ある雨の日 重苦しい灰色の空。湿り気を孕んだ温い空気。
『あー。今日は、東京から来た転入生を紹介する』
途切れることない雨に似た、薄暗い目の男の子。
『阿藤春樹君だ。みんな仲良くするように』
梅雨が始まった最初の日。
長く続く雨を連れて、『彼』はこの町にやってきた。
「~~~っ!」
「~、~~!」
内容は聞き取れないものの、確実に罵声とわかる響き。すぐ隣の階段を駆け上がってくる誰かの足音。そこに階下の廊下を走る複数の音が重なれば、起きている事象は確定だ。恐怖に跳ねた身体を抑え、私はカウンターから立ち上がった。
この図書室は階段のすぐ隣だ。先生たちによく叱られている乱暴者のクラスメイト達は、本棚や机をアスレチックとみなしている節がある。だから本当はよくないけれど、扉を閉めて鍵をかけたい。扉が開かなければ彼らも諦めて別の場所に行く。
だから、早く。早く鍵をかけて、閉じこもらなきゃ。
けれど。
「っ!」
「、わ」
恐る恐る扉を引こうとしたその直前。壊れる勢いで引き開けられた扉の向こうに、『彼』がいた。
女子と比べても一際小柄で細い身体。少し長い茶色の髪。いつも俯いている暗い瞳。先月同じクラスになったばかりの転入生だ。
運動神経は悪くないけど体力がなく、成績も下の方。異質な空気を纏う彼は、時々奇妙な嘘をついて人の気を引こうとするのだという。全部が悪く作用して、彼らの標的になりつつある男子生徒。
少々白すぎるその頬が、無残に赤く腫れている。
「っ」
「待って」
踵を返した彼の腕を咄嗟に掴んだのは、そのせいだ。有無を言わさず図書室の中に引きずり込み、扉を閉めて鍵をかける。瞬間凄まじい音を立てて、外から扉が揺さぶられた。
填め込まれたガラスが擦れ合う音。扉とレールの不協和音。いつもはすぐ諦めてくれるのに、今日は音が収まらない。
両腕で自分をきつく抱いて、崩れそうな足を必死で抑える。何か言いたげな眼差しに、首を横に振るのが精一杯。みっともないけどきっと涙目になっている。だってすぐ隣に立っている彼の顔が、ちゃんと見えない。
「……終わったよ」
どれほどそうしていただろう。隣から聞こえた静かな声に、やっと嵐が収まったことに気が付いた。身体から一気に力が抜けるが、棒みたいに固まった足は身体を頽れさせもしない。
「じゃあ俺、行くよ」
「えっ」
「鞄、教室に置きっぱなしでね。もうすぐ下校時刻だし、田中君たちも先生に見つかる前には帰るだろうから」
何を言っているかわからない。違う、わかる。いつまでも閉じこもってはいられない。家に帰らねばならないのだ。
わかる。わかるけど。どうして彼は迷うことなく、安全な場所から出ていくと言えるんだろう。こんなに赤く腫れた頬は、泣きたいくらい痛いはずなのに。
「あ、あのっ」
扉に手をかけた彼を呼び止める。困ったらまたここに逃げてくればいい。何度も繰り返したら怪しまれるかもしれないけれど、扉を壊す勇気は早々持てるものじゃないはず。そう言おうと思ったのだ。言わなければいけなかったのだ。
けれど先程よりも赤みを増している白い頬を見た瞬間、頭が真っ白になった。言葉が喉の奥で引っかかる。彼の指先がほんの微かに軋ませた扉の音が、先ほどの恐怖を呼び起こす。
ばれたら。もし彼を匿っていることがばれたら、きっと。次に標的になるのは。
「大丈夫。もう、ここには来ない」
そんな私の小ささなんて、きっとあからさま過ぎたのだろう。
「あいつら、標的を変えるタイプじゃなくて増やすタイプだと思うから。これ以上俺に関わっても何のメリットもない。やめた方がいいよ」
立ち尽くすしかできない私に、優しい声が降ってくる。責めるどころか赦しを与えるような声。
私には何一つ期待していない、残酷な声。
「ありがとう。助けてくれて、嬉しかった」
扉が開く音。左右を確かめ、一目散に走り出す背中。階段を駆け降りる足音は、あっという間に遠ざかる。
いつの間にか降り出した雨が、廊下の窓を濡らしていた。激しくなりゆく雨音は、足音も気配も塗り潰す。つい先程まで話し声があった図書室に、雨音以外の物音はない。消えた音を追うこともできず、私はその場にしゃがみ込む。
そんな梅雨の終わりの記憶。
『彼』が田中君を殺しかける、半年前の雨の日のこと。