拷問係 携帯電話の着信画面が、薄暗い寝室をぼんやりと照らした。規則的なバイブレーションが木製のベッドサイドテーブルの上で振動する。ベッドに横たわる痩せた男は、背後で鳴っている電話を振り返って取ろうとはしなかった。左手をブランケットから静かに引き抜くと、隣で寝息を立てている男の藤色の髪をすく。しばらくそうしているうちに着信は止み、画面も暗転した。あたりは再び暗闇に包まれたが、間も無く二度目の着信音が鳴り響く。髪を撫でられていた方の男が薄く目を開いた。
「出ぇへんの?」
緑青の髪の男は質問には答えずに、指先を相手の襟足に差し入れた。着信の振動で移動した携帯電話がプラスチック製のベッドサイドランプにぶつかり、カタカタと音を立てる。
「簓」
簓と呼ばれた男は、声の主の後頭部を引き寄せて唇を近づけた。しかしその愛撫は手のひらで遮られる。簓は不機嫌そうに眉根を寄せて、しぶしぶと身体を離した。上半身をひねって腕を伸ばし携帯を手に取ると、応答ボタンを押して無言で耳元に当てた。
「おい、今どこだ?」
電話口から低い声が聞こえてきた。若い男の声だったが、半世紀は生きているかのような貫禄を帯びている。
「家」
簓は感情を押さえつけた平坦な声で一単語だけ返した。乱れた髪を振って起き上がり、ベッドの上にあぐらをかく。仰向けで簓を見上げていた男は左腕を支えにして上体を起こした。反対の手で汗ばんだ前髪をかき上げながら、電話口から漏れてくる声に耳を傾ける。
「ツレと居るのか?」
「そう。ツレと居る。コイビトと居るんよ」
電話口の相手ではなく、目の前の男に言い聞かせる口ぶりだった。ツレの男は声を出さずに笑うとシーツに両手をついて起き上がり、簓の真正面に向かい合って座った。簓は左手を相手の右腕と脇腹の間の柔らかいところに滑り込ませて、肌の感触と肋骨の凹凸を確かめるように上下に動かした。男が鼻を鳴らして身をよじると、簓が電話を耳から離して男の首元に顔を近づけたので、男の方は簓の手首を掴んで耳元にそっと戻した。電話口から低い声が漏れてくる。
「……だかかりそうだから、悪いが来てくれねぇか」
「何て?」
簓はあからさまに顔をしかめた。頭の後ろをかき、大きく息を吐く。視線を目の前の男と絡ませると、甘えるように首を傾げた。男は簓から視線を外して辺りを見渡し、フローリングの床で皺になっていた青いチェックシャツをつまみ上げると、袖を通さずに肩に羽織った。男が身につけているのはそのシャツ一枚だけだった。
「それ明日の朝でもええやろ?なんで俺が行かなあかんねん」
簓は早口になり、両膝を苛立たしげに小刻みに揺する。その様子を眺めていた男があくびを一つしてベッドから降りようとしたので、簓は腕を掴んで引き留めた。男は自分の喉元を指差して声を出さずに「みず」と言い、キッチンへと向かった。
男はシンクの前に屈むと、慣れた様子で戸棚を開いた。中には白い陶器の皿とボウル、漆塗りの器がそれぞれ一組ずつ重ねてある。戸棚の奥の、手が届きづらい場所に銀色の灰皿が仕舞ってあるのをみとめて、男は満足そうに目を細めた。一番手前に二つ並べてあったグラスを一つだけ取り出し、扉を閉める。
次に冷蔵庫を開け、中にほとんど何も入っていないことに気がつくと呆れた様子でため息をついた。検分するように彷徨わせていた目線を、ドアポケットに立つ銀色のシートの上で止める。一枚取り出して冷蔵庫の光のもとでまじまじと眺めた。印字されている鎮痛剤の名称を二度声に出して読み上げ、そのままの姿勢でしばらく静止してから結局もとあった場所に同じように戻す。中段に寝かせてあった水のペットボトルを取り出してグラスに注ぎ、なるべく音を立てないように冷蔵庫のドアを閉めた。
男が水の入ったグラスを手に寝室に戻った時、簓はまだ電話の最中だった。普段は姿勢の良い背中が丸まっていて、その俯き加減から会話が簓の思うように進んではいないことを十分に察することができた。
「探せばええやん。倉庫にあるって。なんで分からんねん」
男は水を飲みながらベッドサイドに近付き簓を見下ろした。耳を澄ますと、電話口の声が途切れ途切れに聞き取れる。
「……ぐ口割るだろ……もう疲れてんだよ皆んな……から……親父も何しても構わねぇって言って……」
男は簓の肩を小突いて顔を上げさせた。グラスを差し出すと、簓は微笑んで一口だけ飲み、親しげな仕草でまたグラスを男に返した。携帯のマイクを片手で塞ぎ「ありがとお」と囁いてから、また電話に戻る。
「そんな急ぎのヤツなん?これ」
「……らせれば……この案件はこれで終われ……」
男は空になったグラスをヘッドボードの隅に置いた後、両膝をベッドにつき、立ち膝の姿勢でじりじりと簓に近付いた。男は部屋の隅のブラインドカーテンに目をやる。道路を通り過ぎる車の細い光が、簓の輪郭に沿って流れた。携帯電話を持つ骨張った左腕の薄い体毛が金色に輝いたのを見たとき、男は無意識に片手で自身の下腹を撫でた。その様子に簓は一瞥を与えると、右腕で男の腰を抱き、産まれてくる赤ん坊を待ち侘びる父親のような仕草で右耳を薄い腹に押し当てた。
「分かった。車?いらんわ自分で行くから」
簓はそれだけ言って電話を切ると携帯を枕の上に伏せ、両腕を男の身体に回した。鼻先で腹筋の滑らかな肌を上から下へとなぞり、戯れにへそに舌を這わせた後、下腹に額を押し付けて深く息を吐き出した。
「盧笙。ちょっと出掛けてきていい?」
「ええよ。気ぃつけてな」
盧笙と呼ばれた男は両手で簓の髪の毛をかき混ぜると、簓に気付かれない程度に小さく笑った。
「行きたくないよお」
「パッと行ってパッと帰ってきたらええやん」
盧笙は簓の両肩を掴んでそっと引き離した。簓は眉を八の字の形に下げている。盧笙は顔を傾けると、簓の唇に自分の唇を一瞬だけ押し当てた。離れる盧笙の頬に手を添えた簓は、反対側に顔を傾けて、もう一度唇を寄せる。二人の耳に、大通りからクラクションの音が届いた。
「俺が出掛けてる間、何すんの」
簓が問うと、盧笙は簓の携帯を開いて時刻を確認した。午後八時過ぎを指し示している。
「シャワー浴びたら、スーパーにでも行って来よかな」
事務所の扉が開いた時、その場に居た人々の半分が入り口ではなく窓の方に視線を向けたのは、雷が落ちたのかと勘違いしたからだった。蹴破られたドアの向こうに立つ簓は、上げていた片脚を下ろすと同時に前へ踏み出し、空気の張り詰めた室内へと進んだ。
部屋の中程の窓辺に寄りかかっていた銀髪の男が、出窓に置いてある灰皿にタバコを押し付けた。細かな装飾が施されたガラス製の灰皿には、吸殻が山のように溜まっている。銀髪が顎先で指し示した部屋の突き当たりには、若い男が一人、パイプ椅子に縛り付けられた状態で項垂れていた。
簓はわき目もふらず男に向かって真っ直ぐに歩いていく。簓の革靴がリノリウムの床を蹴るたびにコツコツと音が鳴り、部屋の空気を一層張り詰めさせた。簓は部屋を横切る途中、前を見据えたまま窓辺の灰皿を掴み取った。靴音の間隔が短くなる。椅子の男は顔を上げると同時に跳ね上がって全身をこわばらせたが、まるでライオンの檻が開け放たれていることに気が付いた飼育員のようだった。簓は腕を振って早足で男に近付き、その勢いのままに灰皿で男の右頬を殴りつけた。男は四肢がダクトテープで椅子と一体化していたために、大きく左側に傾き——椅子の脚の右半分が約二秒間宙に浮いた——椅子が男の体重に耐えきれなくなった瞬間に、派手な音を立てて床に激突した。倒れた拍子に男の左腕が床と座面の間に挟まり鈍い音を立てた。男は折れた腕と殴られた頬骨の激痛に「イー」と「エー」の中間の音を出して悶えたのち、吸殻と灰にむせ返った。男は顔中が灰と涙と鼻血にまみれ、ほとんど窒息しそうになりながら目を見開き必死になって酸素を取り込んでいる。
壁沿いに控えていた男たちは、その様子を息を殺して見物していたが、銀髪の男が気怠げに部屋の外に出ると、全員が後に続いて退出した。ドアが静かに閉まる。部屋の中には椅子の男と簓だけが残された。天井の照明の周りを飛び回っていた一匹の蛾が、何の前触れも無く生き絶えて床に落下した。
無表情の簓は左手に掴んでいた灰皿を視線の高さまで持ち上げると、クレーンゲームのように水平方向に動かした。男は床に左頬を擦り付け短い間隔で呼吸を続けながら、右目だけで天井を見上げ、自身の頭の真上に狙いを定める灰皿を食い入るように見つめる。簓は右手をポケットに入れ、重心を片脚に預けると動きを止めた。
灰皿を掴んでいた指を小指から順番に離していく。薬指、次に中指。安定を失った灰皿が、自重で下方に大きく傾いた。簓は深く息を吸ってから、短く呟く。
「あんたも早く帰りたいやろ?」
簓が人差し指と親指を開いた。