルーで染め上げた背景と、光を浴びながら笑う、煙草を咥えたアキ。
デンジの『遺影』は、生きている人間の一瞬に変わった。
あれから、デンジはアキにこっぴどく叱られて援交を辞めた。そのかわり、アキの家の家事をすることで金を得る生活を始めたのだ。ボロアパートを引き払って、アキの家の使っていなかった部屋に転がり込んだ。
孤児院で院長の岸辺に扱かれていたデンジは思いの外料理が出来たし、「絵の具ってさぁ……転がしとくとチビに容赦なく使われんだよ……」と遠い目をしながら片付けだってこなした。
相変わらず殺されたがりのデンジだし、人殺しの夢も見る。でも、デンジが魘されているとアキは決まって起こしてくれるから、最近はあの顔の分からない男の遺影は減ってきていた。もちろん、週末の夜はたっぷりとデンジを殺してくれる。
殺されたがりで愛されたがりで与えられると不器用に笑うデンジと、殺したがりで愛したがりで与えたがりのアキ。
「ちゃんと殺したんだから、俺の事しっかり殺せよな」
「言われなくても」
田無美術大学絵画学科油絵専攻2回生、岸辺デンジ。
彼の学内でのあだ名は、今も「遺影描きのデンジ」である。