抗う者達② 闇の中、志海が八木山を振り返った。
「あー、やっぱり戻ってきちゃいましたか……八木山さん」
「志海……」
八木山は痛むように顔を歪ませた。これは夢だ。奴は本物ではない。それを理解して気が重くなった。
いったい“何を企んでいる”のか……まったく、タチが悪い。
一方、志海は八木山の気持ちを知った上で無視をして、愉快そうに笑う。
「あはは、待ってたんですよ」
八木山は目を細めた。
「何?」
「八木山先生のこと、待ってたんです」
「お前が俺を待つ、だと?」
いくら夢の産物とはいえ、志海の口から絶対に出てこないであろうセリフに、背筋が粟立つ。
「おかしいですか? はは、おかしいですよね。僕もそう思います。……でもね」
いつもの貼り付けたような笑顔の志海がうっすらと目を広げた。
「待ってたんですよ」
いくつもの小さな赤い光が、深淵から八木山を覗き見ていた。
「三郎、」
八木山は警戒を強めた。コイツ、いったい何を企んで、
「さぁ、僕と同じように、▽●○★◎◇◆&*#%△▽●◇◆□▲◎○」
「八木山!!」
「ッ!!!!」
八木山は引き付けを起こしたように目を覚ました。
しかし意識が現実を理解できない。
「ッ……!」
はくはくと酸素を求めてあえぎ、目を泳がせる。視界が明滅の如く移り変わり、脳の処理が追い付かなくて鈍く頭痛がよぎった。
果たして何を見ているのか、何処にいるのか、いったい自分は──
「八木山、八木山、大丈夫か」
「……」
呼びかけられ、そこで初めて視界に複数の色が差していることに気付く。
「徹心」
杉山が心配そうな顔で八木山を覗き込んでいた。その両脇にもえべたんと穂高が控えている。
「……」
現状を把握し、八木山は安心したように深く息を吐いた。そして起き上がる。
「うなされていたぞ」
「すまん、嫌な夢を見た」
「山の……三郎の夢か?」
杉山が問う。八木山は目を見開いた。
「お前も見たのか?」
狂気山脈は登山者に同じ悪夢を見せる。あれを三人も見たのか。
しかし杉山は首を振った。
「いや、私達は見ていない。もしかしてと思っただけだ。前回も一人、K2だけが最初に夢を見たからな」
「そういえばそうだったっけ」
えべたんが思い出して言う。
「何故、ケビンだけだったのかしら?」
穂高が首をかしげる。
「……山に近かったのかもしれない」
八木山はぽつりと呟いた。
「山に近い?」
聞き返す穂高。
「執着と言い換えていい」
「あー……K2さん、登頂にこだわってたもんね」
とえべたん。
彼女の言う通り、K2ことケビン・キングストンは己の老いに急き立てられるように、世界最高峰の初登頂にこだわった。それゆえ体調不良を隠すという、一流のアルピニストなら絶対にしてはならないタブーを犯して狂気山脈登山に挑み、結果、重度の高山病と脳浮腫によって下山を余儀なくされたが。
かろうじて一命は取り留めた。しかし再び登山ができるようになるには、しばらくの療養とリハビリを要するだろう。──K2にはえべたんとの約束がある。彼は必ず立ち上がると、この場の四人は信じている。
「では、貴様は今、山に一番近いというのか?」
「それはそうだろう。何せ志海を捜しに短期間で舞い戻っているわけだしな」
八木山は答える。
「八木山君がこだわっているのは山ではなくて、志海さんじゃないの?」
穂高が問う。
「……無関係とは言えないと思う」
志海は狂気山脈に囚われたようなものだと八木山は考えていたが、不吉な話になると思い直して今は伏せた。いらぬ不安要素を序盤から広げる必要はない。
「それは、そうだけど」
「どうせ今晩には私達も見るようになる。大差ないだろうさ」
杉山は言った。前回もそうだった。
「あーあ、あんまりいい気分じゃないんだよなー」
えべたんが悪態をつく。
「悪夢見ていい気分になるヤツなんかいないだろ」
突っ込む八木山。
「それはそうだけどー」
「覚悟は、しておきましょう」
と穂高。
「さて、どんな悪夢になるやら」
杉山が言う。
「ま、志海さんっしょ」
「だろうな。一発殴っておくか」
「じゃぁ、えべたんはキックしとく!」
「……肝が座ってんなぁ」
軽口を叩くえべたんと杉山に、八木山は苦笑した。
「じゃなきゃ来ないって」
そう言って笑うえべたん。
「覚悟はしてきたからな」
杉山も苦笑いを浮かべながら頼もしくうなずく。挑むことをやめながらも挑む男は言うことが違うなぁと八木山は感心した。
「八木山君、落ち着いた?」
八木山の手首を取って脈を見ながら確認する穂高。
「あぁ、ありがとう、梓さん」
「どれくらい寝れた?」
穂高が重ねて尋ねる。
八木山は少しばかり考える仕草を見せ、答えた。
「徹心が自分のテントを出ていく辺りでウトウトし始めた感じかな」
「さっきじゃねぇか!!」
怒鳴る杉山。彼はつい先程までトイレに出かけていた。戻ってきたところでうなされている八木山の声を聞きつけたのである。
「めっちゃウケるし」
とえべたん。
穂高は深々とため息をついた。
「もう一泊キャンプ、はしたくないでしょうから、ビバークは視野に入れておいて」
「……分かった」
医者の険しい表情に、八木山はそう答えるしかなかった。
八木山が寝袋から出たのをきっかけに、三人が自分達のテントへ戻って寝床を片付け始める。
「……」
志海の声を思い出し、八木山はぶるりと体を震わせた。
ひどくおぞましい声だった。
あんな音、今まで聞いたこともない。
一度は心の奥に押し込めた憶測が、実感を伴ってじわりじわりと押し寄せてくる。
あれは──人智の領域ではないのだと、改めて思い知らされる。
自分達がこれから挑もうとしている相手は、そんな存在なのだ。
現在、標高四千メートル地点。
体の節々が軋むような寒さだったが、四人は出発する決断をした。
「まだ四千メートルかぁって感じ」
えべたんが言う。
「前回の本来のスタート地点だからな」
杉山が同意する。
「今回の目的は志海を捜すことであって、登山をしに来たんじゃないぞ。登らずに済むならそれに越したことはないんだ」
八木山が指摘すれば、分かってますよと不貞腐れた素振りを見せる二人。無事に、無難に、早々と志海を見つけて下山できればそれに勝るものはないと、本当はえべたんも杉山も理解している。
「そろそろ今後のルートを再確認しない?」
穂高が言った。
「そうだな」
応える八木山。杉山が直ぐ様ザックから衛星写真を取り出した。ひょこりとえべたんと穂高が覗き込む。
「負傷した体ではあまり無理はできないはずだとの仮定で、ベースジャンプした方向から推測するに」
彼はそう言って衛星写真を指先でなぞる。
「ここからこの辺りがもっとも可能性が高いんじゃないかという話をしたな」
「標高六千メートルから七千メートルほどの辺りだな」
杉山が言う。
「で、問題はこの壁でしょ?」
えべたんが標高五千メートルの中腹辺りを指差すと、八木山はうなずいた。前回K2がショゴス乗越と呼んでいたルートだ。
その時にはなかった壁が出現していた。
「新たに垂直登攀を必要とする壁ができてる。たぶん下山後の地殻変動か何かで地面がずれたんだ。規模はブラックアイスフォールより低いが、その前に亀裂が見える」
八木山の言う通り、壁の高さ自体はそれほど問題ないものの、写真からはそれまでのルートと壁を隔てるように横たわるクレヴァスのようなものが見えた。
「ここを渡れればいいが、迂回するとなると一日か二日を消費することになりそうだ」
「今回はアルパインで来てるから橋ないし」
えべたんは両手を広げて肩をすくめる。前回と違い、四人は軽量装備最短踏破仕様の荷物スタイルで来ているので、組立式の簡易橋は持ってきていないのだ。
すると杉山が胸を張った。
「私の跳躍でどうにかしてやるさ」
彼はどうもジャンプには自信があるようで、前回からたびたびそんなことを言う。八木山は苦笑した。
「できりゃいいけどな」
「そこもネックだけれど、その先の連続登攀も気を付けないと」
そう言って穂高が指で円を描く。ショゴス乗越の壁を越えても、そこから更に七千メートルまでは垂直登攀、徒歩、垂直登攀、徒歩を何度か繰り返さなければならなかった。
ただの山ならなんの問題もない。しかしここは狂気山脈。
しかもどうやらいつぞやの激しい変動で雪や氷が剥がれ落ち、黒い山肌が露出している箇所もあるようだ。
「……」
八木山は親友の手記を思い出した。今回もザックに入れてきた。もっとも日本の自宅に戻れていないので、持ってくる以外になかったのだが。
「……あとは行ってみて、だな」
「できればフリークライミングは避けたいところだけど」
穂高が不安そうに呟く。と言っても彼女が心配しているのは己の力量ではない。
「……」
八木山は誤魔化すように後ろ頭をかいた。
「とにかくもう寒いから動こう!」
「そうだな」
軽快に足踏みを繰り返すえべたんと、その場で何度もジャンプする杉山が、八木山と穂高を急かす。言われた二人は顔を見合わせて苦笑いを浮かべた。
「分かった分かった」
「えぇ、行きましょう」
天候は降雪。まだ全然マシだと彼等は進む決断をした。
四千メートルまでは順調に登ってきた。
しかし、それからが狂気山脈の本領発揮と言って良かった。
──黒い人影が四人を捉え、ニタリと嗤って消える。
「ッ!」
穂高が身を強張らせた。
「今の、見た?」
彼女が振り返って問えば、八木山と杉山が肩をすくめる。
「見た。さっそく来たな」
「またかという感じだな。今さら惑わされはしない」
「何何、笑うブロッケンJr.?」
えべたんが三人の顔を見回す。彼女だけまた見なかった。
「Jr.じゃないし。なんでそんな楽しそうなんだ」
げんなりする八木山。
「えー、面白そうじゃん。撮りたかったしー」
「呪われそうだからやめとけ」
杉山が肩を言う。
「その前に写るのかしら」
と穂高。
「絶対映えるのに」
「……映え???」
映えるか? と首をかしげる八木山。
「バズりはしそうだけどな。本物か偽物かという意味で」
「それ、炎上って言わない……?」
杉山の言葉に穂高が眉をひそめる。
「いいじゃん、楽しそう」
「炎上が楽しいもんかよ……」
想像して八木山はため息をつく。
……もっとも、えべたんは面白そうと本気で考えてはいるのもも、たとえ撮影できたとしてもオンライン上に公開する気は全くないし、八木山達もそれを分かっている。
全ては戯れ言だ。その場をなごませるための。
実際それで穂高の緊張はやわらいだのだった。
「……進みましょうか」
「おっけー!」
穂高は微笑み、えべたんは笑った。
またか! と八木山が叫ぶ。
「徹心まじウケるし」
えべたんが言う。
「いや、すまん、自分でもさすがに驚いた」
申し訳なさそうにうなだれる杉山。
彼は前回に引き続き、また道に迷ってしまった。何をどう通ったのか、幸い穂高と先導を交代した地点に戻ってくることができたが、無駄に体力を消耗して進み直しである。
「ちょっと調子悪いわね。休みましょうか?」
穂高がビバークを提案するが、三人は首を振った。
「今度は任せてくれ」
杉山が言う。
「頼むぞ……」
八木山は深くため息をついた。
「次はえべたんだけど……」
「代わるか?」
少し困惑した表情のえべたんに八木山が提案する。えべたんは登山経験が他のメンバーより少ないゆえか、雪に覆われた未踏峰のルートを先陣きって開拓しながら進む能力にあまり恵まれていない。前回もたびたび八木山が肩代わりをしていた。
「んー、代わってもらっちゃおっかなー」
四千メートルまでは無事にたどり着けたが、狂気山脈が牙を剥き始めたことを受け、えべたんは少し警戒していた。
「分かった」
引き受けて先頭に立つ八木山。
「八木山君、あまり無理しないで」
心配して穂高が声をかけるが、大丈夫だと手を振って進み始める。
「……」
穂高は嫌な予感がして眉をひそめた。
彼のルート開拓能力はケビンに比肩する。そして穂高はそれを疑っていない。
しかし、八木山の元々のコンディションの問題がある上に、どうも彼は急いている節がある。
ケビンの姿が脳裏にちらついた。無理は絶対に禁物だ。危険な狂気山脈登山、デスゾーンまで登るつもりはなくても、気を付けなければならない。
彼の二の舞になっては元も子もないのだから。
「……ビバークだな」
やがて、ある程度進んだところでぽつりと杉山が呟く。彼は八木山の異変に目敏く気付いた。
「マジで? やっぱりウチが行けば良かったかな」
八木山の様子がおかしいのだろうと察したえべたんが顔を曇らせて言う。
「いや、むしろ今でちょうどいいんじゃないか? この先で倒れたらシャレにならない事態になっていたかもしれない」
そう言って杉山は八木山の肩を叩いた。
「そういうことだから聞き分けろ」
「……はぁ」
立ち止まった八木山は肩を落として杉山を振り返った。
いつもより青い顔をしていた。
「すまん」
神妙になって謝る八木山。
「でもよく気付いたな」
「呼吸が乱れていたからな」
「格闘家っぽいな、それ」
八木山が小さく笑う。
「元格闘家だからな」
にやりと口角を上げる杉山。
「頭痛する?」
穂高が尋ねると八木山はうなずいた。
「典型的な高山病だと思う」
「前回も皆して患ったわね」
「そういえばそうだったなぁ」
思い出し、穂高と八木山は二人して苦笑した。
「テントは私達で準備する。八木山は休んでろ。あずあずは看ててくれ」
杉山が言う。
「頼む」
「分かったわ」