蠱惑の傀 頽れた傀は、見知った男のかたちをしていた。
ここには他に誰もいない。
暗くもなければ明るくもない、無味無臭に徹した箱のような空間に、彼は存在しているようだった。
まるで風化した玉座のようなハイバックチェアに、真紅の化身が鎮座している。
辺りをぐるり見回した白い海軍服の男は、同じく真白な中折れ帽をくい、と目深に被り直した。
(あれは……)
己の知る彼の姿とは程遠い、緋色の髪の毛がふわり、ふわり、どこから流れているのかもわからぬ春風のようななにかに煽られて、気怠げに揺らめく。
ところどころ褐色に染め抜かれた三度笠。見る限り頭陀襤褸のそれを留める顎紐が窮屈そうで、男は――龍馬はそっと、いつ崩壊するともわからぬその椅子へ、音も無く近付いた。
「…………」
座る男の顔は酷いノイズに邪魔されて、手を伸ばせば触れられるこの位置からですら上手く視認が出来ない。
黒く、現実を墨で上塗りしたような不可思議さに眉を顰めると、化け物じみた紅い、切れ長の眼が爛々と光を増す。
「…………さん、」
その名を。
間違えようのないその名を口に浮かべ、龍馬は腰掛けた男の、顎の下へ静かに手を伸ばす。そしてきつく結ばれた蝶結びを解くと、意を決してその血塗られた王冠に手をかけた。
「いぞうさん」
「……」
この至近距離で、息遣いひとつ感じ取ることが出来ない。
彼が生きている人間なのか、精巧な蝋人形なのか、はたまた魔力の塊なのかを判別することすら叶わない。
穴が開き、繊維の折れた竹管が剥き出しの笠。それをこれ以上壊れないように、細心の注意を払ってゆっくりと持ち上げる。
「いぞうさん……」
変わり果てたその尊顔を仰ぎ見ることは、ない。
自分にはその権利がないのだと、そう理解した美丈夫は手にした冠を床へ取り落とし、そのまま玉座の足元に膝を折った。
「……」
擦り切れた裾の、ほつれて出来た凹凸にじっと視線を這わせる。濃茶色の染みがいくつも、大小様々に袴を彩っている。
居た堪れなくなってそこから目を逸らせば、動かぬ男の草履が目に入る。それもまた、泥と血に塗れ闇色がべたりと固着した、重鈍な様相を呈していた。
「あ……」
静かに、可及的速やかに。
別の色を探すべきだと、龍馬はその草履の片方を、乾いた血色の纏わり付いた黒足袋を脱がせ――
「…………」
現れた男の素足は、赤。
とろり、重く濡れたような。
とろり、どこからか湧いて滴るような。
天鵞絨の緞帳が撓む陰影に似たその色彩は、逃避を許さないという声無き命令だ。
「あ、…………」
およそ人間のものとは思えぬ、今際の際の色をしたその膚に、龍馬の眼差しは縫い留められてしまった。
触れればきっと温かく、しっとりとぬめるだろう、左足。
締まった足首、張り出た踝の硬さとなだらかな窪み。
必死で抑えていたはずの情動が食道を抜けて込み上げる。
麗しい。
馨しい。
艶かしい。
彼に対して抱くべきではない、唾棄されるべき感情が堰を切って溢れ出す。
無色透明のそれは明らかに鎮座する傀の足の甲を、指を濡らし、それでも飽き足らず闇色の床にまで染みを広げたようだった。
「はっ……はぁッ……」
身体の裡に溜め込んでいた汚泥のようなそれで潤びた足先は、光源の見当たらないこの部屋の中でもぬらり、龍馬の舌を誘うように煌めく。
「…………ッ……」
椅子から溢れ床に滴る長い髪のひとふさと同じ。
見ること能わぬその瞳と同じ。
視界をいっぱいに埋め尽くす赤光のようなその足を、龍馬は徐ろに手に取った。
しっとりと。じっとりと。
確かに感じる重量が、彼がここに存在していることを伝えてくる。
皮膚から伝わる微かな熱が、彼の輪郭を浮き上がらせる。
「…………」
気がつくと龍馬は跪いたまま首を落とし、唇を男の足背に寄せていた。
その稜線をなぞるように舌で舐め上げると、じわり、仄かな甘さが脳髄を湿らせる。
幾度それを繰り返そうと落ちることのない色彩が、胸に泥むあらゆる後悔の匂いが臓腑を灼く。
「…………」
ゆっくりと、朽ちた玉座を仰ぎ見る。
笠を外したはずのその顔は、部屋の異様な暗闇に呑まれて見えることはない。
「……いぞうさん」
美しい男は決して贖えぬ茫洋としたなにかに頭を垂れると、もう一度、掌の上のぬめらかな爪先に恭しくくちづけを贈った。
[了]