【悪魔のキズナ】 いつかは忘れてしまうのでしょうか。いや、こんな痛み、こんなもどかしさを忘れられるわけ、あるものか。
不要な情報、古い記憶は知らずのうちに淘汰され己の中から出て行ってしまう。到底耐えられない負荷が掛かった時もまた、生き物はあえて記憶を手放すという。心が、感情がある以上、ありとあらゆるすべてを抱えて生きてはいけない。忘却とは即ち生存のための防衛本能なのだろう。しかし、そうであるのならば。いっそその苦渋を抱き苦しみ抜いた先で、そのまま死んだ方がいくらかマシなのではないかと思えるほどに、この痛みは忘れてはならない重要なものであると、そう思った。
「痩せ我慢はおやめください。お願いです。このままではあなた様は」
身を潜める寂びれた小屋。そこに残されていたのは僅かばかりの家具だけで、他には何もない。住民不在のその空間は四、五十年前で時が止まってしまっていた。壁際のソファをベッド代わりに横たわる男を見やれば肩で息をしていた。衰弱していく主はもう、いつ消滅してしまうとも分からない。あれだけの膨大な力を誇った暴君がたったひとつの約束に蝕まれ息をするのもやっとの状態で。言うなればこれは絵に描いたような悪夢であった。あなたの力は、ここで終わっていいようなものではないはずなのに。死んだ女との約束など、どうとでもしてしまえば良いというのに。
赤黒い液体を詰めた小瓶を差し出して見せるが、ヴァルバトーゼは焦点を定めようともせず、首を横に振るだけだった。狼男はぼんやりと思う。他人の生き死にをこんなに間近でまざまざと見たのはいつぶりだろうか。日に日に濃くなっていく死の気配をこんなにまで恐ろしく感じたのは。
吸血鬼のもとより白かった肌は一層血の気が引いているように思えた。それもそのはずで、この人はもう二週間、血を口にしていない。今のヴァルバトーゼが元より在った魔力の蓄えを削って何とか生き永らえている状態であることは言われずとも察せられた。どれだけ強大な悪魔であろうと魔力は無尽蔵ではない。グラスの水を飲み続ければいつかなくなるように、注がれることがなければ魔力もいつかは底を尽く。
「ヴァル様」
返事はない。白状してしまえば、恐ろしかった。このまま、ヴァルバトーゼという存在そのものが消えてしまいそうな現実が。憎かった。あまりにも強固なその意思が。この期に及んでまだ女を恐れさせていないなどとのたまうならば、人間を襲わないと言い張るならば。無理矢理にでも血を飲ませてしまおうと幾度思い巡らせただろう。実際、何も口にしないよりはと出した食事に血を仕込んだことがあったが、結局ヴァルバトーゼは口をつけなかった。それどころか血の混入を認めてもオレに悪態ひとつ吐かなかった。それが酷く悔しくて、その一度きりでやめてしまった。
けれど、それも過去の話。目の前の衰弱したヴァルバトーゼならば。やりようによっては力ずくで血を飲ませることだって出来るだろう。そうだ、難しく考えていないで今ここでそうしてしまえばいい。この小瓶が失敗に終わったとてどうということはない。いつ主が気変わりしても良いよう、人間の血液の準備だけは十二分にあるのだから。
瓶の蓋を外す。決心して息を吐く。主人のそばに歩み寄り、その人を静かに見下ろした。
「お許しください」
長年手入れをされず革にヒビの入った古いソファ。体を沈ませていた主へとのしかかる。首を掴み羽交い絞めにして、無理矢理口を開かせた。必死に抵抗する彼の腕が想像以上に弱々しくて、手に込める力をつい躊躇うと紅い瞳がキッとオレを睨む。その瞳は決して弱さを滲ませない。
「わたくし、は、」
無抵抗にも等しい主に何をしているのだ、オレは。
言葉が喉元につっかえる。わずらわしい。主にこうして迫っておきながら、自分だって「こんな簡単なこと」が出来やしないじゃないかと自嘲する。
「血を飲んでいただきたい。力を取り戻していただきたい。……ただ、それだけなのです」
「……すまんが、それは出来ん」
人間を襲わないという約束ならば、人狼(あくま)の私の血を飲めばいい。何故ここまで意固地になる。あの聖職者との約束が、私との約束よりも重要だと言うのですか。ああそうだ、ヴァル様と先に約束を交わしたのはこの私ではありませんか。あの月が輝き続ける限り尽くせと命じたのはどこのどなたですか。今この瞬間だって月は我々を見下ろしているのに、人間との約束を守って私をひとり置き去りにして逝くというのですか。
「馬鹿者、約束は必ず守る。それは何も、アルティナとの約束に限った話ではない。お前のような見上げた男を仲間に迎え入れたのだ。こんなところで……俺は死にはせん」
心を見透かされていたのか、それとも声が漏れ出ていたのか。暴君ヴァルバトーゼは穏やかに言って、覆いかぶさるオレを抱きしめ、そのまま頭を撫でた。大の大人が大の大人をあやす様は明らかに異常であったけれど──遂にはオレは頭を垂れ、身を委ねたのだった。その穏やかさが何もかもを諦めてしまった者のそれではないことを感じ取ったからだ。布越しに人肌など伝わってこようはずもない。それでも感じる初めてのぬくもりを、今だけ、と享受する。
ああ、この気持ちを何と呼称すれば良いだろう。良く分からない。分からないが──本当に恐るべき力を秘めた悪魔だ、この人は。
◆
「チッ、しつこいゴーストどもだ」
「閣下、このままでは体力が! こちらをお使いくださ、い……?」
目と鼻の先でぽわ、と特有の回復音がして拍子抜けする。狼男の手元にはヴァルバトーゼに渡そうと構えていたひとつのガム。それが突如として行き場を失い、フェンリッヒは驚いて目の前の人を見た。
「回復は私にお任せくださいと申しましたのに」
「ああ、そうだったな。勿論、俺が回復行動をとらなければお前が俺を支援するだろうとは思っていた」
いつかの仕返しをするように、けれど嫌味なく吸血鬼は笑った。
「だが、血を仕込まれていては敵わんからな。食わねば死ぬ、食えば約束を破ることになる。……そうなる前に自分で回復するのは道理だと思わんか、フェンリッヒ?」
「……フフ、さすがは我が主。私のことを良くご存じでいらっしゃる」
「日頃の行動を反省するのだな。……俺はお前の見初めた主だぞ? こんなところでくたばる訳にはいかないのだから」
そう言ってヴァルバトーゼはオレの頭をわしゃ、と撫でた。ぎこちない、白手袋の手。いつかの懐かしさが蘇り、同時に湧き上がったのは紛れもない「照れ」だった。
「なっ……何をなさいますか!? 敵に集中してください!」
手に握ったままになっていたガムを乱暴に自身の口に放り込む。舌に触る甘味がほんの少し、嬉しかった。ガムは鉄の味などするはずもない。本当はヴァルバトーゼもそのことは知っていたはずで。
「さあ、背後は任せたぞ、フェンリッヒ」
剣を大きく振りかざしたヴァルバトーゼと背中合わせになるように立ち、取り囲む亡霊たちと対峙する。頷き、膨らませたフーセンガムが狼男の口元でぱちんと弾けた。