月と黒猫ブラッククァールは黒い毛並みを風に揺らしながらサファイアアベニュー国際市場を歩いていた。いたる場所から呼び込みの声がかかる活気に溢れたこの市場で小さな幼獣をわざわざ気にする人間はいない。ブラッククァールは巧みに人の群れを避けながら、ひとりひとりその姿を盗み見た。
──あれも違う。これも違う。
ブラッククァールが探しているのは背が高くて耳の尖った人間だ。耳は尖っているが小さかったり、ブラッククァールと同じように尻尾を生やしたものはいるが、目的の人間はなかなか見つからない。ブラッククァールのお目当ては自分の餌係だ。光と音が騒がしい場所からある日突然自分を連れ出し、そして突然いなくなった人間を探している。
──餌係のくせに、勝手にどこかへいくなんてとんでもない奴だ。噛みついて己の立場を分からせてやらねばならない。
見つけて説教するためにブラッククァールは街を歩き回った。
餌係がいなくなったのは騒がしい夜のことだった。いつもと違う服を着てどこか緊張した面持ちの餌係は「今夜は連れていけない」とブラッククァールを小さくて耳の尖った亭主がいる宿に預けていった。厨房で餌をもらい膨れた腹に満足してうつらうつらとしていた頃、にわかに外が騒々しくなった。たくさんの人間の足音が聞こえたかと思うと、それもすぐ遠くなっていく。ピリリとした空気は狩りのときのそれに似ていた。ブラッククァールは餌係が戻るのを待ったが、いつまでたっても来やしなかった。亭主はブラッククァールの世話をよく務めたが、ブラッククァールのことを見るたびなぜかどこか痛そうな顔をした。血のにおいはしなかったから、ケガをしていたわけではないだろう。ブラッククァールの頭を撫でながら「きっと大丈夫よ」とよく分からないことを言っていた。だがいい加減ブラッククァールは待つのに飽きたのだ。あの餌係はおそらく、ブラッククァールのところに帰る道を見失ったのだ。
──まったく仕方ないやつだ。
止める亭主を振り切ってブラッククァールは宿を飛び出した。そうやってブラッククァールの餌係を探す旅は始まった。
餌係がいないせいで、砂埃が目に入って痛かった。餌係がいないせいで、強い潮風に吹き飛ばされそうになった。餌係がいないせいで、暗い森の中で木のうろに隠れて雨をやり過ごすはめになった。はやく餌係を見つけて叱ってやりたかった。
ある日ブラッククァールは食事にありつくため狩りをすることにした。目当てはやけにしっぽがふさふさした耳の長い生き物だ。鼻をひくつかせてちょこちょこ歩き回るそいつに飛び掛かると、仕留める前に周囲にいたそいつの仲間がいっせいにブラッククァールを追いかけて集まってきた。これにはさすがのブラッククァールも驚いて慌てて逃げ出す。だがしつこいそいつらの爪で引っかかれ、体中に傷がついた。痛みに倒れこんだブラッククァールの頭には餌係の顔が浮かんだ。
──あいつのせいだ。あいつがいなくなったから。
ブラッククァールの頭をやさしく撫でる大きな手を思い出す。今すぐ抱き上げてほしいのに、その相手はいないのだ。諦めかけたブラッククァールの体に影が覆いかぶさった。
「大丈夫!?」
見れば角の生えた青い髪の人がブラッククァールの前にしゃがみこんでいた。その人が杖を振り回すと、しっぽがふさふさしたやつらはキィキィ悲鳴を上げて逃げていった。
「ひどいケガ……すぐ治療するからね」
細い腕がブラッククァールを抱き上げる。その人からどうしてか餌係のにおいがして、ブラッククァールは安心して目を閉じた。
「ただいま!」
「おかえり。まったく、ドアはもっと静かに開けろといつも言って……!?」
ルーナはメルコレディの腕の中でぐったりとするブラッククァールを見て目を見開いた。ルーナの様子には気づかず、メルコレディは慌ただしく家の中に入る。
「この子、森でスクウィレルに襲われてケガをしてるの。早く治療しないと……」
「クク?」
「え?」
ルーナがそろりと手を伸ばす。頭をやさしく撫でてやると、ブラッククァールは身動いで小さく「にゃあ」と鳴いた。
ブラッククァールが目を覚ますと、温かい毛布の中にいた。嗅ぎなれないにおいと知ったにおいが混ざって妙な感じがする。毛布から抜け出してあたりを見回すと、黒い服を着た背の高い耳のとがった人がブラッククァールを見下ろしている。
「クク」
餌係はブラッククァールをそんな響きで呼んでいた。ゆっくりとブラッククァールを膝に乗せると、長い指がブラッククァールの頭から背中までをそろそろと撫でる。
「モモディさんにお前が逃げ出してしまったと告げられてから、どうにか探そうとはしたんだが……。……無事でよかった」
今度彼女にも顔を見せてやらないとな。と、餌係は微笑んだ。しばらく餌係にされるがまま撫でられてやる。久しぶりの体温は心地よかった。
──だが目的はそうじゃない。
「いたっ」
ブラッククァールはがぶりと餌係の手に噛みついてやった。自分を置いて勝手にどこかに行った罰だ。餌係が声をあげるのも構わずがぶがぶと何度も噛みついてやる。
「クク!」
餌係の膝から飛び降りて、ブラッククァールは──ククはたたっと軽やかに走り出した。不思議なもので体の痛みはもうない。
「きゃっ」
角の生えた人の足元に絡みついて餌係を見上げる。ぱちくりと瞬きをする餌係にぷいっと顔を背けてやる。まだまだ許すつもりはない。これからずっと、餌係には自分の世話をさせるのだ。
「……嫌われてしまったかな」
珍しくしょぼくれたルーナの様子にメルコレディは苦笑する。ククと名付けられたブラッククァールはルーナが以前ゴールドソーサーで迎え連れ歩いていたのだという。しかしウルダハの祝賀会の騒動の後いなくなってしまったらしい。
「あの時はいろいろ大変だったんだ。モモディさんにもすまないことをした」
ルーナが再びウルダハを訪れることが出来たとき、クイックサンドにククを迎えにいった彼を出迎えたのはひどく申し訳なさそうなモモディだった。
「でも、見つかってよかったじゃない」
メルコレディは自分の足元をちょろちょろ動き回るククに笑いかける。メルコレディはなんとなく、ククがわざとルーナにつれない態度をとっているような気がした。
それからククはルーナにちょっかいをかけつつ、大抵はメルコレディの傍にいるようになった。だがメルコレディにはククの気持ちが分かっていた。ルーナに顎を撫でられてごろごろと喉を鳴らす彼女は、とても幸せそうなのだから。