定時と残業──よし!おれ、医者になる……
地頭(じあたま)が良い、と言ってくれた二番目の兄、カラ松に応じるように、医の道を志した。
乗せられた、と言ってもいい。
おまけに、次々と他の兄弟たちにも褒められたもんだから。
そこまで言われれば、おれも調子に乗るのは仕方のない事だろう。
実際、調子に乗った。
ノリで受験したら、マジで医大に受かってしまったのだ。
これでは更に調子に乗らざるを得ない。
居間で合格通知を高々と掲げると、父さんと母さんは抱き合って嬉し泣きをしていた。
だがここで学費、という問題が浮かび上がる。
医大の学費は高い、と噂に聞いた事がある。
うちの財力じゃ、無理無理。
六年間も通うとか、正直面倒だしニートの身にはハードルが高い。
この話は無かった事にしようとしたら、おそ松兄さんが金蔓坊から全額ふんだくってきた。
ここまでされたら、腹をくくるしかない。
そんな訳で真面目に六年間の学生生活を送った結果、お陰様で順風満帆。
他の兄弟たちを顎でこき使うくらいには、おれも出世した……
なんて、夢想してた時もあったね。
ま、現実は白衣を着て顕微鏡を覗き、検体を相手に診断をつけるという「病理医」ってやつを細々とやってますけど。
はっきり言って、臨床医よりは性に合ってると思う。
臨床医の研修も受けたには受けた。
受けなきゃいけなかったから。
ちなみに、その頃の記憶はナイ。
「松野先生、またご指名ですよ。松野……、カラ松先生から」
「あー、はいはい。そこに置いといて貰えれば、順番に片付けます……」
大学病院の病理診断科の自分のデスクに、検体標本と病理診断依頼の伝票が置かれた。
何気なく手に取って見れば、『一松アイラブユー』の文字が目に入って、危うく目の前の伝票をグシャグシャに丸めそうになる。
おれのとこに届くまでに、恐らく色々な人の目に触れたに違いない。
盛大に溜め息をつくと、集中して顕微鏡を覗き込んだ。
あれから、カラ松も別の医大を受けて、神の悪戯か悪魔の罠だか知らないが合格したのだ。
勿論、学費は「おれたちの金蔓坊」こと、全額ハタ坊持ちだ。
おれが研修に次ぐ研修でひいこらしてた頃、カラ松は整形外科の分野に進んでいた。
臨床実習中に、老齢の患者をレイディとかミスターとか呼んだりしてえらいウケたらしい。
だが、教授たちにはこっぴどく絞られていたと思う。
自分のとこの大学病院に勤めればいいのに、おれの勤めている大学病院にやってきて、夜勤明けにしょっちゅうおれの寮に転がりこんできたから、思いきって二人で部屋を借りたのがつい最近の事だ。
『悪性の所見は認められませんでした』と結果に記載したところで、内線が鳴った。
「はい、病理診断科……。松野ですけど……」
「一松か?俺、今日定時で上がれそうなんだ。良かったらこの後、デート……」
「あー、そー言う事言わない方がいいと思うよ。まだ終業時刻じゃないし」
電話の向こうから、「松野先生!急患です!」って叫ぶ声が聞こえてるし。
「じゃ、残業頑張ってね。おれは帰るけど」
「え?一松っ!?ウェイトっ!そんな~あ……」
情けない声を出すカラ松からの内線を容赦なく切った。
一応、あいつも腕はいいからね。
人気がある、ってのは知ってる。
あと、おだてると何だかんだ言ってやってくれるから看護士さんたちにとっては扱い易いんじゃないかな。
『唐揚げでも作っといてやるよ』
カラ松のスマホに、メールを送信した。
何時になったら見られるかは、わからないけど。
まあ、こんな生活も悪くない。