月が綺麗な夜のことだった。
「月が綺麗だ……って、愛の告白って本当?」
自室にもじもじとして現れ要領を得ない質問をする弟子の姿を前に、ルーナは眼鏡を直した。
「ふむ。言ったか言われたかどっちだ?」
「えっ! あの、言われたのだけど……」
それを聞くって、やっぱりそういう意味なの? と顔を真っ赤にして尻尾をあちこちに振り回すレディをどうどうと宥める。
愛の告白を『月が綺麗ですね』と訳したとされるのはとある文学者だ。エオルゼア文学史の中でも著名な人物だが実際に彼がこのような訳をしたという記録はない。あくまで俗説に過ぎないが、この詩的な訳文は人々に好まれ広く浸透していた。とはいえルーナにはさして関心のないものでもある。しかし、と未だに頬を蒸気させる弟子を見下ろした。
ルーナにとっては子供でしかないレディもこれでも一四歳のお年頃というやつだ。見目も悪くない彼女に恋心を抱く人間が現れてもおかしくはないだろう。一応保護者として相手の名前を聞いておくかと思った矢先、レディが口を開いた。
「ええと、あの、ヴェネルがね」
「……」
その名を聞いてすっと頭が冷える。怒りでも呆れでもなく……憐憫だ。
「この間の夜、あなたの依頼から帰ってきたときに満月で……それで」
「……ヴェネルの場合、本当にただ月が綺麗だったんだと思うぞ」
「えっ!?」
ヴェネルというルーナのリテイナーの青年は本が苦手だ。読むとしても知識を得るための図鑑がほとんどで、ルーナやルーナがレディに読ませるような文字ばかりの本は見るだけで顔をしかめるレベルだ。ルーナにとっては信じられないことだが、ヴェネルは本を読む習慣がまるでない。そんな彼が「月が綺麗だ」なんて文学的な告白をするわけもなければ──妹のようにしか思っていないレディに愛を告げるはずもなかった。
「そ、そっかぁ……そうよね……」
期待に染まっていた顔は羞恥に色を変え、レディはしょんぼりと尻尾を垂らす。幼い恋心に振り回される少女を哀れみ、明日の朝食は彼女の好物にしてやろうとルーナはそっと思った。
「でも、どうして月が綺麗だと告白になるのかしら」
レディの知的好奇心が強いところはルーナも好むところだ。しょぼくれていた頭をぱっと起こして、浮かんだ疑問を口にする。ルーナもふむと腕を組んだ。
「普段見る月よりも、あなたと見る月はいっそう綺麗だ、なんて解釈もあるな」
「へぇ」
「直接的な愛の言葉よりロマンチックなんだろうさ」
自分で言ってルーナは口がむず痒くなるような気がした。恋愛について知識はあるが、したいと思ったことも実際したこともない。自分はそういった感情を持たず生まれたのだと思っている。だから単なる講釈であっても奇妙な違和感が生じるのだ。
そんな男の心情をまるで察することもない恋愛に興味津々の少女は目をきらきらと輝かせた。
「ねぇ、もしもあなたなら何て言う?」
「……は?」
「だから、あなたが愛の告白をするならなんて言うの?」
ルーナは己の眉間に深い皺が刻まれるのを感じた。今もっとも自分から遠いと思っていた質問を投げ掛けられたからだ。犬を追い返すようにしっしっと手を上下させる。
「くだらん質問をするな。いい加減寝る時間だぞ」
「なによ!」
ルーナにまったく答える気がないことを知ると、レディはぷくりと頬を膨らませた。しかしまるで取り合おうとしない師匠に諦めたのかくるりと踵を返す。
「おやすみなさい!」
「あぁ、おやすみ」
ぱたんと閉められた扉からやれやれと視線を外す。しかしまたすぐ扉がうすく開かれた、ルーナは顔をあげた。
「……一応、教えてくれてありがとう」
もう一度おやすみと言って姿を消すレディに、きょとんと目を丸めたルーナはその目を細めくっくと喉の奥で笑った。従順な弟子らしさこそない彼女だが、知識を吸収しようとする姿勢は実に素直だ。
「……私なら、か」
答えなかった最後の質問を反芻する。幾人かの好ましい友人を思い浮かべた。恋の類いでなければ、もちろんルーナにも好きな相手はいる。もし仮にこの友愛を告げるなら、自分はどんな言葉を紡ぐだろう。
「……一緒に」
ぽつりと呟く。
「一緒に旅をしよう」
夜の空気の中に消えていった声に、ルーナは苦笑した。ほんのりと熱を持つ頬を冷ますように窓を少しだけ開く。月明かりが照らす道はどこまでも続いていくようだ。
己のどこにこんなロマンチストが隠れていたのか、照れと呆れをないまぜにしながらルーナはしばらく入り込む風に髪を揺らしていた。