虹色の箱庭④ 風の柔らかい感触が頬を撫でてジャンは瞼を開く、ソファだと思った場所がいつの間にかに寝室になっていてさっきまでの出来事は白昼夢だろうかと寝室の壁や天井、少し開いた窓から入る夜風で揺れるカーテンにまだ頭はぼんやりする、身体に残る気怠さと何も身にまとっていない事で全てが夢でない事を思い出した。
少しずつ冷静になる頭が罪悪感を連れてはくるもののジャンは少し開いた扉から漏れ入るリビングの光に誘われて体を覆うブランケットを引きずりながら廊下へと出て明るいリビングへと歩いていく。もう夫が自宅に帰ってこないだろう事は分かっていたからか随分と大胆な姿のままでジャンは、扉を開ける。
すっかり開け放たれた窓から入る少しぬるい夜風が時間の経過を感じさせて、そして乱雑なままだったソファ周りが小綺麗になっていた。カーテンが揺れて、ベランダから人影がかかる。さっきとは違う私服姿のライナーがこちらへ目を向けそして、笑った。
「あ、起きたか」
「…着替え…」
「ああ、体調不良だっつって早退した」
「…悪い、俺の…せいで」
「俺が、ここに居たかった」
「らいな、」
余計に罪悪感が募るはずなのに、ジャンはライナーに駆け寄り腕の中に滑り込む。当たり前の様にそれをライナーは受け入れてジャンの罪悪感を分け合い半分にする、あの日テレビボードの上に鎮座したままだった写真立てをゴミ箱に放り捨ててそれでも残ったままだった埃の痕がいつの間にかに綺麗になっていて、ソファに座ってジャンはそれに初めて気付く。
2人重なって座るには狭苦しくてソファを背にしてライナーがラグの上へ座り、そのライナーに抱かれながら壁に掛けられたいくつかの写真を指差す。向き合わなければならないけれど、今はただひと時幸せな瞬間を噛み締めたくてジャンは取り留めのない話をする。
「あの写真、俺が撮ったんだ」
「へえ、…すげえ綺麗な場所ばっかだな」
「…大学の時にバイトして一番欲しかったカメラ買って、毎日写真撮った。」
「へえ、写真が趣味なのか」
「ファインダーから覗く景色って、キラキラして…色が眩しいくらい溢れてて、信じられない位綺麗だった。でも、それが就活して、会社入って、仕事に追われて…そんなことしてたら覗く度に一つずつ色が減っていつの間にか色が見えなくなって、撮るの…止めた。最後に撮った写真も、この前捨てた」
「……なあ、ジャン」
「ん…?」
「俺の事撮ってくれよ」
「え、」
「な、いいだろ?」
「いい、けど…うまく撮れるか、」
そう言いながらもそろそろとライナーの腕の中から抜け出してジャンは寝室へと向かう、漸く衣服を身に纏いクローゼットの奥にしまい込んでいた一眼レフカメラを取り出す。
手に持つのはもう5年以上ぶりだ。
ずっと手入れしていたからか使う分には問題なさそうで予備バッテリーを常備している自分の用意の良さに感謝しながらジャンは数年ぶりにカメラを握ってライナーの元へと戻る、自分から撮ってくれなんて言ったはずのライナーはどこか緊張でぎこちなく堅苦しい、そんな姿に思わず吹き出しながらでも怖々に真正面からファインダーを覗いてみる。
ファインダー越しに確かに、ライナーの美しい金色の髪が映えた。あんなにどんよりとグレーだったあの頃とは嘘のように鮮やかにくっきりとそれはジャンの瞳を奪った。
「何か、緊張するな…」
「自由にしてて、スマホ見てもいいから」
「そか、うん…わかった」
いざそう言われてもやっぱりどこかぎこちないライナーに何度かシャッターを切り、二人の時間を切り取る。ぎこちない笑顔も、照れくさそうなはにかんだ顔も一つ一つ切り取られていく。
「あっ、」
ジャンが声を上げた瞬間こちらへ向けられたライナーのスマートフォンがシャッター音を立てる、画面にはカメラを構える楽しげなジャンの笑顔があった。
「初めて撮られた、」
「初めて貰った」
「久しぶりに、写真撮って…楽しかった」
「ま、モデルがいいからな」
「……意外と図々しいな」
カメラの液晶画面を見ると様々なライナーの表情が映し出されてジャンの瞳には色鮮やかに見える。まるで、初めてカメラを買ったあの頃と同じ様に。
ジャンはカメラを下ろして壁に掛けられた写真を一つ取ってライナーへと差し出す、どこか知らないけれど灯台と美しい夕陽が移された海岸の写真だ。
「…やる」
「いい、のか?」
「俺が一番気に入ってる写真…貰って欲しい」
「……ありがとう。大事にする」
ポストカードみたいだ、とまじまじと写真を眺めるライナーにジャンの顔は綻ぶ。そんなジャンの笑顔にどこか安堵したような顔でライナーは写真をテーブルへと置いて手を伸ばす、それだけで吸い寄せられるように近付き腕の中へと滑り込むとまた胸に背を預けながら目の前の写真を指でなぞる。
「いつかこの場所に部屋借りて住むのが夢なんだ」
「……俺も行っていいか?」
「……ん、」
恋人同士の様な柔らかな雰囲気だった空間が一瞬で気まずさと張り詰めた空気を纏う、約束なんて出来るはずのない二人だ。
少しの沈黙を経てジャンがライナーの方へとぐるりと体を向けて二人は向かい合う。ジャンの唇がほんの一瞬ライナーの唇を掠めた。
「ジャン、」
「……ちゃんと、するまで…会うのやめよう」
「俺はこのままでも、!」
「俺が、っ…やなんだよ、…」
ジャンの悲痛な表情に思わずライナーは口篭りそれきり何も言えなくなる、自分の我儘が、感情の押しつけが苦しめてしまうことは分かっていたから。ライナーは一度向かい合ったジャンの体を抱きしめ身を離す。本当なら二人で朝を迎えて穏やかな朝を与えてやりたい。
しかしそれはまだ、今の自分には許されないこともライナーには分かっている。
自分はただの、浮気相手だ。
「一人で、大丈夫か…?」
「大丈夫、写真…撮ったし」
「電話していいか?」
「……全部終わったら、俺から連絡する」
迷惑かけたくない、そう言われてしまえば何も言えなくてライナーは自分の電話番号をジャンのスマートフォンへと打ち込む、時計はもう深夜0時を過ぎていてまるでおとぎ話の魔法が解けるように二人の別れの時が来る。
「本当に大丈夫か?」
「……大丈夫、ごめんな。迷惑かけて、」
「俺が自分でやったことだ」
「…写真、撮らせてくれてありがとな」
「俺こそ、写真ありがとな」
「……じゃあ」
「連絡、待ってるからな」
「…ありがとな、本当に」
別れの挨拶をして部屋の扉が閉まる、胸ポケットにしまった写真をもう一度取り出してライナーはまじまじと眺める。何度見ても美しい写真で眩しいほどに色が弾けている。ひんやりとした色の青の街灯の下でもやっぱり夕陽の赤が美しい。
マンションの真下からまだ明かりの灯るジャンの部屋のベランダを見上げてライナーはひとつ息を吐き出す。
「なんで何も出来ねんだよ、俺は…」
そんなライナーの言葉が聞こえるはずもないジャンはスマートフォンを手に取り深く深く息を吐き出して未読通知の大量に残されたメッセージアプリを開く。相手は当然、夫の名前だ。
通話ボタンを押すと、今までは電話なんか随分と出なかったはずなのに3コール程で繋がる、どうして後戻り出来なくなってから人はこうも早く動けるんだろうと困ったような呆れたような笑いが盛れる、勿論見ないふりをしてきた自分にも、だ。
「遅くに悪い——話がある」
ライナーがマンションから視線を落とし一人帰路に着く背中を煌々と照らしていた月がゆっくり、ゆっくり欠けてそして暗闇が金色の髪を包んで夜の闇の中にガシリとした影が溶けてそして消えた。