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外はバケツをひっくり返したような雨が降っていた。
真斗はどうせタクシーに乗るなら家まで帰ればいいだろうとゴネたが、こっちのほうが近いんでと押し切られて春日たちの溜まり場の店に向かうことになった。
車から降りて小走りに店へ向かう。まだ店はやっているようで、ようマスター、と勝手知ったる足取りで春日が入店し、真斗もそのうしろからドアをくぐった。レコードの柔らかい音が雨音と混ざって、落ち着いた雰囲気の店だ、と思った。
「おう、春日。雨すごいな。誰も来ねえしもう閉めようと思ってたとこだ」
「ほんとすげえ雨だぜ〜。二階泊まってっていいか?」
「ああもちろん。俺はもう帰るからよ、どっか行くなら戸締りしてくれ」
「了解。さ、若、こっちです」
「……ああ」
スペアであろう店の鍵を手渡された春日に奥へ促される。
マスターと呼ばれた男に会釈をすると、向こうも頭を下げた。バーのマスターにしては眼光が鋭いな、こいつの知り合いなんだからまた一筋縄ではいかない人物なのだろうなどと思いながら春日を追うようにして階段を上がる。
「へへ、俺らのアジト、若にも見せたかったんすよね」
「……なにがアジトだ。間借りじゃねえか」
「立派なもんでしょう、パブの二階は宿屋ってね」
なるほど、またなんとかいうゲームのなにかに擬えているんだろう、ニコニコしている春日に続いて靴を脱いで部屋に上がった。
「……昭和感がすげえな、下があんな店だから洋室なのかとおもったぜ」
「今時なかなか畳の部屋ないでしょう、落ち着きますよ」
「生まれてこのかた畳で生活したことがねえから落ち着かねえよ」
「はー、確かに……そうでしたね」
春日はタオルタオル、とあちこち開き、建設会社の名前が書かれたタオルを真斗に手渡した。
ざあざあという雨音は弱くなる気配もなく、ばちばちと窓に当たっては流れていく。どこかの街頭だか店の明かりだかが闇の中溶けて滲んでいる。
「もう遅いし、寝ましょうか」
「……そうだな」
ジャケットを脱いで鴨居に吊るす。ん、と手を差し出すと、春日はあっと言ってジャケットを脱ぎ、申し訳なさそうに真斗に手渡した。春日は、真斗がなにかしてやろうとすると慇懃なほどに恐縮してみせる。もうそんなものは不要だというのに。真斗は無言で、湿った赤いジャケットをタオルでぞんざいに拭き、並べて吊るした。
春日は押し入れから布団を出して敷きっぱなしだった布団の隣にそれを敷いている。何気なく押し入れを覗いた真斗が声を上げてのけぞった。
「うわっ! なんで河童がいるんだ……?!」
「ああ、それ。マスターの趣味なんすかね、最初からあるんすよそこに」
「なんでだよ……」
「慣れれば可愛いもんですよ」
へへ、と春日が笑う。
さっきから彼が妙にそわそわしているのはなんなんだろう、と思う。
「さ、どうぞ若。こっちのきれいな方で寝てください」
「……これは『きれいな方』なのか?」
「……こっちの万年床に比べて、ですけど」
びゅう、と風が吹いて窓に当たる雨粒の音が激しくなり、春日はカーテンを閉めた。
布団の上に座ってベルトを抜き、靴下を脱いでいる春日を見下ろす。下を向いている彼の鼻梁は高く、伏せたまつ毛は長い。立っている真斗のせいで影になっている春日を見ていると言い知れぬ気持ちが真斗の胸に渦巻いた。
「……若?」
無言の真斗を不審に思ったのか、春日が顔を上げる。
「……なんでもねえ」
真斗もシャツのボタンをいくつか外し、ベルトを抜いて枕元に放ると布団の上に腰を下ろした。
「……やるか?」
「へ?」
「セックスすんのか、って聞いてんだ」
「せ……っ、いや……若がしてえなら……でもここ、風呂とかねえっすよ」
「……」
沈黙の中、さらに勢いを増した雨粒がばちばちと建物に叩きつけられる音が耳につく。季節外れの台風のようだった。
「……もっと」
「え?」
「お前からも、俺に、望むこととか、ねえのか」
「……若?」
「なんでもねえ」
黄色く変色した蛍光灯の光がやけに気持ちを白々とさせて、真斗は春日に背を向けて布団に寝転がった。眼鏡を外して枕元に置いたので、彼はもうこのまま寝るのだろうと春日は思った。その背中に向かってぽつりと吐き出す。
「……若が、今日この日を生きててくれることが俺の望みですから」
「……」
「それでいいんです」
「……」
おやすみなさい、と春日は立ち上がって蛍光灯の紐を引いた。かちかち、かち、と三回音がして、四角い部屋は雨音と暗闇に包まれる。のそりと春日が布団に寝転がる音がした。
「……悪くねえよ」
「……ふぁい?」
「てめえの秘密基地」
「アジトです、若」
「おなじだろ」
「違いますよ」
ふ、と真斗が笑う気配がして、会話はそこで終わった。
雨足は弱まることを知らないように降り続いている。そのうちにすうすうと春日の寝息が聞こえてきたので、真斗はなんだかひどく安心してしまった。