ガルグ=マク小っちゃいものクラブ展示ロレマリ編 朝起きたらまず身支度を整える。エドマンドの家にいた時は侍女が髪をまとめて結い上げてくれた。自力でやろうとすると水色の髪は全くいうことをきいてくれない。鏡の前で先日、シルヴァンから忠告されたように笑顔を作ってみたが頬が引き攣りそうになるだけだった。
義父は士官学校へ行けば必ず良いことがある、と言って送り出してくれたが何もかもがうまくいかない。今日もきっと義父に興味のある学生や教会関係者が自分に話しかけてくることだろう。そんな中マリアンヌはローレンツから義父と全く似ていない、とはっきり指摘された。彼は五大諸侯の嫡子なのでマリアンヌが養女になる前から義父であるエドマンド辺境伯を知っていた可能性がある。
義父はマリアンヌを気にかけて色々と世話を焼き、話しかけてくれたのだがマリアンヌは自分の側から話しかけることがほとんどなかった。今はほんの少し、そのことを後悔している。マリアンヌはあまり上手く話せないのだが、それは生来の口下手さだけが理由ではない。本当に義父のことを知らないからだ。適当なことを言って義父に迷惑をかけるわけにはいかない。
士官学校の寮は扉が外開きだ。だから開ける前に人の声や足音に注意してから開けねばならない。義父は在学中、不用意に扉を開けたせいでマリアンヌの実父を思い切り小突いてしまったのだという。その話を思い出したのはどん、という鈍い音がした後だった。時刻は明け方でいつもなら天馬の面倒を見るイングリットくらいしか起きていない。
「すみません、大丈夫ですか?!」
顔を押さえてうずくまっているのは真っ直ぐな紫色の髪を肩の辺りまで伸ばした子供だった。一目で寸法違いと分かるくるぶし丈の寝巻きに身を包んでいる。士官学校は修道院の附属施設だ。修道院は寄る辺のない子供たちの面倒も見ている。だが、そこから紛れ込んだ子供にしては身につけている寝巻きが上等だった。白い指の間から血が出ていたのでおそらく取っ手が鼻を直撃したのだろう。マリアンヌは義父が買い求めローレンツが褒めてくれた手巾を渡した。
「まさかこの時間に人が歩いているとは思わなくて……申し訳ありません……」
「ぼくも、ふちゅういでした……」
怪我の責任を取るためマリアンヌがライブの呪文を唱えると鼻血を出していた痕跡は手巾に残るのみ、となった。僕、と言っているのでどうやら男の子らしい。よく見ると袖もずいぶん余っているようで何重にも捲っている。
「ここは……寮なので……おうちはどこですか?」
「わかりません……じぶんのおへやでねていたはずなのに」
「まあ、なんてこと……」
自分の身には余ることが起きたのでマリアンヌは素直にヒルダの名を呼びながら隣室の扉を叩いた。
「もー!こんな時間に何?」
朝寝坊好きなヒルダが大あくびをしながら扉を開けてくれた。寝巻き姿で髪は下ろしたままの素顔だがそれでもこんなに美しい。
「小さな子供が寮の中に入り込んでいて……」
訳がわからない、という顔をしたヒルダのためマリアンヌは扉を大きく開き、戸惑っている子供の姿を見せた。途端にヒルダの眠気は飛び去ったらしい。下りてこようとする瞼に隠れがちだった薄紅色の瞳が、しっかりと不安そうにしている子供の姿を捉えている。
「え、うそ!その子ローレンツくん、だよね?」
ヒルダにそう耳元で囁かれ、マリアンヌは初めて彼と目の前の子供がローレンツそっくりなことに気づいた。言われてしまうと彼としか思えない。一体、何が起きたのか。確かに髪の色も瞼の形もローレンツそのものだった。ヒルダが部屋に手招きしてくれたので今は二人で彼女の部屋に入り込んでいる。
「どうしましょう……」
「勿論、先生に相談だよ!でもその前に確かめたいことがあるからちょっとクロードくんを起こしてくるね」
そこで待ってて、と言われたのでマリアンヌはローレンツらしき少年とヒルダの部屋で二人きりになった。何かの事故で姿形が変わった場合、精神だけは元のままなことが多い。だがローレンツの性格から言ってもし精神が元のままならば、クロードの部屋に怒鳴り込むか階下にいるベレトの元へ直行するだろう。
「きっとなんとかなります」
自分の口下手さが本当に嫌になる。なんの意味もない慰めの言葉を口にしてみたがクロードは果たして部屋にいるだろうか。馬や天馬の面倒を見るため早起きしているマリアンヌやイングリットは時々、埃まみれで朝帰りをしているクロードの姿を見かけるのだ。
「はやくもどらないとねえやも、おとうさまもおかあさまもきっとぼくをしんぱいしています」
真っ先にねえや、が出てくるところが微笑ましい。マリアンヌの前で嘆く少年時代のローレンツは髪が長かった。魔力は髪に宿ると言われる。英雄の遺産、テュルソスの杖を受け継ぐグロスタール家の者らしい髪型と言えるだろう。
「そうですか」
どうにもぎこちない相槌しか返せない。だが小さなローレンツはマリアンヌにあれやこれやと話しかけてくれる。気を使われているのかもしれない。
「ぼくはきのう、けんさをうけました」
マリアンヌは思わず、息を呑んだ。十傑の子孫が受ける検査と言えば紋章の検査に決まっている。
獣の紋章を持っている、と判明した時の両親の顔は未だに忘れられない。だからこそ自分を養女として迎え入れた伯父、いや、義父がマリアンヌが獣の紋章を宿していると知った時の反応に未だに戸惑っている。義父の頬を伝う涙には喜びや親しみが含まれていた。愛を人質に取られた彼の人生やマリアンヌの人生に意味などあるのだろうか。
「結果は聞きましたか?」
「まだです。もしぼくがもんしょうをやどしていなかったら……」
ハンネマンの研究によって、今ではすぐ分かるようになったがローレンツやマリアンヌが幼い頃は試薬の反応が出るのに一晩かかった。きっとグロスタール家の人々は眠れぬ夜を過ごしたことだろう。小さなローレンツは色々と思い出したせいか流石に不安そうな顔をしていた。
人生を左右する検査を受けたばかりな上に、目覚めたら知らない場所にいたのだから仕方がない。ローレンツが積み重ねてきたものが取り払われた結果が現状だとしたら、マリアンヌは絶対に目にしないはずの貴重なものを目にしていることになる。
「大丈夫ですよ。きっと受け継いでいます。それにもし紋章を受け継いでいないとしても……」
ローレンツの子供には発現するかもしれない。だがそれでは問題を先送りにしているだけで同じ心配がつきまとう。それにそのためにはあること、が必要だった。
「紋章を宿す者を探して雇えばいいのです」
想像すらしていなかった答えだったらしく小さなローレンツは目を丸くしている。マリアンヌが取り繕わねば、と強く感じた瞬間に扉を叩く音が聞こえた。
「なんだよローレンツ!随分可愛くなったな!」
寝巻き姿のクロードの視線はしばらくヒルダの部屋の中を縦横無尽に彷徨い、最後にじっと見つめても失礼には当たらないローレンツの姿に注がれた。どうやら既にローレンツの姿形が変わった件について説明を受けていたらしい。
「クロードくん、まだアビスに出入りしてるなら心当たり、あるんじゃない?」
「いや、流石にそんな作用があるものは扱ってないよ」
その後もヒルダが思いつく限りのおどろおどろしい単語を出し、重ねて尋ねたせいだろうか。小さなローレンツは何度かどなたですか、と問おうとしたが結局、口を結んでいる。眉根を寄せて不安や恐怖を堪えていた。
「じゃあクロードくん、マリアンヌちゃんと一緒に先生のところへ連れて行ってあげて」
マリアンヌはすでに制服に身を包んでいるが口下手だしヒルダも寝巻き姿で出歩くわけにいかない。クロードなら寝巻き姿につっかけ履きでも先生の前に顔を出せるだろう、と言うことらしい。
「ま、そうなるよな。不安だろうがついてきてくれ。信頼出来る大人のところへ連れて行くから」
クロードが小さなローレンツを手招きした。その褐色の手は弓使いらしく胼胝だらけで、彼が決して語らない日頃の努力が偲ばれる。
「大丈夫ですよ。私もついていきますから」
「ありがとうございます」
マリアンヌの知る十九才のローレンツならきっとご婦人に負担をかけるわけにいかない、と言って提案を断っただろう。将来、長槍を振り回し重い茶器を軽々と持ち上げることになる手はまだ小さく柔らかい。何故そんなことをマリアンヌが知っているかというと反射的に小さな白い手を握ってしまったからだ。
背中に目がついていないのが実に惜しい。小さなローレンツの手を握っているのがマリアンヌでなければクロードは遠慮なく凝視した筈だ。引っ込み思案なマリアンヌがローレンツの手を取った、その瞬間をヒルダと共有できたこともクロードは嬉しい。クロードは口は上手い方だ。しかし見てきたように語っても伝わらないことがある、とも知っている。この件はクロードとヒルダの間で語り草になるだろう。マリアンヌ自身は自分には度胸がない、と思い込んでいるが実際はかなり大胆なことをするのだ。
クロードは円卓会議に参加するためデアドラへやってきたエドマンド辺境伯と会ったことがある。見た目は洒脱だが物言いは鋭く大胆だった。マリアンヌはエドマンド辺境伯の大胆さを色濃く受け継いでいるのかもしれない。
とにかくマリアンヌはローレンツのことを何とかしてやりたい、と強く思ったのだ。彼女はいつも何かに怯えていて枠から出ようとしない。でも今朝はそこを越えて小さな彼の手を取った。ローレンツの肉体と精神が元通りになった時にこの記憶はどうなるのだろうか。
「私たちの先生のところへお連れします」
「階段を下りたらすぐだ」
クロードが廊下の先を指さすとローレンツは神妙な顔をして丈の長い寝巻きの裾をそっとめくった。これでは外を歩かせるわけにいかない。靴をどうしたのか聞くと目が覚めた部屋に巨大な靴しかなかったのだという。確かにローレンツは長身に相応しい大きな足をしている。
「まあ……なんてこと……ずっと裸足だったのですね?気がつきませんでした」
二階の廊下は絨毯が敷いてあるが階段と一階の廊下は違う。小さなローレンツはそのことを察したらしい。マリアンヌがしゃがんだので小さなローレンツは救いを求めるように紫の瞳でクロードを見上げた。この小さなローレンツは怪我人を背負って戦場を駆け抜けるマリアンヌを知らない。細身の身体のどこにそんな力が、とクロードは毎度感心してしまう。
「はじめておあいしたごふじんに、そんなことをさせるわけには……」
故郷にいた頃クロードはよく靴を隠された。だから裸足で外を歩くと碌なことが起きない、とよく分かっている。
「足に布を巻く時間がもったいない。ほら、背負ってやるから俺んとこに来い。それともご婦人の背中の方が好みかな?」
クロードはあんな育ち方をしたというのに他人に、しかもローレンツに親切にしてやれることが自分でも不思議だった。嫌な記憶は鮮明なままだが、仕上げに振り掛けられる粉砂糖のような暮らしをここガルグ=マクで送っているからだろうか。
小さなローレンツは弾けるような早さでクロードの背中に身体を預けた。よろしくお願いします、といって乗せられた身体は悔しいかな、背中越しでも白い手足が長いとわかる。
ベレトの部屋はさして遠くない。両腕と背中の塞がっているクロードの代わりにマリアンヌが扉を叩いてくれた。
「朝早くに申し訳ありません。先生、ご相談したいことが……」
謎多き担任教師は講義の支度をしていたらしい。早朝にも関わらずすぐに三人とも部屋へ招き入れてくれた。こういう時はベレトの無表情さが救いになる。
「……という訳なんだ。どうしたらこの子が元に戻れると思う?」
クロードが説明する間、マリアンヌは当然のように寝台の上で所在なさげに座っているローレンツと目の高さを合わせるためしゃがみ込んでいた。
「先週皆に渡した黒魔法の教科書に誤植があったんだ。その知らせが来たのが昨日だった。今日の講義で伝えようと思ったが……どうやら遅かったらしい」
フォドラの印刷技術は貧弱だ。活字を組み合わせるのではなく、木の板にその頁の文章を丸ごと彫りつけて紙や布に転写している。だから内容を訂正した冊子が刷り終わるのに時間がかかったようだ。
「そうか、ローレンツは昨日、黒魔法の自主訓練をしていたから……」
金鹿の学級の者たちは皆、得意な武器や戦い方が全く違う。だから黒魔法の得意なローレンツだけが被害に遭ったらしい。
「ここにいるのは、ぼくのおちどではないのですね?」
「そうだ。だから安心して欲しい」
ベレトがそう語りかけると小さなローレンツは安堵のため息を吐いてから手で顔を覆った。先ほどマリアンヌに握られていた手は将来、槍の鍛錬で胼胝だらけになる。
「その新しい教科書を真っ先に使ったのはローレンツさんですね。先生、それで対処法は?」
ベレトは冊子をクロードとマリアンヌに寄越した。かなり革新的なことが書いてある。自然を捉え直し逐一命令を下して、求める現象を発生させるのが魔道だ。しかしその術式が自然な人間の認識からかけ離れている。
魔道が得意でないクロードなら項目と数値がずれないように項目の直後に数値を持ってくるだろう。だが、これまで読んだ魔道書は項目を先に全て述べた後で数値を一気に言うものばかりだった。この時に数値を言い間違えてしまうと発動しない。
だが今ベレトが見せてくれた黒魔法の教科書は設計が全く違う。要素ごとに項目と数値がまとめられていた。
「いや、これはすごい。魔道が苦手なやつでもこれなら何とかなるんじゃないのか?」
「確かにとても興味深いですが……話題がずれています」
ベレトも頷いている。思考があちこちへ飛んでしまうのはクロードの悪い癖だ。冊子の後ろの方には起こりうる状態異常とその回復方法について記されている。意識と肉体が乖離した際にレストをかけるとこの状態異常は回復するらしい。
「マリアンヌ、マヌエラを起こしてきてもらえないだろうか?俺は必要なものを医務室に運んでおくから」
先ほどはクロードだけで構わないだろうと思っていたがこうなるとマリアンヌがいてくれてありがたい。マヌエラの部屋はおそらく男子学生には見られたくない状態になっているはずだ。
パルミラ人はナデルのように大柄な者が多い。だからクロードはフォドラへ行けば、背が伸びれば自分がかなり大きな方になるのではないかと期待していた。しかし実際は見ての通りで、皆が皆ラファエルやヒルダの兄ホルストのような筋肉質というわけではないが背は高い。そんな訳でクロードはローレンツからもディミトリからも見下ろされている。
「俺からも頼むわ。ちびすけのことは任せてくれ」
クロードはそう言って小さなローレンツと共にマリアンヌとベレトを見送った。将来、クロードがローレンツの子供の頭を撫でる日が来るかもしれない。だが本人の頭をこんな風に撫でる日は二度と来ないだろう。クロードは寝台の端で大人しく座っているローレンツの頭に触れた。彼の父と同じく肩のあたりまで伸びている紫の髪をくしゃくしゃにする。
「やめてください。せっかくねえやがねるまえにくしをいれてくれたのに」
「すまんな、でもこうしておけばマリアンヌが───さっきの水色の髪をしたお姉さんが整えてくれるかもしれないぞ?」
クロードに乱された紫の髪を整える小さなローレンツの手が一瞬止まった。子供の頃から好みは一貫しているらしい。
「これいじょう、あのかたにごめんどうをおかけするわけには……」
だが幼い彼は思い直した。フォドラでは力なき幼子でも美しい振る舞いを追求することが出来る。パルミラの者からするとフォドラは痩せ我慢の国に過ぎない。だがクロードはフォドラで過ごすうちにこれはこれで美しい、と思えるようになった。
それでもパルミラ育ちのクロードは先ほど、咄嗟に小さなローレンツの手を取ったマリアンヌの内心に渦巻く衝動を高く評価しているし、彼女の抱える不満が解消されることを願っている。
マリアンヌとベレトの忙しない往来を何度か経て、クロードは小さなローレンツを医務室まで背負っていくことになった。クロードの隣を歩き、小さなローレンツに治療法を説明するマリアンヌは常日頃と違って加害強迫の症状が現れていない。穏やかな彼女の姿がどんな様子だったかヒルダに話してやりたくてクロードは黙っていた。きっと喜ぶに違いない。
翌朝、いつもの姿に戻ったローレンツが昨日の自分がどんな様子だったのか、クロードから聞き出そうとしてきたので───もちろん思わせぶりなことだけ言って肝心なことは何ひとつ教えてやらなかった。