桜の娘 冬はつとめてと言った清少納言はどこかおかしいのではないか。寒くて暗くて気が晴れないし、いいアイデアなど浮かぶべくもないと思うのだが。
ぶつぶつと脳内で愚痴をいいながら、杏寿郎は早朝のキッチンで湯を沸かしている。しゅんしゅんと軽い音がしてガスをオフにする。
この家に引っ越して五年目。いったい何回ここでコーヒーを淹れたことだろう。千回は超えたと思うのだが……という益体もない考えに逃げつつ、一枚の紙を片手に、慎重にドリップしていると。
軽い鍵の音がして、一、二、三。いつもどおりきっちり三秒で、リビングにアッシュピンクの頭が現れた。黒のコンプレッションウェアの上下。真冬だというのに、白い頬が紅潮している。室温がふんわりと高くなった気がして杏寿郎はそっと微笑んだ。体温の低い男なのに、彼がいる場所はいつも暖かいように感じられる。
「おかえり、猗窩座。その顔だとけっこう長く走ってきたんだな」
「ああ。気持ちのいい天気だぞ。冬は早朝に限るな」
「うちに清少納言が……」
「何を言っているんだ? ……なんだその紙は」
杏寿郎の手からひょいと取り上げ、目を走らせて。
「ああ。しまった。これ、まだだったか」
猗窩座は眉をしかめて、紙を睨む。うん、とうなずき、普段はきりりと上がっている眉を心もとなく下げて、杏寿郎は伴侶に苦笑を向けた。
「そうなんだ。なんだかんだで二月になってしまった」
「今日、小児科は?」
「ワクチン専用の時間は十二時から十三時。実は予約済みだ」
「なんだよ、俺にも言えよ」
ペットボトルの水を喉に流し込み、軽く文句をつける猗窩座から、杏寿郎は用紙を取り返す。
「君は土曜いないことも多いから、俺が連れて行こうと思ったんだ」
「無理だろう、ひとりで」
「むう」
ドリッパーをシンクに置き、ため息をついて杏寿郎はコーヒーを注ぎ分ける。差し出された片方を受け取り、猗窩座はダイニングテーブルについた。杏寿郎も横に座って、テーブルに紙を広げる。区から送られてきたMRワクチン接種予診票。
杏寿郎はコツコツとテーブルを指で叩いて、やはり今日しかない、と顔を上げた。
「就学前までには受けさせねばならんのだが、三月は入学準備で何かとバタバタするだろうから、今日中に済ませたいと思っている」
「うん。いいんじゃないか。俺も今日はヒマだ」
「問題は、あの子をどうやって連れて行くかなんだが」
うーん。難しい顔で、猗窩座はテーブルに肘を付き、杏寿郎は腕を組む。
「……なんであいつ、あんな気が強いのに注射だけは闇雲に苦手なんだろうなあ」
猗窩座がため息をつくのを、杏寿郎は腕組みのままちらりと見る。
「医者嫌いな君に似たんじゃないか?」
「おまえだと思うが。注射されるとき目をそらすタイプだろう」
「そんなことはない。俺は針が刺さるのを目視している。ガン見というやつだ」
「嘘をつけ」
「嘘じゃない。見たことないくせに」
「見なくてもわかる。おまえは絶対に注射が苦手だ」
「そんなことはないというのに!」
「ごまかすとき声がでかくなるの、昔から変わらないよな」
「ごまかしてなんかいない!!」
「揺火が起きるぞ。……そんなところも可愛いよ、杏寿郎」
真っ赤になって、ぐ、っと言葉に詰まった杏寿郎を、猗窩座はやさしい瞳で見つめる。注射が苦手なんて、不惑を迎えますます完璧に磨きがかかる煉獄先生にとってはむしろチャームポイントではないか。その調子で強がり続けて、誰にも気取られないでほしい。
付き合って十六年、結婚式から十一年。昨年思いがけなく子供も授かったのに、いまだに「可愛い」の一言だけで照れるのだから、本当に可愛いとしかいいようのない男だと、猗窩座は、まごまごしている杏寿郎に軽くキスをした。「本当に注射は平気だからな」「わかったわかった」という会話を経て、さて、と脚を組む。
「小児科は前と変わっていないな?」
「ああ。駅前ビルのほしなクリニックだ」
「おまえ、三年前は途中で勘付かれて逃げられただろう」
「日本脳炎のときだな。不甲斐ない……。自転車の子乗せシートから飛び降りて、人混みに紛れてあっという間に消えてしまったんだ。まさか三歳の子供が走行中の自転車から飛び降りてあんなスピードで走るとは……」
「積極的迷子になって逃げるのはあいつの得意技だ。次からはふたりで連れて行くと約束しただろう」
「そうだった。もうあんな思いは御免だ」
血の気の引いた出来事を思い出して杏寿郎はがっくりと顔を覆い、猗窩座はよしよしとその肩を撫でた。
ふたりの娘である揺火は、杏寿郎の弟である煉獄千寿郎の第三子である。
杏寿郎が三十二歳のとき、千寿郎夫妻に双子の男児が生まれ、その二年後に揺火が生まれた。甥っ子姪っ子が可愛くて仕方ない杏寿郎のために、猗窩座は煉獄家の近所にマンションを購入し、頻繁に行き来して遊んでいたのだが、揺火の生まれた二年後に今度は双子の女児が生まれた頃から、ふたりはたびたび揺火を預かるようになった。癇が強く、あらゆるベビーシッターに懐かず大音量で泣きわめく揺火が、杏寿郎と猗窩座には最初からべったりだったからだ。
双子の女児の下にもさらに弟妹たちが生まれ、静かな時間を好む揺火はますます杏寿郎たちの家に居たがるようになった。煉獄家から迎えが来ると「帰りたくない」と火が付いたように泣きわめき、そのまま泊まることが日に日に増えていって。正式に養女となったのは約一年前だが、それ以前から週の大半をともに暮らしてきた揺火のことを、杏寿郎も猗窩座も、目の中でチェーンソーを振り回されても痛くない存在だと思っている。思っては、いるのだが。
なかなかに強烈な子ではあるのだ。揺火という娘は。
「あいつの身体能力を舐めないほうがいい。年長のくせに身長は小学二年並みで、保育士をぶっちぎる足の速さだ。しかも誰に似たのか妙に知恵が回る」
「知恵といえば、揺火が作ったカードゲームを見たか? ルールが複雑で、よく考えられている! あんな面白いものを生み出すあの子は本当に凄い子だ」
「感心している場合じゃないだろう、呑気者めが」
ため息をついて、猗窩座はコーヒーをぐいと飲んだ。えぐみが少なく、酸味のキレがよくて、冷めかけていてもうまいと思う。
料理が得意ではない杏寿郎も、揺火が来てからは、最低限はこなせるようになった。ことに、彼女が起きてくる前にこうしてふたりで楽しむコーヒーと、寝かしつけたあとに嗜むノンカフェインティーは丁寧に淹れてくれる。君との時間が大切だと言われているようで、猗窩座は飲むたびに腹ではない箇所が温められる。
「どうした?」
急に黙り込んだパートナーを、杏寿郎が覗き込む。猗窩座はカップをちょいと動かして口角を上げた。
「いや。うまいよ」
「そうか。よかった」
微笑みあって、ふたり同時にコーヒーを含む。いい香りは心を和ませる。猗窩座は長いまつ毛を伏せて、独り言のように呟いた。
「娘の予防接種に悩む人生が俺にあるとはなあ……」
「どうした、改めて」
「いや。なんとなく、な」
高校二年の春に杏寿郎に惚れ込み、こいつしかいないと追いかけて、口説き続けて、付き合うことができて。その感激が衰えることのないままに、大学卒業と同時に結婚式をあげてパートナーシップを結び、一緒に暮らすようになった。愛する人が、自分を伴侶だと周知してくれて、毎晩隣で眠っているという、それだけでもう充分すぎるほど充分だったのに。
杏寿郎は、揺火まで連れてきてくれた。
「いろいろ思い出していたんだ。もう小学校だからかな……」
「ああ。子の成長というのは早いな」
プロポーズをされた十八の頃、猗窩座は子供を持つことになんの興味もなかった。杏寿郎が他人の子供を見る目のやさしさが、正直、よくわからなかったものだ。
だが、人は変わる。
杏寿郎と、五年、十年と共に暮らし、激しい恋の時期から、愛を育む安定期に入り。
格闘家として揺るぎない名声を手にし、ジムの経営のほうも課題は常にありつつも順調で。
仕事仲間たちにも、宇髄や不死川、井黒といった杏寿郎の関係者にも、狛治と恋雪にも子供ができて。
なるほど、子供というのは面白そうだ、みな苦労を語りながら楽しそうにしている、などと漠然と思うようになった猗窩座のかたわらに。
揺火が生まれた。
ひと目見たときにわかった。俺にとってこの子は、伴侶の姪という枠を超えた特別な存在になる、と。杏寿郎を「発見」したときにも似た、確かな直感。
家庭というものへの憧れが強い猗窩座にとって、揺火は最後のピースを埋める光だった。預かるたびに、壊しやしないかとどきどきしながら世話をした。笑ってくれると嬉しくて、泣かれると何も手につかなくなった。あちこちに連れて行っては、ふたりで「男子トイレにはなぜベビーベッドがないんだろう」と愚痴を言うのすら楽しくて。
週に一度だった預かる日が、二日、三日と増えていき、愛らしい喃語が片言の日本語になる頃には、次の預かりまでのたった数日の別れがつらかったものだ。
望んでも詮ないことながら。手放したくなかった。「よーちゃんは、おじちゃまとあかじゃくんと居たいの」と泣く揺火を煉獄家に帰した日はつい深酒をしてしまい、「君らしくもない」と酒を取り上げる杏寿郎に、「おまえだけはそばにいろよ」と絡み倒してしまったものだ。
杏寿郎が「揺火をもらえることになった」と告げたときの、嬉しすぎて貧血を起こすような感覚を、猗窩座は昨日の出来事のように鮮やかに覚えている。
揺火を守りたい。それだけは絶対的な真実だ。
守りたいからこそ、嫌がられても泣かれても、やらねばならぬことがある―――。
「……それで、どうする。あれを説得するのは、俺には無理だ。絞め落として車で連れて行くか?」
物騒だなあと杏寿郎は肩をすくめる。
「冗談でもやめてくれ。王道のご褒美作戦はどうだろう。注射をしたら甘味かぬいぐるみを買ってやると言い聞かせてみては。揺火は食い意地が張っているし、『めっけモノ』とかいうキャラクターにハマっているだろう」
「甘味はなんだかんだおまえが与えてしまうし、ぬいぐるみに関しては『もうすぐ誕生日だから要らない、お父さまにもらえばいいもの』とか言うと思うが」
お父さまというのは、父である千寿郎のことだ。ふたりの意向で週に一度は煉獄邸に宿泊させているため、揺火にとっては実の両親や兄弟も変わらず親しい存在である(揺火自身は「べつにいいのに、毎週毎週面倒くさい」という感じではあるのだが)。
「むう。四月生まれだからな。あの子なら言いそうだ。では、ワクチンがなぜ大切なのかという理を説くのが、やはりいいと思う。麻疹や風疹の怖さをきちんと説明して……」
「それで三年前に逃げられたんだろうが」
「三年も経てば成長していると思うが。頭のいい子だからな」
なぜか自慢げな杏寿郎の親バカぶりは可愛いが、苦手かどうかは頭の良さの問題ではないと思う。
「俺は、正面から説明する作戦には反対だ。なんとか駅前ビルまで連れていこう。ビルに入れば、あとは泣こうが喚こうが抱えて院内に運び込める。あいつは結構かっこつけだから、病院内でみっともなく暴れはしないだろう」
「うーん、それしかないか……。駅前ビルには、本屋と百円ショップとスターバックス……そうだ、さくら系のフラペチーノが始まっている! 情報番組で見かけて目をキラキラさせていた。あれを飲みに行こうと連れ出してビルに入ってしまおう」
「急にスタバに行こうというのは不自然じゃないか? 幼児にはカロリーオーバーだからといつもフラペチーノは買ってやらないじゃないか。途中で勘付かれたらどうする」
「ではランチのついでにしよう」
「駅前にはあいつの好きなマックがあるが、これもあまり食わせていないから怪しまれそうだな」
「わかっている。本格南インドカレーに付き合ってもらうお礼に、揺火には後でフラペチーノをご馳走するという筋書きでどうだ」
「それなら大丈夫そうだな。よし、予診票を隠せ。トートはGANZOのCERVOでいいな? 保険証と母子手帳を入れておくから……」
「大変だねえ、パパたちも」
透き通る声が背後からかかる。ヒュっと凍りつくように息を呑むふたりに、ぺたぺたと可愛らしい足音が近付いてくる。
「私に注射受けさせるために、こーんな朝早くから作戦会議か!」
「よ、揺火、おはよう」
「おはようございます、伯父さまパパ。おはよう、猗窩座パパ」
「おまえ、今日に限って早起きだな。いつもなかなか起きないくせに」
本当に勘が鋭い。猗窩座はあきらめとともにため息をつき、椅子を引いて背後を振り返った。大きなうさぎのぬいぐるみを抱きしめたパジャマ姿の娘が、リビングの入口に立っている。
腰に届く長い髪は、橙に赤を溶かした明るい赤銅色。同色の睫毛は飾り羽のように長く、瞳は金で、赤い輪はない。通常は観篝の儀式の影響を受けないとされる女児であるのに、揺火だけは、黒髪黒瞳の下の妹たちと違って、どこか煉獄男児を感じさせる色合いに生まれてきた。実の両親がいる手前、口に出さないようにしているが、まるで自分と杏寿郎を混ぜたような色味だと、猗窩座はいつも思っている(千寿郎の妻から「お義兄様と猗窩座さんの本当の子みたいな色ですよね」と言われたとき少し泣いてしまったのは内緒だ)。
きりりと意志的な眉の下の、こぼれ落ちるほど大きな瞳で、揺火はふたりをじっと見つめている。お人形さんみたいと形容される甘く可愛らしいかんばせの中で、六歳とは思えない鋭い眼光が輝く。
「杏寿郎。もう隠してもしょうがないぞ」
「だな。……おいで」
腕を開いた杏寿郎の膝にトコトコ近付いてよじ登り、揺火はテーブルの上の予診票を指で辿った。
「えむあーるワクチン。あさしん、かぜしん」
「ましん、ふうしん、だ」
「せたがやく。うけるひとのなまえ。おとこ。おんな。しつもんこと、こと……なんだろう」
「しつもんじこう。揺火はすごいな、もうそんなに漢字が読めるんだな」
「難しい字はわかんない。受ける人のところに私の名前を書くの?」
「そう。今日、予約をしている。揺火、これは大切なことなんだ。麻疹にかかると、身体中に発疹が出て、高い熱が続く。とてもつらい病気だ。この注射をするとかからなくなる。パパたちも、揺火をお迎えする前に射ったよ」
「よぼうせっしゅでしょ。知ってる」
おとなしく杏寿郎の膝に抱かれている娘を覗き込み、猗窩座はまろい頬をそっと突付く。
「どうした、おまえらしくもない。暴れてごねて泣きわめいて家出しないのか」
「もう赤ちゃんじゃありませんから! 大切なことですよ、よぼうせっしゅは!」
「なんで敬語だ」
揺火は杏寿郎の首に鼻先を擦り寄せて、甘えるように顔を隠した。
「前に逃げたとき、伯父さまパパがいろいろ教えてくれたの、覚えてる。パパ、お顔が真っ青だった。揺火を見失ってごめんなさいって向こうのお父さまにたくさん謝ってた。私もうここの家の子になれないかもって怖かった……」
杏寿郎は、安心させるように小さな背中をゆっくりと撫でた。
「揺火は、もうちゃんとうちの子だよ」
「そうなの?」
「うん。正式に手続きをしたからね。それに、赤ちゃんじゃなくても、嫌なことは嫌だと言っていい。でもワクチンは受けてほしいな。揺火が病気になったらパパたちはとても悲しい」
「わかってます。受けますから」
「だからなんで敬語だ」
「猗窩座パパうるさい。受けるって言ってるの! 伯父さまパパもお注射苦手なのにがんばったんだもんね。私もがんばります」
「パパはお注射平気だよ。猗窩座が適当に言ってるだけで。ああ、すごいな、揺火。たった三年であっという間に大人になって……そんなことを言うように……」
じんわりと熱くなる目頭を、杏寿郎は指で押さえた。大人があれこれと弄する策略を超えて、子供はすくすくと勝手に育っていくのだ。
「揺火の成長が早くて、パパは気持ちが追いつかないよ」
「あ、でもフラペチーノは飲みたいな」
「ふふ。ご褒美に買ってあげよう。さくら味のだな」
「やったあ。あとお昼はマックにして。ハッピーセットが『めっけモノ』なの」
「わかったわかった」
「…………おまえは甘すぎる」
「いいじゃないか、今日くらい」
可愛くてたまらないという顔で膝の上の娘をゆらゆら揺すっている杏寿郎に呆れつつ、猗窩座はパシャリと一枚、その幸せな姿を写真に収めたのだった。
***
子育ては一筋縄ではいかない。毎日、毎時、毎分思い知らされることを、ふたりはしみじみ噛みしめることになる。
「やだやだやだ、絶対イヤ行かない、離して、はーなーせー!!」
「絶対に離さん! いい加減、観念しなさい!」
駅前ビルのエレベーターホールに声が響く。やっぱり怖いと脱兎のごとく走り出した揺火と、すんでのところで腕を取った杏寿郎とで押し問答が続いている。先ほどまでのご機嫌が一瞬で癇癪に早変わりする、この豹変が実にガキだと、猗窩座はいっそ感慨深くふたりを眺めた。杏寿郎の腕に噛みつき、脚に蹴りを入れている揺火の当て勘はなかなか素晴らしく、こいつ格闘家の素質があるかもしれんな、などとも思う。
「やだあ! 注射とか意味わかんない! 飲み薬でいーじゃん!!」
フロアに転がり、そっくり返って暴れはじめた揺火を、猗窩座は強硬策だと肩に担ぎ上げた。年齢的に園児ではあるものの、小学二年生の体格がある揺火がパンツ丸出しで床ジタバタをやるのは、人目を憚りすぎる。
「降ろせ! 猗窩座の馬鹿力! 変態! このピンク頭、人さらいです、誰か助けてぇッ!!」
「おい、洒落にならないからやめろ!」
「けーさつ呼んでくださーい!!」
「君、もう少しきちんとした服装でくればよかったんじゃないか? そんなだぼだぼのセットアップなんか着て」
「いま言うことか!? だからおまえは甘すぎると言ったんだ!」
急にガキが成長するわけがないだろうが、と猗窩座は苦々しく吐き捨てる。揺火の手にしっかり握られているのは、もらったばかりのハッピーセットのおもちゃだ。こちらは食べたくもないジャンクなハンバーガーに付き合ったのだ、どうあっても、本日、今から、ワクチンを受けてもらおう。猗窩座は、髪をむしられるのにも頓着せず、まっすぐに小児科へと歩いていく。
「揺火、どうした。受けますと言ってくれただろう。パパたちはとても嬉しかったのに、逃げようとするなんて」
アッシュピンクの髪をむしる揺火の手を、禿げるからやめてくれと握りながら、杏寿郎が言い聞かせる。
「もう逃げてもいいんですー! だって揺火もうパパたちの子だもん、てつづきしたんだもん、三歳のときとは違うもん!」
「意味わからん。ほら、ついたぞ、小児科」
「降ろせーッ! 猗窩座のばか、いじわる、じどうぎゃくたい! だいっきらい!!」
「言ってろ。入るぞ」
小児科の自動ドアが開き、消毒液の混じった病院特有のにおいに包まれる。ワクチン専用の時間帯なので、待合室に人影はまばらだ。杏寿郎は受付に診察券と母子手帳、予診票を提出する。体温計を手にした看護師が揺火に近付き、にっこりと笑った。
「ちょっと体温、計らせてね」
「…………」
「すごい声が聞こえてたわねえ。お注射怖いのかな? すぐ済むからね。あっという間だよー、いい子いい子」
「…………怖くありません!」
受付の女性に笑いかけられ、全員の注目を受けて、揺火は憮然とそっぽを向いた。よその大人から赤ちゃん扱いされることを、誇り高い揺火は好まない。
取り敢えずおとなしくなった娘を油断なく膝の間にホールドして、猗窩座は順番を待った。杏寿郎の顔色がどんどん悪くなっていくのを横目に眺めながら。
「なんでおまえが貧血になりかけてるんだよ」
「だって、揺火の、この細腕に……。可哀相じゃないか」
「はしかに罹るほうが可哀相だ」
「わかっている! だから連れてきた。揺火頑張れ。パパの膝に乗って受けようか。ぎゅっとしていていいからな」
「うん。すごく怖い、パパ助けて」
「揺火! こんなに怖いことを我慢して、君は世界一いい子だ。フラペチーノはホイップ増しにしよう」
「パパぁ!」
「アホくさ……」
泣きながら抱き合う注射が苦手な親子に、猗窩座がぼそっと突っ込んだところで、煉獄さん、と名前が呼ばれた。俺が連れて行く、と、杏寿郎が決然と立つ。おう行ってこいと手を上げる猗窩座に、こっちのパパも一緒じゃないとダメと揺火がすがりつき、お二人ご一緒でいいですよと看護師が苦笑して、三人で診察室に通される。
「……やっぱりヤダ!! やだやだ怖いー!!」」
逃げ出そうとした揺火を、後ろに位置取っていた猗窩座がキャッチする。絶対やらかすと思って待機しておいてよかった。抱えあげて、診察椅子に座っている杏寿郎の膝に乗せてやる。揺火はそれでも暴れて、必死な顔で杏寿郎の腕を出ようともがく。
「かぜしんの注射やだあ!」
「かぜしんじゃなくて風疹……いたっ、揺火!!」
がぶ、と腕に噛みつかれて、杏寿郎が顔をしかめる。この噛みつきグセは君に似たんじゃないかと、言いたいが人目があるので我慢して涙目で訴える。猗窩座はひょいと肩をすくめて娘の顔を伴侶の腕から引き剥がして、後ろ手に手首を握って腕をむき出しにし、医者に合図をした。
「長引くと面倒だから、ひと思いにぶすっと刺してくれ、いま」
「バカ猗窩座! 私病気したことないよ、注射しなくていいってば!」
「元気な子ですね」
深みのある静かなバリトン。あれ、と揺火は暴れるのをやめて、そろりと医者を伺った。赤銅色の長い睫毛に覆われた金色の瞳が、丸く丸く見開かれる。
「揺火ちゃん。可愛い名前だね」
「たぬきおじさん先生じゃない……」
「あはは。いつもの先生は、僕のお父さんです。先月から、土曜は僕が入ることになりました。保科蓮といいます。れん先生って呼んでね」
「れん先生……すてきなお名前……!」
キラキラと光る眼差し。まさか。杏寿郎は猗窩座と視線を交わす。
「今まで病気をしたことがない揺火ちゃんは強い子だ。でもね、麻疹や風疹は誰でも罹る可能性があるし、とっても苦しくて、死んでしまう子もいる、怖い怖い病気なんですよ」
「そうなの?」
「そう。揺火ちゃんが苦しむのは、パパたちもつらいんじゃないかな?」
「れん先生もつらい?」
「もちろん。特効薬がない病気だから、かかってしまうと、先生にはほとんど何もできません。とってもつらいです。揺火ちゃんにお注射、射ってもいいですか?」
「わかりました。がんばります」
「わかってくれましたか! 頭のいい子だ、揺火ちゃんは」
揺火は嬉しそうにはにかみ、頬を染めてちらりと若先生を見上げた。白衣の下には、白いワイシャツ、ぴしっと締められたレジメンタル・タイ。高い鼻筋の上に黒い細ぶち眼鏡が載り、レンズの奥の重たげな一重まぶたは、やさしげに細められている。
「じゃあ、まずあーんして、喉を見せて。心音は、うん、大丈夫だね」
骨ばった細い指に注射器を持ち、薬液を吸い上げて、揺火の細い腕を脱脂綿で拭い、れん先生は、深く響く声で、はい、いくよ、と囁いた。揺火は注射器をもう見ていない。眼鏡の向こうの一重まぶたを、その奥の真っ黒な瞳を熱心に見つめている。
「いち、に。はい終わり。泣かなかったね。痛かった?」
「ちょっとだけ。もう終わりですか?」
「うん、終わり。めっけモノのパッチを貼っておいてあげるね。好きなんでしょう?」
握りしめたままのハッピーセットのおまけを見て、れん先生が微笑む。揺火は、はい、とうなずき、杏寿郎の膝を降りて丁寧な礼をした。
「先生、ありがとうございました」
「どうも、こちらこそありがとう。では、お父さまがた、何かありましたらご連絡ください」
「はあ。……ありがとうございました……?」
「可愛いお嬢さんですね」
「…………そうですね」
バイバイ、と手を振ってくれるれん先生に、揺火は何度も手を振り返して、診察室を後にした。受付で接種後の留意事項の紙をもらって病院を出るまで、三人とも黙りこくっていたのだが。
廊下を進み。エレベーターで一階についたところで。
「………………揺火、おまえ、おまえ」
「なあに、パパ」
「おまえ……、ぶっはははは!! おまえ、豹変しすぎだろう!!」
もう我慢できん、とひいひいと腹を抱えて笑い出した猗窩座に、揺火はへへっと笑って「パパは笑いすぎ」とパンチする。むっつりと眉根にしわを寄せて黙り込んだままの杏寿郎には構わず、猗窩座はこいつめ、と揺火の頭を撫でくりまわす。
「おっまえ、ああいう男がタイプだったんだな!」
「もう、タイプとか言わないで。恥ずかしいじゃない」
「地味顔で線が細くて、インテリっぽいというか……」
「私、ネクタイ似合う人が好きなの!」
「そういえばおまえ、サラリーマンっぽい顔の俳優好きだよな」
「パパもネクタイすればいいのに。ちゃんとして見えるよ?」
「俺は似合いすぎて杏寿郎が心配してしまうからしないんだ。じゃああれか、保育園でおまえのナンバーワンの蒼汰は、ああいった顔なのか」
「そうた!? なんだその男は、俺は聞いていない!」
「揺火の結婚したい人ランキングくらい知っておけ、それでも父親か」
「そ、その子はちゃんとした子なのか!?」
「パパうるさい」
「杏寿郎うるさい」
ぐむ、と黙り込む杏寿郎を置いて、ふたりはどんどん盛り上がる。
「蒼汰くんも隼人くんもあんな感じ! でも結婚したいランキング、今日かられん先生が一位になっちゃった」
「マジか、そんなにか! へええ、ああいう薄い顔が好きとはなあ。道理で宇髄の息子どもに興味がないはずだ」
「ですー、ますー、ってしゃべってくれたし」
「ああ、子供に敬語使ってたな。顔は似ていないが、ちょっと千寿郎っぽいソフトな雰囲気じゃないか」
「えへへ。お父さまもかっこいいよね」
「ファザコンめ。よかったな杏寿郎、今度から土曜に来れば予防接種は一発だぞ」
「少しもよくない!!」
杏寿郎はしゃがみこみ、血相を変えて揺火の肩を両手で包む。
「揺火、結婚というのは、一目惚れしたとか、そんな簡単なことで決めていいものではないんだ。よく、よーく考えなさい」
「いいんじゃないか、医者だし」
「年の差がありすぎる! き、既婚者だったらどうするんだ」
「真面目か」
「パパたちも一目惚れで結婚したって宇髄くん言ってたよ?」
「あいつ、昔から本当に余計なことばかり……!!」
まあまあ、と杏寿郎を抱え起こして、猗窩座が腰に手を回す。
「子供の成長は早いということだよ、杏寿郎。おまえが言ったんじゃないか」
「……どうしよう猗窩座、本当に気持ちが追いつかない」
「いちいち本気に取るな。身がもたんぞ」
「そういうものか?」
「あと十年ちょっとは家にいるさ。早いといっても、まだ大丈夫」
「そうか……そうだよな」
すまない、動揺してしまった、と、心臓を押さえて照れくさそうにする杏寿郎の手を握り、猗窩座は真正面から日輪の瞳を覗き込んだ。
「それに、揺火が巣立っても俺はいるから」
「猗窩座」
「二人に戻っても、寂しい思いはさせない。約束する」
「…………うん」
駅前でなければ確実にキスしていたであろう二人の間に、揺火は、ずどーん! といいながら突進して割って入った。
「私の前でのイチャイチャ禁止です。なぜならヤキモチを焼くから!」
「はは。そうだった」
「パパたちの一番は私じゃないとダメなんだよ、わかってる!?」
「わかっていますとも、お姫様」
「なんにしろ、注射したのは偉かった。これで無敵の揺火だな」
偉いぞ、と腕に抱えあげて、猗窩座はスターバックスのファサードをくぐる。
「なんとかいうフラペチーノ飲むか」
「うん!」
「猗窩座、ホイップ増量にしてやってくれ」
「やったあ!」
「それで、パパはさくらのラテにしよう」
「おまえはやめておけ。四十を超えたらすぐに肥えるぞ。せっかく体型を保っているんだから」
むう、そうか、と眉尻を下げる杏寿郎に、猗窩座はふっと笑って。
「まあ、でも……。今日はおまえも頑張ったからいいか」
「そうか!」
「本当に注射、苦手なんだな。揺火より派手に目をそらしていたの、見ていたぞ」
「に、苦手じゃない!」
「注射がんばったのはパパも同じだったんだね」
「そう。だから杏寿郎パパにもご褒美だ」
「苦手じゃないというのに、まったく……」
どしん、と肩をぶつけて、杏寿郎は猗窩座に軽くもたれかかる。
「君は俺に甘いな」
「まあな。そしておまえは揺火に甘すぎる」
「パパ大好き。娘は甘やかしてもいいんだよーだっ」
「おまえ、どこからそういう知識仕入れてくるんだ?」
「だいたいは宇髄くん」
「あいつと電話させるのやめないか」
「考えておく」
それで君は何にするんだ。俺はホットのソイラテ。君いつもそれじゃないか、たまには冒険したらどうだ。俺は一途なんだよ、誰かさんと違って。なんだそれは聞き捨てならないな、俺だってずっと一途だ。どうだかな、先週も山盛りのバレンタインをもらってきたくせに。それは君もじゃないか。俺はお返しをする気がないが、おまえはどうせホワイトデーに愛想をふりまくんだろうが。四十になったおじさん先生を心配するのは君くらいだ。杏寿郎は格好いいよ、今のほうがむしろ渋いというか。君だって危険な色気が増していると思うが。はい、イチャイチャ禁止でーす、揺火ちゃんが暴れますよー! はは、わかった。でも揺火にはお返ししないとな。折り紙のチョコ、可愛かったなあ。…………。
なかなか進まないオーダーの列に焦れることなく、毛先の赤い金色と、アッシュピンクと、赤銅色の三人の後ろ頭は、益体もない、だけどこのとき限りの幸せなおしゃべりに、延々と花を咲かせるのだった。
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―――終わり―――