いつか塩柱になる愛よ「ムック本、ですか珍しいですね」
その日、アキが上司に手渡されたのはいくつかのムック本だった。
アキの勤め先である光安出版社は、基本的に大学向けのテキストや資料集を中心に扱っているが、こういった雑誌やムック、季刊誌の類も何冊か出している。
「そうそう、何件かの学生生協から雑誌の取り扱いもしたいって声が最近かかってて。営業頼めるか?」
「わかりました」
そう答えて本を受け取る。
定期的に卸している講義用の指定テキスト以外の書籍は、営業をするためにまずは自分がそれを読むことが必要だ。なので、こうして受けとる時があると、職務中も休みの日もアキは本の虫になる。その日も残りの時間を読書と分析で過ごした。ラインナップの大半は学生向けの料理本や就活生必見、と書かれた企業分析本など。確かに気になる年頃なのだろう。自分だって、就活生の時はこんな書籍を買っていたなぁ、とアキはなんだか懐かしくなった。
……そういえば、アイツ。結局画家として生きていくんだろうか。食べていけそうなくらい絵は良いけれど。
そんなお節介が頭を過った頃に、アキはその本に手をつけた。
「これは……」
表紙とタイトルを見て、アキは本をそのままカバンにしまった。家に帰る途中でコンビニに寄って貢物のチョコレートを仕入れてから、少し前から遺影だらけになったアパートに帰る。
「ただいま」
「おけーりぃ〜」
ドアの音を聞いたからか、ひょこりとリビングの方から青年が上半身を覗かせる。楽なTシャツにサイズの合わないエプロンをして、手には菜箸を持ったまま。完璧な幼妻スタイルに、アキの頬が緩んだ。
悪くない。だが、アキの悪くないは「かなりいい」と同義である。
「デンジ、悪いな」
「いーってことよぉ!今日はデンジ君特製チャーハンな!」
「最高。着替えてくるから待ってろ」
「おっけぃ」
カバンを適当に置いてからスーツを脱いで、楽なスウェットに着替える。とりあえず下から着替えて、腹が減ったので上は着ながら移動した。
「うわ、アキそんなに腹減ってんの?」
「そんなに腹減ったんだよ」
手を洗ってうがいをして、デンジが用意した食卓につく。チャーハンの具は近所の肉屋が安く売ってる焼豚の切れ端を細かくしたものと卵とネギ。チャーハンはシンプルな方がうめーだろ、とはデンジの意見だ。
いただきます、で頬張ったチャーハンは今日も最高だった。
「どう?美味い?」
「美味い。一生作ってくれ」
「アキが今日も殺してくれんならダイカンゲーだぜ」
二人にとってはなんてことは無い会話だ。
週末の夜、アキはデンジを殺す。
三ヶ月ほど前から続いている二人の関係の根幹をになっているその行為は、あっという間に染み付いていった。部屋に微かに漂う絵の具の匂いと同じくらい当たり前になった行為をするだけで一生作ってくれるのなら安いものだ。
チャーハンと付け合せの卵スープを平らげて、それぞれ入浴をする。今日のデンジは長風呂だろうな、と当たりをつけた。
今日は金曜日。つまり、アキがデンジを殺す、もとい抱く日だ。
先にアキが入り、後からデンジが長風呂。入念に温まってから、「入んぜ〜」と声がかかった。
「ン、おいで」
「へへ、」
ベッドの上で軽く手を広げると、デンジはぽすんとアキの腕の中に収まった。ここに来たばかりの時は骨と皮みたいな薄さだったのが、段々と肉をつけてきた。ふに、と頬をつついて、そのまま顎を掬って口付ける。
「……今日はちょっとゆっくりしよう」
「ン、わかったぁ」
ふにふに、とデンジの柔らかい皮膚をつつく。されるがままのデンジは手持ち無沙汰になったらしく、アキの部屋をぼんやり眺めていた。
じ、と見ていた先にはアキの通勤カバン。書籍が沢山入りそうなリュックの端から覗く、どこか見覚えのある絵。
「…………なぁアキ」
「ん?どうした」
「あれ、どったの」
ぴ。デンジが指さした先には、1冊のムック本。
「……あぁ、忘れてた。そうだ、お前に聞こうと思ってたんだ」
デンジを抱えたまま移動して、本を持ってベッドに戻る。表紙には、燃える街を背に走る家族。
「仕事でムック本を売り出すことになった。サンプルを貰ったんだが、これはデンジに聞いた方が早いと思って。これなんの絵だ?」
「ん〜〜〜〜………………あ、これあれじゃん。塩」
「し、塩?」
「そう、塩」
パラパラ中を見たデンジが、内容を思い出したらしい。アキが続きを急かすと、いつもの独特な語り口で説明をしてくれた。
「んっとぉ。きゅーやく?の聖書だったか?まぁ細かいとこはいいや。神様の命令で天使が二人、ソドムっつー街に行くことになる。このソドムってのはなんかもうめっちゃ治安が悪ぃ歌舞伎町みたいな所でさ。神様が『ちょっとここ滅ぼしてきて〜』って天使を派遣すんだよ。そんでたまたまそこに住んでた、なんか神様系の親戚の、宝くじみてーな名前のおっさんの家に行って泊めてもらうの」
「宝くじみたいな名前……?」
「名前忘れた!んで、おっさんは天使とかしらねーままそいつらオモテナシすんのね。そしたら突然ソドムに住んでるヤベー野郎共が家囲んで『そこにきるキレーな兄ちゃんよこせ!』って迫ってくるもんだから、『娘の処女やるから勘弁して!』って交換条件出す。けど、ソドムに住んでるのはヤベー男しかいねぇから、『いやそんなガキよりキレーな男をよこせ』ってまた迫ってきてぇ、だから仕方なーく天使は『いや本当は俺たちここ滅ぼしに来たんだわ。お前ら良い奴だから先に逃がしてやるよ!』っておっさん達を逃がしてやって、んでその場面」
「へぇ。で、どこが塩?」
「この後」
表紙を一枚めくると、そこにはどこぞの岩山の光景。すっくとそり立つ、一本の岩柱。注記には実在する柱、と書かれている。塊と言うよりは柱と言うべきなのだろう。
「おっさんと家族は天使に逃がして貰うんだけどよ、そんときに『いいか、ぜって〜振り向くなよ!』って言われんの。でもおっさんのオクサンは途中で街が気になって振り返っちまう。そしたら、その女はたちまち塩の塊になっちまいました〜…………って話」
「よく覚えてたな」
アキがデンジの頭を撫でて関心していると、デンジはにやりと笑った。
「あれ、気づかねーの?」
「?」
するり。デンジの細い腕が、アキの首に回った。
「天使はキレーな兄ちゃん。家を囲んだのはソドムに住んでるヤベー男。……ソドムって街はよォ、よーするに、そういう街なんだよ」
「は、」
耳元でデンジは囁くように話す。ぺろり、と悪戯のように薄い舌がアキの耳を這った。
「んでもって、俺とアキがするようなさ、こういう、神様が言うことにゃ『フシゼンな行為』の事をよォ、」
ふぅ、と甘い吐息が鼓膜をくすぐって、尾骶骨が戦慄くような感覚が襲う。
「ソドミーって呼ぶんだとよ」
デンジがアキを押し倒す。
夜が、始まった。
◆
「…………デンジ、動けるか?」
「んぁ、まってぇ……」
ずる、とアキが身動ぎする。デンジはくったりしたままベッドに身を投げ出した。
「ソドミーなぁ……ふぅん、初めて知った」
「はぁ……っ、あきぃ、」
「ん、待ってろ」
ちぅ。軽くキスをして、アキはデンジを抱き上げた。可愛らしくキスを強請るデンジにこれでもかと口付けながら二人でシャワーを浴びて、性の香りが僅かに残るベッドに横たわる。ようやくデンジも落ち着いたらしく、しげしげとムック本の表紙を眺めていた。
「それ、営業で大学に売り込むんだ」
「へぇ。でもソドムから逃げる場面とかいうクソマイナーな絵をヒョーシにすんのはどうかと思うぜ」
「むしろお前が知ってる方が意外だった」
「あー、ほら、前に言ったじゃん。俺みてーな字が読めねーやつに色々教える為に出来たのが宗教画だって」
「……確かに」
文字ではなく視覚的に伝えるという点で、絵画は優秀な教科書だ。世界中の誰でも平等にそれを覚えられる。デンジも例に漏れずこの恩恵を受けていた。
デンジは小中と不登校だった。孤児というのを引き合いに出されて散々な目にあったせいで、学校を好きになれなかった。
子供は残酷だ。自分と違う存在を矢面にあげて、仮初の仲間意識に安堵を覚える。そこで犠牲にされた誰かの時間は永遠に帰ってこないことをまだ知らないから、残酷な事を簡単にやってのけてしまう。物理的ないじめに嫌がらせ、無視、からかい。大体のものは一通りされたし、性的ないじめに発展する寸前でデンジが相手を殴ったこともあれば、絵を描いている事を馬鹿にされることもあった。一度だけ養父であり孤児院の院長である岸辺の前で「行きたくない」と泣いた時に、
「じゃあ行かなくてもいい。辛いことしてても辛いだけだ。ただ、お前が学校に行くはずだった時間は永遠に帰ってこないし取り戻せない。自分でなんとかするしかない。それでもいいなら、ここにいろ」
と頭を撫でられて、デンジはそれ以来学校に行かなくなった。何度も教師が訪ねてきたが、「子供のいじめも制御出来ない教師に何を言われようとデンジは行かせない」と岸辺は門前払い。それに救われた気分で、中学卒業までデンジは一度も学校に足を踏み入れる事はなかった。
人間関係の構築にうんざりして、自分が受け入れられることを諦めて、他人の機敏に疲れてしまった幼い頃のデンジは、「俺は元々こういう人間だったんだから、これが正解なんだ」と考えれば心が軽くなった。岸辺の手伝いをして、孤児院の小さな子供たちの面倒を見て過ごす日々。デンジの義務教育の勉強は岸辺が見てくれていた。ひらがなとカタカナ、それから算数、社会、英語を少し。理科と国語はさっぱりなのがその後遺症だ。高校は通信制で卒業し、実力主義な面がある美大に入れたのはもはや奇跡だった。
美大ですらデンジは一人だ。そもそも絵を描くことに狂った奇特な人間しかいないのだから、最初から馴れ合う必要がない。美大は、デンジにとって居心地がいい場所。最低限の授業を受けて、好きなだけ遺影を描ける。初めて学校という場所を好きになれた事に喜びを感じた。
それに加えて、アキとの日々はデンジの壊れかけた自尊心を修復するのに覿面だった。自分を尊重されて、優しくされて、暖かく抱き締められる。柔らかな体温に甘え縋っていると時折どうしようもなく泣きたくなるが、そんな時は決まって「泣いてもいい」と言ってくれるのが嬉しかった。初めてアキに殺されたあの日から、人殺しになった異形の自分が救われた気分で。
「でもま、美大に置くにゃ向いてねーな」
「なんでだ?」
「バッカお前、みんなこんなん授業でやるっての。だったらフツーの大学に置いた方がまだ物珍しくて売れんぜ」
「それもそうか……」
デンジのありがたいアドバイスを元に、ムック本を一瞥した。
ここでデンジから、そういやぁさ、と一言。
「むっくぼん、って何?なんかのキャラクターに居たよな、そんな名前の赤だか緑だかのヤツ」
「ガチャピンとムックは何も関係ねぇよ。……雑誌のマガジンと書籍のブック、を合わせて作られた造語だ」
「何がちげーの?どっちも本じゃん」
先生が交代して、今度はアキが話し始めた。ピロートークにするには些かお堅い話題だが、まぁいいだろう。
「雑誌ってのは基本週刊だったり季刊誌だったり、販売期間が決められている本を指す。書籍は普通に売ってる文庫本とかの単行本。要するにムック本ってのは『雑誌に見える単行本』って事だな」
「へぇー」
パラパラ。色とりどりの絵画が逸話と共に並んでいる。どうやら聖書と絵画についてのムック本で、知的好奇心を満たそうという趣旨のようだった。
「俺にはデンジがいるからそれは必要ねぇけどな」
「そりゃドーモ!」
ぱたん。デンジは本を閉じて床に置くと、アキの腰に腕を回した。猫のように甘えていると、アキはデンジを腕の中に閉じ込めてそのまま布団に潜り込む。
「今日の殺し方もサイコーだった」
「お前の死に方もな」
「これなら一生チャーハン作ってやってもいいぜ!なんならアンニンドーフもつけてやんよ」
「完璧だな、結婚しよう」
「ギャハハハ!やっすいプロポーズだなオイ!」
まるで付き合いたての高校生のような雰囲気で、二人は狭いベッドで寄り添い合った。使い古された陳腐な言葉と共に毎週心中を繰り返すアキの部屋には、セルリアンブルーのひしゃげた額縁が掲げられている。
真っ赤に塗りつぶされた、アキに似た男の顔。メメント・モリを訴える血液だったはずの赤は、まるで祝福の薔薇のような色合いにいつしか変わっていった。
あれからデンジの絵には、色が増えた。今まであの生温い赤を忘れる為だけに青に執着していたのが、赤に加えて緑や黄色、白とどんどん遺影は華やかになっていった。セルリアンブルー単色で描くのは、決まって遺影の瞳。デンジはアキの目が好きだ。自分を見てくれる、優しい青色。
デンジの遺影に顔が現れたことに周りの人間は大層驚いて、今まで話したことがないような人達すら話しかけてくるようになった。そこで初めてデンジは自分が「遺影描き」と呼ばれていたことも、実力があると一目置かれていたことも知ったくらいだ。デンジの、夢の中の銃人間への手向けの花はようやく完成したと言ってもいい。積み上げたキャンパスの数だけ彼を殺したことは変わらないけど、その分これから弔い続けると決めている。なんとなく、無性にデンジはアキが愛おしくなって。
「なぁ〜アキぃ、」
「ん?」
「明日さ、暇ならデートしよーぜ」
「どこか行きたいのか?」
「んひひ、」
擽ったそうに笑って。
「美術館!おもしれーのやってんの思い出した!」
◆
デンジは見た目によらず美術館が好きだ。単純に知的好奇心を満たすことが好きで、見ているだけで純粋に絵画を楽しむことが出来る、まさに鑑賞者向けの性格をしている。一方のアキは絵の内容に細かく説明を求めるタイプなので、デンジが居ない時は美術書を読みながらではないと理解が及ばないめんどくさい性格をしている。
「で、どこの美術館だ?」
「あそこ、上野の端っこの。今あれやってんだよね、デューラー展」
「でゅ……なんだって?」
「デューラー。んーーっと、版画いっぱい描いたやつ!」
デンジの言うところには。
「あるふぁべっと?じゃねぇや……えっと……あ、あるぶ……」
「もしかして、アルブレヒトか?」
「そーそーそー!それ!あるぶれひと!あるぶれひと・デューラーってんだけどさ。自画像と版画めっちゃ描いてたやつなの。で、今来てんのがぁ、」
ぴ、と指差したポスターは、色味がまるでない。
白と黒で構成され、細い線が縦横無尽に紙面をひしめき合う、シンプルなように見えて、その実濃密な情報が描き込まれたポスター。デューラー展のゴシック体の下に小さく書かれた作品名は。
「黙示録の四騎士!」
館内は、土曜日ということもあってそこそこ人がいた。
「ドイツの画家ってさぁ、なんかみーんな職人って感じで冷てーんだよなぁ」
「地域で感覚も変わるのか?」
「んー、ドイツは職人、イタリアとかフランスはお偉いさん向けの商売人、オランダは趣味人って感じィ?オランダはあんま好きくない。ちっせー室内画ばっかでツマンネーから。あ、でもレンブラントは好き!キレーなねーちゃん描くの上手いし!」
アキも額縁の中を見つめる。確かに、華やかさとはかけ離れた「仕事」のような冷たさがある。白と黒の線がよりそれを強くしていた。油彩もあるが、遊び心とはまた別の、キッチリした塗り方や場面を描くことへのこだわりを感じさせてくる。
展示パネルを眺め、同時代に活躍した違う画家の絵を冷やかし、デンジはいつもとはかけ離れた、しんとした横顔で絵を見ている。
アキは、デンジが絵を見る時の横顔が好きだ。何か遠くを懐かしむような顔で、じっとそれを見つめている。目を少し細めて、脳に絵を刻みつけて、その線の一部がいかに自分の遺影に昇華するかじっと考えて、首を捻って、やがて自分を見つめるアキに気がついて「アキ?」と問いかけてくるのだ。
「デンジの顔見てた」
「……絵見ろよな。説明してやんねーぞ」
「悪かったよ」
そうして二人は、展示の後半になってやっと例の黙示録の四騎士の前に辿り着いた。
白と黒だけの、シンプルなようでいて複雑緻密な絵。四人の男がそれぞれ馬に乗って慌ただしくどこかを目指している。空を飛ぶ天使、足蹴にされる民衆。手前の馬だけがたやらとやせ細っている以外は、侵略か何かの絵だと言っても信じられるだろう。
「アキさぁ、黙示録ってわかる?」
「知らない」
「あー、簡単に言うと、預言書?」
「預言書……」
アキの好きな横顔が、アキの好きな声を紡ぐ。
「んっとぉ。これはしんやく?の方の聖書の話だったと思う。ヨハネっつー奴がいてさ。そいつが手紙に書いた預言なんだけどよォ、これがまーた変な内容なんだよなぁ。世界が終わるとかどうとか、そういう話。黙示録の四騎士ってやつは、その中に出てくる奴らなの」
デンジはそれぞれを指差した。
「神話とか宗教の絵って、誰が描いてもちゃんとわかるように決まった持ち物もってんの。奥の弓持ってるのが支配とか勝利とか呼ばれてて、最初に出てくるやつ。二番目が剣持ってる戦争。三番目は天秤持ってる飢餓、だったっけ。飢えることな。で、最後が一番手前のやつ。病気とか悪魔を連れてくる死」
支配、戦争、飢餓、死。
アキはこんな話は初めて聞いたはずなのに、何故かそれが胸に引っかかって落ち着かない気持ちになる。
知っているような、知らないような。
そう、かつての満たされなかった空虚のような。
アキは、探していたものの鱗片を黙示録に見つけた気がした。デンジの声以外の音が消えて、荘厳な額縁から白い終焉がアキを美しく嘲笑う。それはきっと冷たいくらいに美しい女だという確信があった。
「俺、この絵好き」
「……理由は?」
「なんかわかんねぇけど、大好きで大嫌いで、食べたくなる。なんでだろーな」
「なんだよそれ」
赤色や遺影といい、相変わらずデンジは不思議な物言いをする。絵を食べたくなるなんていうのは初めてだけれど。
「一番好きなのは、支配。白い馬に乗ってて、カンムリ被ってんの。カッケー」
「ゲームにありそうだな」
「まぁあるだろーよ」
人が詰まってきたので、二人は黙示録の四騎士の前を一度通り過ぎた。その三つ向こうには、燃える街から逃げ惑う家族の油彩画。
「……これ」
「そー。これも来てんの。ソドムから逃げる家族」
アキはチラリと解説パネルを見て、呆れた。
「宝くじみたいな名前って何かと思ったら、お前……ロトって……」
「あーっ!そうそれ!やっと思い出した!ロト!」
「確かにロトは宝くじの名前だけどなぁ……」
遠くに小さく佇む、塩柱になった女と悲しく街を去る家族。街の方角は激しく燃え盛っていて、赤い絵の具がキャンパスをちろちろと舐めるように光っている。滅亡と、逃亡。亡骸は無いのに、死がそこにある。一つの街の終わりは、こうもちっぽけに描かれてしまうのか。
「…………これ、最終的にどうなるんだ?」
「あ?よく覚えてねーけど、娘が父親とガキ作って終わる、ハズ」
「聖書ヤベェな……」
「聖書ヤベェよ」
ロトの妻は塩の柱になる。
アキがなんとなくスマートフォンで検索したソドムや塩の単語は、その言葉に辿り着いた。
聖書の中では、度々女は悪となる。イヴしかり、リリスしかり、パンドラしかり。そうして、ロトの妻もまた悪となった。
街に置いてきた名声、富、享楽に未練を残して振り返ってしまった名もない女。その罰として、彼女は塩の柱となる。未練を残すな、過去を見るな。振り向くな、振り向くな、後ろには夢がない。そんなばかりに、神は彼女を悪にした。
振り向くな。
過去を見るな。
塩の柱とならぬように。
扉を開けてはならない。
黙示録。四騎士。塩の柱。
俺たちは、何を忘れている?
見たこともない桃色の天使が喇叭を吹いて、ちっぽけな世界の終わりを告げる。何故か天使の髪は桃色でなければならないと思い込んだことに首を傾げて、
「アキ」
「でん、じ」
細い指が、アキの人差し指を握った。
「ダメだ。振り向いたら、塩の柱になっちまう」
アキが振り向く事は、禁忌だとデンジは言う。
デンジは既に扉を開いてしまったから。パンドラのように蓋を開け、イヴのように知恵をつけてしまった。人殺しとなった、チェンソー頭の異形の自分を見てしまった。デンジは、それが開けてはいけない禁忌だったと理解している。あの安っぽいアパートのドアを、開けてはならなかったのだ。開けてしまえば、あとは慣性だ。夢は記憶の反芻では無いけれど、デンジにとっては現実の続きに他ならない。夢は現で現は夢だ。決して夢現ではない。
決して、中途半端でも思い出してはいけなかった。デンジの心は岩山にそびえる塩の柱のように、顔も分からぬ彼に縫いとめられてしまったから。
忘れてしまった大切な何かを思い出したい。
でも、それは禁忌だとデンジは言った。
四騎士もロトも、それが何かなんて決して語らない。緻密な手仕事の黒い線が狂気の沙汰のような、気が狂いそうなまでの生真面目さでアキを雁字搦めにする。
俺たちは何故、こんなにも愛し合うのか?
俺たちはどうして、こんなにも寂しいのか?
アキの満たされなかった心と、デンジの遺影。
まるで繋がらない点と点は、なぜ線を結んだ?
わからない。わからない、けれど。
「……そう、だな」
二人は、振り向かずに歩く。
しっかりと手を繋いで、その場を去った。
塩の柱にならぬように、離れてしまわぬように。
黙示録も、ソドムも、塩柱も、禁忌も、夢も現も夢現も。
何もかもを美術館に置き去りにして。
「アキぃ」
「なんだ?」
「図録買っていい?」
「俺もそう言おうと思ってた」
手元に残ったのは、一冊の図録と振り返らなかった過去、それから、塩の柱にならなかった二人の今。
二人で図録を読んで、スケッチブックにデタラメな線を引く。アキは絵心がまるでなくて、馬と言ってとんでもないキメラを生み出してデンジにゲラゲラ笑われた。デンジがキメラの横にサラサラと馬を描きながら、ぼんやりと呟く。
「……そろそろ、遺影じゃねぇやつ描かねぇとなぁ」
「え、は、急にどうした……?」
「んー、学内コンペがあんの。入賞したら学費ちょっと免除してくれるってヤツ」
奨学金を借りているデンジにとって、学費が減るなんて言うのは夢のような話だ。将来の借金は少ない方がいいに決まっている。
……アキは、デンジの奨学金を自分が肩代わりしてもいいと思っている。でも、それを言い出すためには、まずはデンジと形だけでも籍をいれないと難しいかもしれない。まずはデンジの養父に挨拶をして、実家の家族にデンジを紹介して、あぁそれなら北海道旅行になるな、そうしたら次は渋谷辺りに引っ越して……そんな事ばかりすぐに浮かぶくらい、アキはデンジを愛している。
たった三ヶ月なのに、何故こんなにも愛おしいのだろうか。まるで一年以上一緒にいたような心地になって、そっとデンジを抱き寄せた。
「アキ?」
お互いその理由はわからないけれど。
塩の柱にならぬよう、振り返ることのないように。
ひっそりとこの『不自然な行為』を続けていこう。
「コンペ、頑張れよ」
「ン!アキがいりゃあヒャクニンリキってやつよォ!」
元気よくブイサイン。
堪らずにアキはデンジにキスをした。
二人の知らない黙示録は、きっとどこかで笑っている。