ルーナ・ドミニカは血縁に恵まれない男だった。顔も知らぬ父は母が孕んだことを知って殺そうとするような悪漢であったらしいし、その母は愛した男に裏切られたことで気が狂って我が子と元恋人を混同して襲いかかるような女であった。だがそれは過去のことだ。今のルーナには大切にしたい存在も信頼のおける仲間もいる。あとついでにそれなりに可愛く思う弟子もいる。母親のことを思い出すと今でも目前にもやがかかるような気持ちになるが、もういない相手のことだ。終わったことを嘆くよりも、ルーナにとっては新しく購入した本のページを一枚でも多く読み進めることのほうがよっぽど有意義に感じられた。
こんこん、と木製の扉がノックされる。自宅のソファーで寛ぎながら書物に没頭していたルーナは顔をあげ、怪訝な表情をした。ラベンダーベッドの奥まった場所にある彼の自宅を訪ねる人間はそう多くない。それに訪問するともなれば事前に連絡を寄越すだろうし、緊急事態ならリンクシェルがある。なんの約束もない今日に来訪者があるとすれば知人でない可能性が高い。であれば居留守を決めようかとも思ったが、二度、三度と繰り返されるノックにため息をつく。ルーナは本を置くとしぶしぶ玄関へと向かった。玄関扉の磨り硝子ごしに見えるのは背の高い男の輪郭だ。己とそう変わらない身長と体格に、おそらくエレゼンだろうと当たりをつける。見える限り武器は持っていない。
「……誰だ?」
愛用の杖を片手に、ルーナは少しだけ扉を開き、尋ねる。すると
「ああよかった、今日はちゃんと居た」
そう聞き覚えのない声が返ってきた。
扉の前に立っていたのはやはり見知らぬ男だ。予想通りエレゼンで、黒い髪に紫色の瞳の青年は知らないはずなのに不思議と既視感があった。にっこりと微笑みながら青年がお辞儀をする。そうして顔を上げてから、嬉しそうに口を開いた。
「はじめまして、アルベール兄さん」
沈黙があった。体感時間でいえば昼から夜になるくらいの長い沈黙だ。だが実際頭上の太陽はさして位置を変えていないし、月もその気配すら見せていない。頬を紅潮させて自分を見つめる青年にルーナは立ち尽くした。呆然と黙ってしまったルーナに構わず青年はずいと足を踏み出す。
「ずっと貴方に会いたかった。父は貴方のことを秘密にしていたようだけれど、あるとき酒に酔って僕に教えてくれました。でも教わらずとも僕は貴方に気がついたでしょう。イシュガルドの街で貴方を見つけてから、ずっと、ずっと探していました。兄さん、僕は貴方の弟なんです」
捲し立てる青年にルーナの顔が青ざめる。青年の腕を強引に掴むと、彼は外へ向かって声をあげた。
「そ」
「そ?」
「双蛇党ーーっ!!不審者がいるぞーーっ!!」
「えぇぇちょっと兄さん!?」
引きこもり黒魔道士のどこにそんな力があったのか、ずりずりと青年を敷地外まで引っ張り出し双蛇党の兵卒を呼びつける。すぐさま駆けつけてきた仕事熱心な兵卒に感心しながら青年を引き渡すと、ルーナはすっと青年から距離をとった。
「ま、待ってください兄さん!どうか話を」
「最近この辺りをうろついてると噂になっていた不審者だろう。双蛇党でしかるべき処分をお願いする。あと私に弟はいない」
「はっ、ご協力感謝します!ほら行くぞっ」
「にっ兄さんーーーーっ」
引きずられていく名も知らぬ青年を見送ると、ルーナは自宅に戻ってソファーに腰かけた。ふうと一息ついて置き去りにしていた本を開く。中途半端に読み進めていた文章の続きを追い、ふと家の中へ視線を移した。
「ふむ、そろそろ引っ越すか」
誰も知らないはずの自分の名前を呼んだ青年の顔を一瞬だけ思い浮かべる。しかしその姿は各国の居住区の景色に追いやられ、再び浮上することはなかった。
*例えそうだとして今の私には関係ない*
「あれ?誰か来たんじゃないの?」
「不審者だ。お前も気を付けるんだぞレディ」