抗う者達⑩ 目を覚ますと、ライトグリーンのぼやけた天井が志海の視界に映し出された。
天井だ。眼鏡がないのではっきりとは見えないが、間違いなく天井である。
灰色の空でも、
黒い洞窟でもなく、
屋内の、天井。
「っ……」
ここは、と呟こうとして声が出なかった。まるで喉の壁面がくっついてしまったかのようだ。
周りを見回そうとして、首が満足に動かせないことにも気付く。それどころか、体自体が動かない。錆び付いてしまった機械のように軋む。力が入らない。
目は? 目は動く。まばたきもする。
呼吸もできる。
首。あ、なんとか動きますね。ゆっくりと、少しずつ。
狭い部屋だった。ベッド一つと、椅子と、小さな棚。まるで病院の個室だ。もしかして本当に病院だろうか?
窓がある。丸い。丸い? 二重に填められた丸くて厚い窓。まるで船室じゃないですか。あ、揺れてる。
じゃぁ、ここは船? 船の、医務室?
志海は内心で首をかしげた。なぜ自分は船にいるのだろう?
──狂気山脈にいたはずなのに。
折れた足をひきずって雪の中をさまよっていたはずなのに。
下山するために。
……そう、志海は下山しようとしていた。
迫り来る岩肌に激突し、生きたと思った。生ききったと思った。
だが生き残ってしまった。生き残ってしまったのなら、別の場所へ生きにいかなければならない。志海はずっとそうして生きてきた。だから志海は下山しようとした。
それから、記憶がない。何かを聞いたような気がする。何かを見たような気がする。何かを、知ったような気がする。
だがもう思い出せなかった。自分の中にヒントとなる断片すら存在しなかった。
気付いたら、ここにいた。ここで目を覚ました。
何故? どうやって──
「目を覚ましたか、志海」
「!」
近くから声をかけられた。目を向ける。誰かいた。気付かなかった。
眼鏡がないので顔はぼやけてよく見えない。黒い髪の男だ。長い、黒髪の……
「 」
八木山先生。唇は動いたが、音にはならなかった。
八木山は苦笑した。
「満身創痍だったんだ。しばらくは自由に動けないぞ」
どうして貴方がここにいるんですか。僕はどうしてここにいるんです。……尋ねたいが、声が出なくてもどかしい。
「まぁ、待て。まずは水を飲むといい」
八木山は棚の上にあった水差しを手にし、志海の頭を持ち上げて口元へと傾ける。
ぬるい水が口の中に入り、喉へ流れ込んでくる。
こくり。飲み込んだ。飲み込むことができた。
八木山は口からあふれないよう細心の注意を払いながら、志海に水を飲ませる。
「こんなもんか」
ありがとうございますと言うべきなのだろうが、どうせ言えないので志海は早々に諦めた。
「お前を捜しにな、狂気山脈に戻ったんだ」
徹心と、えべたんと、梓さんと、四人で。八木山が説明する。あずさ?
「お前のことが気になって眠れなかったから、コージーに頼んでネオステリクスに支援してもらって」
ネオステリクス? って、あのブランドの? ……コージーって誰だっけ?
っていうか。志海はため息をついた。わざわざ捜しに戻ったんですか。本当にめんどくさい人だな、と思った。
八木山は笑う。
「お前はそんなこと望んじゃいなかっただろうけどな。悪いが、お前の都合なんて俺の知ったことじゃないんでね。……お前にとって俺達のことなんかどうでもいいのと同様に」
「……」
そう言われると何も言い返せない。わずらわしいけれど、八木山の自由は八木山のものである。自分の人生が自分のものであるのと同様に。
しかし、それにしたって馬鹿だな、と志海は思った。狂気山脈の危険性は散々思い知らされたはずだというのに、登山家でもない男がそれでも再び自分を捜しに登り返すなんて。何かあったらこれほど虚しいことはないのではないか。
……だというのに。
分かってはいる。そういう男なのだ、八木山という人間は。分かりたくもなかったけれど、それなりに時間を共有したから知ってしまう。
「…… 」
馬鹿ですね、と唇を動かした。
「うるさい」
ぎゅむっと鼻をつままれた。頭を振って払う。八木山は笑った。
「他の皆も心配しているからな、呼んでくる」
「 」
いらないです。
「知らん」
ははっと笑いながらベッドを離れる八木山。
「……っ、」
その体がふいに止まる。
「?」
そのまま八木山はうつむき、胸を押さえ、ゆっくりと崩れていく。
「 ?」
八木山先生? 志海は無理矢理上体と腕に力を入れてわずかに浮かせた。明らかに八木山の様子がおかしい。
「ぅ、」
しかしとたんに胸に痛みが走り、ベッドに沈む。どうやら肋骨を痛めているようだ。そういえば手足の末端も熱い。
一方、八木山は膝をつく。
やがて。
どさりと彼は床に倒れた。
志海の位置からは死角になって見えない。
「ゃ……ま……せん……ぃ」
これは、マズイのではないか。振り絞るように声を出して呼びかける。
「やぎ、ま、せんせ、い」
八木山に答える様子はない。動く気配もない。
あ、マズイ。
これは、マズイ。
「やぎや、ま、せん、せ、やぎやま、さん、」
繰り返しながら、痛む体に動けと命じる。
動かない。
汗が湧く。急激に体力を消耗するばかりで、体は全く答えてくれない。
「──だれ、か……だれか」
気付けば助けを求めていた。頭の中で死が渦巻く。体の芯が冷えていく。……誰かの影が脳裏をよぎる。
駄目だ、このままでは、
また──
「志海サン、どうしたの!?」
えべたんが部屋の中に飛び込んできた。その後ろには杉山もいた。
すぐに床の八木山に気付き、部屋の外に叫ぶ。
「梓ちゃん、AED!!」
隣の部屋から慌ただしく扉が開く音がして、間もなくAEDを手にした女性が飛び込んできた。
杉山が八木山の服を脱がせ、鮮やかなほど手早く心肺蘇生の準備がなされる。
えべたんが志海の体を支えて起こした。ベッドの下の八木山が見えた。
青白い顔で、眠るように横たわっていた。床に広がる黒く長い髪が不吉さを誘う。
「八木山君、ここで死んじゃ駄目」
AEDのアナウンスの中、女性が険しい顔で呼びかけた。
「ヤギ、起きろ、せっかく三郎を連れ戻したんだぞ」
杉山も言う。
「……やぎサン……」
えべたんの、彼女に不釣り合いな、不安げな声が志海の耳を打つ。肩を掴む手に力がこもった。
一回目の刺激。目を覚まさない。
「八木山君」
「ヤギ」
「やぎサン」
祈りのような呼びかけである。無理もないだろう、今目前にしているのは人の死なのだ。
「……」
志海は、何故、と何かに対し悪態をついた。
死ぬなら、八木山ではなく、自分であったはずだ。そうでなければならなかった。
それなのに。
何故、こんなことに。
なんで。
なんで、こんな。
こんな、虚しいことに、なんで──なんでまた、
俺じゃないんだ!!