無神論者に祝福を 神様を信じていない。
世界的には珍しいけど、この国では当たり前のことだ。何かの信者だと大っぴらにいう人はあまりいなくて、何の神を信仰しているか問われて「無神論です」なんて答える人は多い。でも正月には神社に行くしクリスマスは聖なる夜だし死んだらお寺の墓に収まることになっている。
日常の中で神様を意識することなんてほとんどなくて、だけどそれを寂しいとも思わない。それが普通でオレの人生だった。
だからいきなり「神を信じるか」と聞かれたら警戒する。へんな宗教とか、気をつけなさいって家を出る時に母ちゃんに散々聞かされたしさ。
あやしい宗教の勧誘(かどうかは分かんねえけど)してきたのは隣に住む若い男性だ。長い髪を編み込んでいるので後ろから見ると一瞬女の人かと思う。綺麗な顔してるし。でも、男の人だ。
はじめて会ったのは引越しの挨拶時............は留守で会えなかったんだ。
顔を見たのは翌日。たまたまコンビニ行って帰ってきたらお隣さんが帰ってきたタイミングとあった。昨日簡単な手紙と挨拶の品をビニール袋に入れてドアノブにかけたけど、あらためて挨拶をするとお隣さんは「ああ」とどこか納得したように頷いた。
「きみがアジームくんね。ずいぶん若く見える」
「大学生です。あっ、オレの方が年下だし気軽にカリムって呼んでくれ............さい」
慌てて言い直すとお隣さんはくすりと笑った。
「無理に敬語を使わなくていい。ジャミル・バイパーだ。よろしく」
「いいのか よろしく、バイパーさん」
綺麗な顔の大人の人に初めは緊張したけど、バイパーさんは意外と気さくな人だった。とは言っても大学生と社会人。生活の中で顔を合わせることはあまりないかなと思ったんだけどバイパーさんは何かとオレを気にしてくれて余ったおかずを分けてくれたり、こまめに声をかけてくれる。
この間はゴミの日をうっかり忘れてて 朝、バイパーさんに声かけてもらって慌てて出しに行った。
そういえば、バイパーさんがスーツ着ているのを見たことがない。何の仕事をしてるんだろう。おしゃれな服をよく着てるからファッション系のお仕事なのかもしれない。
その日は最近始めたバイトからの帰り道だった。
店長に挨拶して店の裏口へ回る。ビルの裏手は駐車場になっていてオレのチャリを停めている。本当はバイクが欲しいけど、まだ我慢。バイト先は楽器店で家から30分ほどの場所だ。
音楽は好きだ。聴くのも好きだし、演奏するのも歌うのも好きだ。
いつか、自分の曲でデビューしたいと思っている。まだバンドのメンバーも集まってないけどさ。
外へ出た途端、冷たい外気が肌を撫でた。細かな飛沫と共に風が吹き込んできて肌寒さを感じて肩をすくめる。そういえば午後から天気が崩れると店のテレビから流れていたような気がする。傘を持ってくればよかったなぁと思いながらポツポツと降り始めた雨を避けるようにジャケットの襟を立てた。
春とはいえ、夜はまだ冷える。ジャケットのボタンを止めてチャリに跨る。本降りになる前に帰れればいいなと思いながら。
家に着く頃には髪がぐっしょりと濡れていた。雑に頭を振って雨粒を散らしてからマンションの入り口に向かう。その途中で立ち止まった。ゴミ捨て場で何か大きなものが動いたからだ。
野良猫だろうか。大きなネズミだったら嫌だなと思う。見ないふりしようと思ったけどうちのマンションは駐輪場からはゴミ捨て場を通らないと入れない。恐る恐る近づいてみる。
「............あれ バイパーさん」
驚いたことにゴミ袋に埋もれるようにしていたのはいつもきちんとしているお隣さんだった。今はいつもの印象とは真逆でシャツのボタンがいくつか外れ緩んだ胸元を晒し、綺麗に結われていた三つ編みの髪は解けて四方に広がっている。
「どうしたんだ 何かあったのか」
慌てて駆け寄って助け起こす。あちこち汚れてはいるけど、どうやら怪我はしてなさそうでひとまずは安心した。
「立てるか」
肩に腕を回し抱え起こす。意識はあるようでああ、とかう〜とか返答ともつかない声が漏れる。ふわりと漂ってきたのはバイパーさんがいつもつけている香水と、強く香る酒の匂い。
「もしかして酔ってるの」
問いかけると何がおかしいのかバイパーさんは笑った。楽しそうにというよりはそうする以外に凝り固まった思いを吐き出す方法がないみたいな笑い方だった。
「酔ってるかって 樽十杯だって飲み干してみせるさ」
「ああ、完全に酔ってるな。ほら、帰りましょう。オレ送ってやるよ」
「お断りだ。オレを誰だと思ってる」
「バイパーさんだろ」
「ジャミルって呼べよ」
「何でだよ」
ふらつく酔っ払いを何とか部屋の前まで移動させる。普段はそっけないのに酔うとこんなにくっついてくるんだな。この人。おまけに甘えん坊だ。
何度も名前で呼べとうるさいから根負けして呼んでやると、嬉しそうにクスクス笑った。
「ジャミルってそんなふうに笑うんだ」
「笑ったら悪いか」
「ううん。いいと思うぜ。かわいいし」
部屋のキーを開けてジャミルを部屋に押し込む。玄関まで送れば任務完了だと思ったけど靴も脱がずにその場で横になってしまったので慌ててまた起こした。
靴を脱がせてリビングまで引っ張っていく。水を欲しがったのでキッチンで水を汲んで戻るとジャミルはソファーに寝転んでいた。
「ほら、水。起きれるか」
「ん............すまない」
受け取ったグラスを煽るように飲みほすジャミルを見て、何だか見たらいけないものを見た気分になった。束になって顔にかかる髪とかうっすら汗をかいた額とか、嚥下する喉仏とか。
へんなの。男同士なのに。
「なあ」
水分を摂ったからなのかジャミルの声は少し落ち着いていた。長い指が垂れた髪をかき上げると夜の色を纏った瞳がオレを見上げる。
妙に目を引くその姿はお年頃のオレには刺激が強くてまるで蛇に睨まれたカエルのように身動きが取れなくなる。ともすれば威圧的な眼差しは決して不快ではなくて、むしろずっと見ていたくなる不思議な感覚だった。
「カリム。神を信じるか」
突然、発せられた質問の意味が最初は理解できなかった。数秒のち、警告音が頭の中で鳴り響く。一歩、足が自然に後ろに下がった。
「あ~、オレそういうのよくわからないや。あはは」
自然に笑ったつもりだったけどちょっとわざとらしかったかもしれない。
え、宗教 勧誘されるのか ちゃんと断れるかな。
頭の中で以前見た『宗教勧誘の断り方』というタイトルの動画を再生する。身構えたオレを見てジャミルは軽く笑って再びソファーに横になった。鈍いオレでも分かる。あの笑いは嘲笑だ。
「な、なんだよ」
「べつに。さよならだ」
そう言って手をひらひらと振るジャミル。ゴミ捨て場から救出してやったのにひどい。ちょっとムッとしたけど、無事に送り届けられたしいいかと思い直す。
「元気になってよかった。じゃあまた明日」
自分の部屋に帰ろうとジャミルに背を向ける。玄関に向かって靴を履こうとして、少し考えてまたリビングに戻った。
「さっきの、何」
怒気を含んだオレの言葉にソファーで横になっていたジャミルが驚いたように目を開けた。
「カリム。どうした」
「どうしたじゃないよ。何であんなこと言うの」
ジャミルは起き上がって困ったように弱々しく微笑んだ。
「何を怒っているんだ。カリム」
「さっきオレが帰る時に言った言葉だよ」
「聞こえてたのか............」
まいったなとジャミルは軽く頭を掻いた。本当に独り言のつもりだったのだろう。その事実がまたカリムの怒りを煽った。
「冗談で言っていいことと悪いことがあるだろ。何だよあれ。「最後にお前に会えてよかった」って。まるでもう会えないみたいなっ 紛らわしいこと言うなよ」
ジャミルはため息をついて、口を開いた。
「事実だよ」
「え」
ジャミルの顔は笑ってなかった。
「俺の命はあと僅かだ。命あるもの、いずれ終わりが来る。今日が俺の番だったと言うだけだ」
「な、何言ってんだよ。笑えないぞ、その冗談」
「そうだな。笑えない。確かにそうだ。忘れてくれ」
あ、間違えた。
ジャミルの顔を見れば分かる。今のは冗談でも何でもない。本当のことなんだと。多分ジャミルは最初から自分一人で抱えるつもりだったのだろう。
でもカリムが聞いたから、一度だけ答えてくれた。それなのにカリムは恐れからそれを冗談にしてしまった。
「ごめん」
カリムは深々と頭を下げた。謝ったところで許されるわけではないけど謝りたかった。今夜が最後なら余計にそのままにしておけなかった。
「頭を上げてくれ、カリム。謝るのは俺の方だ。へんなことを言って悪かったな」
カリムは激しく首を横に振った。俺がひどいこと言ったからごめんと再び頭を下げる。ジャミルがどんな気持ちで打ち明けてくれたのか考えると自然と涙が出た。
「何でお前が泣く」
「だって、だってえ〜〜〜」
宥めようと伸ばされたジャミルの手がカリムの頭を撫でる。その手つきが優しくてますます涙が止まらなくなる。
「うわ〜ん ジャミル〜 死んじゃだめだあ〜〜〜 」
ただのお隣さんだ。付き合いも短い。今日死ぬと言われたら信じない方が普通だ。それでもカリムはジャミルの言葉が嘘ではないと分かったし死んでほしくないと思った。
せっかく、これからもっと仲良くれそうなのにいなくなってしまうと考えたらこんなにも胸が苦しい。何とか引き留めたくて抱きつくとお酒の匂いとほんの少し香水と汗の匂いがした。
宥めるようにカリムの背中をポンポンと軽く叩かれた。
「俺が死ぬのは嫌か」
「嫌に決まってるだろっ」
「カリムが協力してくれたら死なずに済むかもしれない、と言ったら信じるか」
ジャミルの低い穏やかな声が体に浸透する。人と抱き合うとこんなに声が近くなるんだな。
「俺にできることなら何でもするよ」
ジャミルの体温がいやに冷たい。雨で体が冷えたのだろうか。少しでも体温を移したくてぎゅっと背中にまわした手に力を込めた。
「ああ、ありがとうカリム。お前は俺のランプの魔人だよ」
ゆっくりと体を離されるとジャミルのチャコールグレーの瞳と目が合った。
いつの間にか雨が上がって窓から月の明かりが差し込んでいる。月の淡い光を反射して不思議に煌めいた彼の瞳から目が離せなくなる。
「とても簡単だよ。カリム。さあ、俺の目を見て...........................」
空いた窓から夜風が吹き込んできてジャミルの髪を巻き上げる。風にうねる長い髪はまるで蛇のように見えた。
◯◯◯
なにも見えない暗闇で冷たいなにかが絡みつく。ざらりとしたその感触に一瞬ぞくりと肌が泡立つがすぐに敵意がないことがわかって息を吐いた。大きなものが体を締めつけるが苦しくはなくて、少し冷たくて汗ばんだ肌に心地よい。
それはゆっくりとカリムの肌の上を滑って移動していく。
「はははっ、くすぐったいよ」
くすぐったさに思わず身をよじると、シーッと声が聞こえた。そして人の手と思われる感触が頬に触れる。
あ、このひともつめたい。
低い温度が気持ちよくて上から手を重ねると骨張った指に触れた。
おとこの、ひとだ……………。
なぜか怖くはなかった。むしろ安心するような不思議な感覚。ずっと触れていたいようなすべらかな肌の一部に固いものがあるのに気がついて思わず声が出た。
「わっ」
そのせいか、その人の手が離れていく。それがなぜか寂しくてカリムは空になった手のひらをぎゅっと握りこんだ。
眩しさに目をあけるとちょうど窓から朝日が見えた。なにか大事な夢を見たような気がしたけど思い出そうとすると端から解けていく糸のように記憶が散っていってしまう。何を思い出そうとしたかも忘れたころにカリムはあくびをひとつした。
見慣れない景色をぼーっと見てから自分の隣で寝息をたてている人がいるのに気がつき、慌てて後ずさった。
「あでっ‼︎‼︎」
下がりすぎてベッドから床にダイブしたカリムは腰をしたたか打って悶絶した。痛みがおさまってから這い上がると、恐る恐るベッドの上の人物を確認してみる。
ゆるくウェーブしている黒髪に褐色の肌。整った顔立ちはよく知っている。もしかしなくても昨日酔っ払っていた隣人だ。
「マジ……………………?」
酒を飲んでないのに僅かに痛む額を抑えてカリムは唸った。一晩寝床を共にする意味を理解できないほどカリムは子供じゃない。でもまったく記憶にないことだ。
しかも相手は女の子じゃない。まさか男同士で⁉︎
もし鏡がここにあればさあっと顔が青ざめていく愉快な顔のカリムが拝めただろう。ベッドの横から恐る恐る覗いてみて確認してもう一度小声で「マジか…………」と呟いた。
たしかにジャミルのことはすげー美人だと思ってた。でも決していやらしい目を向けていたわけではない。なんてパンツ一丁の姿では言い訳にもならないけど。
とりあえず、記憶にはないけどジャミルが起きたら誠心誠意謝ろう。責任をとって付き合ってと言われたらどうしよう。今は恋人いないし正直ジャミルくらいの美人なら男でも…………いやいや! オレはノーマルだから‼︎
ブンブンと頭を横に振って今浮かんだ考えを打ち消す。丁度タイミングよくみじろぎしたバイパーさんがこちらを向いた。一瞬起きたのかと思ってビクッとしたけど、顔を覗き込むとしっかりと瞼が閉じられていたのでカリムは安堵のため息をついた。
あらためて見ると本当に美人だな。この人。
まつ毛が一本抜け落ちて頬についているのを取りながらカリムはマジマジと眺めた。冷えたのか少し冷たくなった頬に手のひらをあてると、ほんの少し表情がやわらいだ気がする。
そういえば昨日は話の途中で寝てしまって悪かったな。それもあらためて聞こう。なにかオレが助けられることがあるといいんだけど。悩んでいる人を放っておくなんてオレにはできない。また拒否されるかもしれないけど食い下がってみようと密かに決意する。
ふいに、首元がキラリと光ってカリムの目線がそちらに向いた。アクセサリーかと思ったけど違う。
初めそれは艶やかな革のように見えた。もしくはマニュキュアを塗った小さな爪のような。よく見てみるとそれは小さなパーツが連なっているのだとわかる。触れてみると、固くて冷たい。馴染みのないものだけど似たようなものをカリムは知っていた。
「鱗……………………?」
それは魚のものほどは大きくない。細かくて密になって隙間なく並んでいる。トカゲとか蛇とかそういう感じの鱗が首や腕などジャミルの皮膚にところどころついているのだった。
シールか?
取れるかもしれないと思って爪を立てるとカリッと固い音がした。
「朝からずいぶん積極的だな」
「⁉︎」
ぐいっと引っ張られてベッドに引きずりこまれる。気づけばカリムは天井を見上げていてジャミルの黒髪がカーテンのように陽の光を隠していた。間近にチャコールグレーの瞳と整った顔があることに気がついてカリムの顔が赤くなる。
「ば…………バイパー、さん…………」
咄嗟に謝ろうとして、この状況でいうのはおかしくないかと口を閉ざす。というかまだ頭の整理がついてない。なんかついてるしまずはそれを教えてあげた方がいいのでは?
「ふ、風呂入ろう」
「…………風呂? これはまた。ずいぶん情熱的なお誘いだな」
楽しそうにジャミルの口角が弧を描くのを見てカリムは自分の失敗を悟った。
「ち、違くてっ! なんかへんなの体についてるから! 」
「ふうん?」
「わっ、どこ触ってるんだよ! すけべっ!」
「カリムも触ってもかまわない」
「なんでオレがバイパーさんを触らないといけないんだよっ!」
「違うだろう?」
「えっ」
真正面から見つめられてカリムは動きを止める。夜空を閉じ込めたような瞳に見つめられてドキリとした。
「あ…………ジャ、ミル」
微笑みと共に頭を撫でられたのでどうやら正解だったらしい。でも抱きしめるのはやめてほしい。ジャミルの冷えた体に直接触れてぞくりとする。
「あの、バ…………ジャミル」
「ん〜?」
「体、冷えてるからほんとに入ったほうがいいぞ。それに…………」
「体に妙なものがついている?」
「う、うん。知ってたのか?」
なぜかジャミルはとても楽しそうだ。起き上がるとつられて起きたカリムの方に自分の腕を突き出した。
「見てみろ」
言われるままあらためてジャミルの腕を確認してカリムは声を上げる。
「あれ? なんにもない」
いやそんなはずはない。だってカリムはさっき実際に鱗を見て触ったのだ。よく見ようと腕を自分の方に引き寄せて間近で確認する。普通の健康そうな肌だ。すべらかな皮膚の上には固い鱗などひとかけらも見当たらない。
「あれぇ〜? なんでだ?」
あれれ?と何度も繰り返していると、堪えきれないというようにジャミルが吹き出した。
「なっ⁉︎ なんで笑うんだよ。あっ! もしかしてオレを揶揄ったのか?」
怒るカリムをなだめるように頭を撫でられた。子供扱いされているようでカリムはますますふくれっ面になる。
「笑ってすまなかった。命の恩人に意地悪はしないさ」
「命の恩人? オレが?」
「そうだ。昨日のこと覚えてないのか」
その言葉でカリムは思い出した。そうだった。昨日何があったのか聞かないと。
「あ〜、昨日な。その〜、悪く思わないでほしいんだけど」
その時、盛大にカリムの腹の音がなった。
なんてタイミングだ。カリムの顔が恥ずかしさで真っ赤になる。ジャミルはまたおかしそうにまずは朝食にしようと笑って言った。
○○○
塩パンとサラダ。オムレツにはたっぷりとケチャップをかける。淹れたてのコーヒーはこだわりの豆らしくお店で出されるような芳醇な香りがした。苦いのが苦手なカリムはジャミルのミルクもあるぞという言葉に甘えてどばどばミルクと砂糖をぶっこむ。
パンは手作りだというのだから驚きだ。ジャミルが料理好きなのは今までもらった惣菜がすべて手作りだったことから察していたけど、まさかここまでの腕とは。プロになれるぞ。そう口に出したら赤の他人に毎日料理を作るなんてごめんだね。と返された。
オレも他人なのに?
と思ったけどその疑問はオムレツのおかわりを出されて霧散した。腹が満たされた頃にジャミルが話してくれたのは信じられないものだった。
曰く、ジャミルは古い神様で時代と共に信仰が薄らいでいく過程で弱体化したのだという。ジャミルは神の姿から人に化けてひっそりと暮らしていたらしい。
そして数日前、最後の信者だった老人が亡くなった。ジャミルは自分の中の神力が消えかけているのを感じた。信仰がなければ神は存在できない。人間でいう死を確信したジャミルは最後に酒をあおり昨日カリムに拾われた。
「…………正直信じられない話だけど」
この突拍子もない話を聞いてカリムは怒ったりはしなかった。ジャミルが冗談でそんなことをいうやつには見えなかったからだ。かといって話を鵜呑みにするほど警戒心がないわけではない。とりあえずこの話を信じるかどうか決める前にカリムには確認しなければいけないことがある。
「それで、昨日オレがジャミルにしたことって、あの、覚えてねぇんだけど…………やっぱり…………」
「やっぱりってなんだ?」
「だ、だから、し、した…………んだよな?」
恥ずかしい。死ぬほど恥ずかしい。なんで覚えてないんだ!オレのバカッ!
ジャミルは一瞬目を見開いてそれから意地悪く微笑んだ。
「そうだなぁ。カリムがそういうことにしたいなら、俺としてはやぶさかでもないが」
「え? してないのか?」
「ああ。残念ながら祈ってもらっただけだよ」
残念じゃない。全然残念じゃない。むしろほっとした。よかった。オレは酔ったお隣さんを襲った変態じゃない!
「祈り?」
「そうだ。昨日お前にしてもらったのは祈りだ。それ以上のことは何もないから安心しろ」
ぽんと頭に手をおかれてまた子供扱いだとちょっとムッとする。でもよかった。そうか。してないのか。ん?あれ?
「でも、だったら何で朝起きたときにオレ達裸だったんだ?」
正確にいえばかろうじてパンツは履いていたけど。
「ああ。そのことか」
ジャミルはすました顔でコーヒーを一口飲んだ。なんでもない世間話をするような軽さでとんでもないことを口にした。
「お前の体温で温めてもらった。俺は蛇だからな」
「ふ〜ん。そっか…………蛇⁉︎」
ぞわりと背筋に悪寒が走った。目の前の端正な顔立ちの男はその美しさを保ったままどんどん形態が変わっていく。
それはアニメの変身シーンのようになめらかで自然に変化した。皮膚が固い鱗で覆われていき下半身が一体化してふとくなる。さらりと肩にかかっていた長い黒髪がウネウネとひとりでに動き出す頃には夜空のような瞳が燃えるような赤に転じていた。
本能がけたたましく警音を鳴らす。体が勝手に震え出す。脅威や怪異といった言葉が頭の中に浮かぶ。それと同時にそのうつくしい化け物にひどく惹かれている自分がいた。
「お前のおかげで今朝はとても調子がいい。この姿も久しぶりだ。なあ、カリム」
ジャミルの頭の蛇がカリムの腕や体に絡みつく。ぞわぞわと鳥肌が立つのに恐怖はなぜか感じない。
「やさしいカリム。助けてくれるんだろう? 今日も祈ってくれないか。俺のために」
人ではありえない長さの舌がジャミルの口から出てきてカリムの頬を舐めたのを最後にカリムの意識は遠のいた。