「食べごろ」 椎名さん、と暗闇の中から呼ばれた気がした。
「……呼んだ?」
ひとつのベッドの中、寝顔を見られることを嫌がるマヨイに配慮して壁の方を向いて寝ていたニキが、マヨイの方に体を向けようとすると、背中にしがみついてくる気配があった。
「椎名さん」
「どうしたの、マヨちゃん」
囁くような小さな声でまた名前を呼んで、しかしマヨイは沈黙した。小さく手が震えているのが分かって、ニキは背中にしがみつくマヨイを引き剥がすようにして、マヨイの方に体を向けた。
「眠れないんすか」
マヨイの肩ごしに見える目覚まし時計は、午前四時を示している。宵っ張りなマヨイも、いつもなら眠っている時間帯だ。
自分から声をかけたのに、マヨイは返答に困っているようだった。カーテンの隙間から入り込んでくる月明りがやけにまぶしくて、マヨイのピーコックグリーンの瞳が不安そうに揺れるのがよく分かった。
「マ~ヨちゃん」
わざと明るい声で名前を呼んで、不安そうなマヨイを抱きしめる。
「本当にどうしちゃったんすか。眠れない? どっか痛いんすかね、お腹とか。ほら、今日夜に急にアイス食べたくなってアイス食べちゃいましたし」
「……何でもないですぅ」
「何でもないって匂いじゃないっすねぇ」
「また、私の匂い勝手に嗅いでますね?」
「うん。いつだって超いい匂いっすよ」
すんすんと首筋に顔をうずめて匂いを嗅げば、不安な時のマヨイの匂いがする。マヨイが不安な時も、悲しい時も、いつもよりも大分と美味しそうじゃなくなってはいるものの、マヨイの匂いがいい匂いであると感じられるのは間違いない。
「……今日は、しないんですか」
「急っすねぇ」
「最近してなかったから」
しばらく黙って、迷うようなそぶりを見せてからマヨイが口にしたのは、突然のお誘いだった。
「明日、私も椎名さんもお休みでしょう?」
「知ってるっすよ。だから、一緒に美味しいものを食べに行こうかなって、仕事の合間に色々スマホで調べてたっす」
「……そう、ですか」
「え、もしかしてしたかったんすかね。も~、それなら早く言ってくれれば良かったのに。だいぶ遅いけど今から準備する?」
「い、いえ、そんな……そうですよね、もう遅いですもんね。また今度にしましょう」
やけに簡単に引き下がるマヨイから、悲しそうな匂いがする。
「マヨちゃん、何か言いたいことがあるなら、言ってくれないと分かんないっすよ」
よいしょ、とマヨイから体を離せば、マヨイがこちらを困ったような顔で見ていた。
「ない、と言っても椎名さんには匂いでバレてしまうんでしょうねぇ」
「そうっすよ」
「……最近、椎名さんが私のこと、愛してくれているのか不安で仕方なくて」
「えっどうしてそんな話になるんすか? マヨちゃんのこと、こんなに大好きなのに?」
何が原因でそんな不安を抱かせてしまったのか、全く心当たりがないニキは思わずすっとんきょうな声をあげてしまった。
「付き合い始めの頃は、次の日がふたりとも休みだったら、毎晩のように誘ってくださったのに」
「……それは……恋人って言ったらそういうことするものかなって思って……無理させて悪かったなって、今では思ってるんすよ。マヨちゃんお昼近くまで全然起きられなくなっちゃうし、しんどいんだろうなと思って、最近は控えてたっす」
マヨイだってライブで長時間歌って踊れる程度の体力はあるのに、決まってそういうことをした次の朝だけ、疲れ果てたようにぐっすりと眠り込んでしまう。それはただ、体力を使ったからということ以上に、マヨイがずっとニキに気を遣ってくれていたからだとニキは理解していた。
ニキが気持ちよくなれるように、自分にも余裕がない中で、ずっとマヨイが気を遣ってくれているのは分かっていた。分かっていてもニキの方はマヨイを気遣う余裕はなく、結局体力も心も消耗しきったマヨイが、最後にぐったりと気を失うようにして眠りに落ちるのを何度も目にするうち、これは愛情を育むために必要な行為ではないのではないかと感じるようになった。ただ、それだけのことだ。
「控えてくれなくても良かったのに」
「マヨちゃんにばっかり無理させることが良いことだって、どうしても思えなかったんすよ」
「無理なんて――」
「朝に何度起こしても、あと五分って起きないじゃないっすか。あと五分、も二十回繰り返したらお昼になっちゃうんすよ。無理してるとしか思えないっす」
「あうぅ……」
申し訳なさそうにうめき声のような声をあげて、マヨイがうつむく。
「愛してないんじゃないかって疑ってしまって悪かったです。でも、てっきり椎名さんは私に飽きてしまったのかと思ってぇ……」
「えっなんで」
「だって……私も恋人って、そういうことするものだと思っていたから……。そういうことをしない私たちはもう恋人じゃないんだって。椎名さんは惰性で付き合ってくださってるんだって思って……最近美味しそうとも言ってくださらないし……」
「そういえば言ってないっすね」
「そうでしょう? 美味しそうじゃない私はきっと食べごろを過ぎた果実のようなもので、あとは腐って捨てられるだけなんだって思ったら、急に不安になってしまって。あっ、私が美味しそうな果実だなんて、過ぎたたとえでしたね? 消えます」
「待って待って、消えないで。それに、美味しそうって言わなくなっただけで、美味しそうじゃないなんて一回も言ってないっす! 僕の言葉をねつ造しないで!」
息をするように自虐がぽんぽんと口から飛び出してくるマヨイの手をぎゅっと握ると、マヨイの顔が真っ赤になるのが分かった。いつまでたってもこういうところはずっとうぶなままで、そういうところが可愛いとニキは思っている。
「ね、マヨちゃん。上手く言えるか分かんないっすけど、僕の話聞いてくれるっすか」
「……はい」
小さく、マヨイが頷く。
「ずっと飢えていてお腹が空いている子どもの目の前に、美味しそうなご飯を置いたら、どういう反応すると思うっすか」
「……全部食べてしまうのではないでしょうかぁ」
「そうっすよね。きっと周りが止めるのも聞かずに、誰にも取られない内にってがっつくと思うっす。じゃあ、その子どもにその後、十分な食事を与え続けたとします。その子どもの前に、次に美味しそうなご飯を置いたら?」
「食べるでしょうね」
「うん。それはそうなんすけど、がっつきはしないっすよね。きっと、ゆっくり味わって、大事に食べると思うっす。だって、誰かに取られる心配はもうしてないだろうから。仮に誰かに取られても、きっと次にまた食べる機会があるって思えるから。今のマヨちゃんと僕は、きっとこの段階にきてると思うんすよね」
「この段階?」
「誰かに取られて、もう二度と味わえないんじゃないかって心配しなくてもいい状態ってことっす。少なくとも、僕の方はそう思ってるっす」
「……誰かになんて、取られる訳ないじゃないですかぁ……椎名さんくらいですよ、こんな卑しい男を捕まえて、美味しそうだの、可愛いだの、そんな嘘みたいなこと言って散々愛してくださるのなんて。うぅ、ゲテモノ喰いもいいとこですぅ」
「わ~! 何で泣くんすか!」
べしょべしょに泣き始めたマヨイをどう扱っていいか分からず、うろたえる。次々にあふれてくる涙が美味しそうに見えて、思わず舐め取ってしまった。マヨイがびっくりしたように目を見開く。
「今舐めました……?」
「美味しそうだったんで、つい……」
唖然とした表情のマヨイが何か言おうとして、口を開けて、閉めて、それからふっと微笑んだ。
「……美味しかったですかぁ?」
「うん、見た目の通り、美味しかったっすよ」
「それは良かったです」
マヨイの方から甘えるように抱き付いてきて、ニキはぽかぽかと胸が温かくなる心地がした。
「ね、これで分かったっすよね。僕たち、多分そういうことしなくたってお互い愛しあっていけるタイプの人間なんすよ。だから不安にならなくていいんすよ。最初の内は僕も、マヨちゃんは僕がごり押ししたからって仕方なく付き合ってくれたんじゃないかって、つい確かめるようなことしちゃったけど」
「……不安で、あんなに頻繁にお誘いいただいたと」
「そういうことになるっすねぇ」
「椎名さんでも不安になることがあるんですね」
「あっ失礼っすよ! 僕にも繊細なとこだってあるっす!」
「ふふ、そうですねぇ」
それはそれとして、とマヨイは呟くように言った。
「……こうやってお話してみて、久しぶりに、本当にそういうことがしたくなったのも事実ですぅ」
「えっ」
ニキは、マヨイの肩越しに外を見た。ゆっくりと、夜が明けつつある。
「もう朝になっちゃうんで……朝ごはんの準備とか……」
朝ごはんのことを考えると、無性にお腹が空いてきた。空気を読む気などさらさらないらしいニキの腹の虫が盛大に鳴いて、マヨイが吹き出した。
「いいですよ、次の機会でも。次の機会があるのだと分かれば、信じられないほど心が穏やかです」
「そうっすか? それじゃあお言葉に甘え――」
言い終える前に、マヨイに唇を奪われた。
「安心したら眠くなってきました。私は二度寝しますねぇ。おやすみなさい、椎名さん」
「もう、急に元気になっちゃって……さっきまでの殊勝なマヨちゃんはどこにいっちゃったんすかねぇ」
「さあ、どこでしょうねぇ」
くすくすと笑って、マヨイはニキに背を向けた。こういう時のマヨイは、もうおやすみモードに入っていて、並大抵のことでは反応してくれなくなる。
「おやすみ、マヨちゃん」
ニキの挨拶に、マヨイはひらひらと、機嫌良さそうに手を振ってこたえた。