今夜、叶う。 まるで白い絨毯のような雪の上を草履で歩く。
頭上では粉雪が舞い、風に吹かれては丁呂介の頭や肩に降りた。指で払えば瞬く間に溶けてしまうほど繊細でやわらかいが、こうも降られると払っても払っても埒が明かない。まったく、新年早々よく降る。
ふと後ろを振り返ると、雪の上に灰色をした丁呂介の足跡が浮かんでいた。視界の奥の方からこちらに向かって、丁呂介を追い掛けるように俵型の足跡が等間隔に並んでいる。
「――はぁっ…寒…」
手袋をしているとはいえ、手先がかじかんで痛いほどだった。厚手の手袋の上から息を吹き掛けると、目の前が白くけむる。冷気の影響か、心なしか呼吸がしにくい気もする。苛立ちを散らすように雪を踏みしめ、とにかく前へ前へと進む。
それなりに逞しく生きてきた自覚はあるが、元日に大雪のなかを歩く羽目になるとは思いもみなかった。足が重い。耳も痛い。頬が冷たい。あれもこれもどれもすべて、あの男のせいに他ならない。
雪を踏むたびに足元から、キュッキュッと乾いた音が響いた。
大雪で立ち往生している、と大蔵から連絡が入ったのは一時間ほど前のことだった。
神社にお参りをするため、事前にタクシーを予約をしておいたのだ。支度をしている最中に大蔵から直々に電話が入り、「時間通りに迎えに行けないかも」と申し訳なさそうな声がする。聞くところによると、前方を走る車のタイヤが溝にはまり、大蔵のタクシーも巻き込まれたという。
「一車線だからすっごい渋滞しちゃって。この様子じゃあ暫く動けないかも」
俺待ってるより他のタクシー捕まえた方が早いかもよ、と言われ、咄嗟に「大丈夫です」と答えてしまった。何が「大丈夫」なんだか。神社へ行く時間が決まっているわけではないから気にしなくて良い、といったようなことを伝えると、大蔵が「あ、そ」と短く言った。そのタイミングで、かこん、と硬貨を投入する音が聞こえる。
「てかさぁ、こんだけ降るなんて予想出来ないじゃん。まったく、参っちゃうよねぇ」
天気に文句は言えないが、妙に堂々とした態度が癪に障る。とはいえ確かに、大蔵が悪いわけではない。
「………まあ、仕方ないですね。無理して事故に遭われても困りますし。…ところで、今どこから電話を?」
巻き込まれた、なんて物騒な言い方をするから少し心配したが、元気そうで良かった。大蔵には聞こえない程度に息を吐いて、声色を整える。
「いまぁ? バス停んとこの公衆電話、分かる? 俺あんま小銭持ってなくてさぁ。そろそろ切れるかもしんない」
ゆったりとした声に交じるように、ザッザッと除雪音と人の話し声が聞こえてきた。雑音によって大蔵の声がかさついてもいる。少しでもクリアに聞こえるように、ほとんど無意識に受話器を耳に強く押し当てると、息遣いやリップ音が鼓膜に響いた。
「ジャフ呼んだって言ってた。寒いし早く来て欲しいんだけど」
「…そうですか。うちに来られるのは何時ごろになりますかね」
「う~ん、どうだろ。また連絡するよ。あ~さみぃ…あっそうだ、丁呂介さ―――…」
プツッ、と会話の途中で通話が途切れたかと思うと、大蔵の声が聞こえなくなった。あまりの呆気なさに、暫し茫然とする。
「………大蔵さん?」
「――プー…――プー…――プー…」
「………嘘でしょ」
すぐに受話器を置き、三分ほど大蔵からの連絡を待ってみたが、電話が鳴ることはなかった。
名前を呼んだきり、一方的に電話を切るなんて。なんて悪い人でしょう。
これでは、あなたに会えるまで、あなたのことを考えてしまうじゃないか。
一時間経っても大蔵は迎えに来なかった。連絡も絶たれた状態では、丁呂介も動くに動けない。心を落ち着かるために茶を淹れてみたが、一向に減らず、湯呑のなかで冷たくなっている。
居ても立っても居られず、いつでも出られるようにと羽織りに袖を通して松葉色のマフラーを首に巻いた。玄関の上がり框に腰掛け大蔵を待つ。この光景を見たら人はなんて言うだろう。さしずめ飼い主の帰りを待つ気まぐれな猫? 一度、あかつか交通に電話を入れてみたが、雪の影響で手一杯なのか、全く繋がらない。
このまま待つ? どうする? 心のなかで自問する。
ときおり吹く風により、玄関の戸がばたばたと音を立てた。雪の結晶がガラスに張り付いている。空は晴れているが、雪は止む気配がなかった。
大蔵は大丈夫なのか。そもそも生きているのか。時計の針が進めば進むほど、不安と焦りも次第に募っていく。
「………連絡するって言ったじゃないですか」
まるで置いてけぼりをくらった子どもみたいな独り言が漏れた。座ったまま蹲り、草履の爪先を眺めていると、外から足音が近付いていることに気付いた。まさか大蔵? 弾かれたように顔を上げたが、ガラスに映る人影はどうみたって女性。近所に住む、華道教室の生徒だった。
「――あらぁ、緑土さん。あけましておめでとうございます。今年もどうぞよろしくお願いします。…これ、お煮しめなんだけど、作りすぎちゃって」
深々とお辞儀をしたあとに、小ぶりの重箱を手渡される。お口に合うと良いんだけど、と呟きながら、肩の雪を払うので、慌てて玄関に招き入れた。
「こちらこそよろしくお願い致します。なにもこんな雪の日に…。お煮しめ、好物なので有難く頂きますね。どうぞ中へ入って、お茶でも淹れますから」
片手でマフラーを外そうとしたら、やんわりと断られる。
「良いの良いのお構いなく。緑土さん、これから出掛けるところでしょう? 良い色のマフラーね」
「あ、えっと、そういうわけでは…」
「あらそう? 戸を開けるのも早かったし、ちょうど出掛けるところなのかと…。それにしても凄い雪ね。気を付けてくださいね。さっき、崩落があったみたいですよ」
崩落、と聞いて声が裏返る。急に心臓が激しく波打ち出した。
「…ほ、崩落?」
「ええ、どこだったかしら。近所のおじいちゃんが言ってたの。――えっと確か、バス停のあたり? 雪で屋根が潰れたとか――」
場所を聞いて、瞬く間に自分の顔が青ざめていくのが分かった。重箱を落とさないよう、両手で胸に抱え、視線を彷徨わせていると、大丈夫かと心配された。
「…顔色が悪いみたいだけど。お出掛け、やめておいた方が良いんじゃないかしら」
「………出来ることなら私もそうしたいんですが」
「え?」
「いえ、すみません。こちらの話です」
二言、三言言葉を交わして、女性を見送った。重箱を台所に持っていき、玄関に舞い戻る。自分でも驚くほど、妙に冷静だった。
――あの馬鹿、大馬鹿者、馬鹿馬鹿馬鹿。
心の中だけで言い募り、もう一度自問。
放っておく? 助ける?
一人きりの玄関、マフラーを巻き直し、深く呼吸をする。
「………とりあえず、探し出して、ぶん殴ります」
吹雪とまではいかないが、外ではしんしんと雪が降り続いている。
歩くたびに白い雪の上に足跡が出来るが、次から次へと雪が降り積もるので、すぐに足跡は隠れてしまうだろう。
村のあちらこちらでは、雪かきをしたり、屋根の雪を下ろしたりする人で溢れていた。門前の門松も雪が積もっている。丁呂介に気付き新年の挨拶をしてくれる村人たちに応えつつ、バス停を目指した。
バス停の近くまで行くと大勢の人が集まっていた。パトカーや救急車も駆けつけているようで、丁呂介が想像していたよりも大事になっている。一気に緊張感が増した。歩きにくい雪の上を滑るようにして走り、野次馬と喧騒をかき分けて進む。
崩落と聞いて焦ったが、幸いにも怪我人はいないらしい。村人の噂話に聞き耳を立てつつ視線を巡らせると、すぐに大蔵のタクシーが見つかった。雪が積もってはいるが、故障しているようには見えない。すぐ近くには溝にはまったとみられる軽自動車の姿もあった。大蔵が使用したであろう公衆電話を一瞥してから、肝心のドライバーを探した。
大蔵はどこにいるのか。もしかして病院? 探すのに時間が掛かるかもしれない、と思ったのも束の間、後ろから名前を呼ばれ、さすがに驚く。
「――丁呂介さん」
慌てて振り返ると、視線の先に鼻先を赤くした大蔵がいた。憎たらしいほど平然と笑っていたので拍子抜けする。さらには、何してんの、なんて手を振る始末。まさか探し人の方から出向いてくれるとは。喧騒と雪と目の前にある屈託のない笑みとのギャップに混乱すらする。
「…何してんの、って、途中で電話が切れるから…」
心配で、とまで言えるほど素直にはなれなかったので口ごもると、動揺を受け取ったのか、大蔵が「心配しちゃった?」とおどけるように言った。さすがにかちんときた。
「………とりあえず、殴らせてください」
「え? 嘘、いきなり?」
「ええ。十発ほど」
「多くない? いや、ちょっと待ってよ」
後ずさる大蔵を追いかけて腕を掴む。いつになく大蔵が狼狽えるので不思議に思い、足もとを見ると、足を庇うようにしていたので全てを悟った。
「………右足ですか、左足ですか?」
「………え? なに?」
「とぼけなくて良いです。怪我したんでしょう」
「いや? え? それはぁ…右、かなぁ?」
その場にしゃがみ込み、大蔵の右足の甲に積もった雪を払った。
「………ごめんね、連絡出来なくて」
頭上から聞いたこともないような優しい声が降ってきて泣きたくなった。これでもかというくらいに眉を寄せて見上げ、あかんべえをする。舌の上に雪が落ちた。冷たい雪が口の中で溶けていく。
「………そんな顔もすんの?」
堪んないんだけど、と呟く声はあえて無視をする。視界に映る大蔵の面食らった顔。ざまあみろと思った。丁呂介の頭に積もる雪を払う、その手つきが甘くて、悔しい。
「…私は大事なお客さんですよ。連絡くらいしなさい」
「…うん、ごめん。小銭なくてさ。事務所も無線繋がんないし」
よく見れば大蔵の唇が青くなっていた。ガソリンを使ってガス欠になるのを恐れ、外で待っていたらしい。誰かを庇っての怪我かと思いきや、雪に足を取られて転倒したとのこと。紛うことなき自滅。なんだかもう、気が抜けてしまう。
「………とりあえず病院行きますか?」
「あ、それは大丈夫。さっき手当してもらったから」
大蔵が指差した方を見ると、即席の救護室なのか簡易のテントが張られていた。警察や救護服を着た人々が忙しなく動いている。
「…新年早々、とんだ災難ですね」
労うように呟く。
「ほんとにね。――あ、神社、どうする?」
「ああ、もう今日でなくても良いですよ。雪も降ってますし。あなた運転出来ないでしょう」
「う~ん、やってみないと分かんないけど」
まわりの様子を見るからに、そろそろ渋滞が緩和されるらしい。立ち上がり伸びをしてから、大蔵に視線を合わせる。
「…私、運転しましょうか?」
「まじ? 運転してくれんの? サンキュー! ………………って、え?」
なんですか、その間。それからなんですか、その訝しげな顔。
「…ねえ、ほんとにぃ? 俺大丈夫だけど」
「遠慮しなくて良いですから。私、これでも運転得意なんです」
「………信じられない」
「まあ、見てなさい」
助手席に座る大蔵を見るのは不思議な気分だった。最初は顔を引き攣らせていたが、タクシーを発車させ、暫く走った頃にはいくぶん安心した様子だった。
「………予想してたよりも安全運転」
「それ褒めてます?」
「超、褒めてる。――あ、やっぱ神社行こうよ。ここ右折すると近道だよ」
「…歩けますか?」
「無理だったらおんぶして」
「却下」
「ああ、嘘、嘘だってぇ。ちゃんと歩けるから」
だから俺と初詣しようよ、と助手席で甘える。丁呂介のハンドルさばきに安心したのか、背もたれに体重を預けたことが空気で伝わってきたので、感動すらした。
「………本当に初詣ですか?」
「ほんとだって。昨日仕事終わって酒飲んで寝ちゃったしぃ。でも、丁呂介さんと行けたら良いなって思ってたよ」
すぐ調子の良いことを言う。簡単に高鳴る自分の心臓にも喝を入れたい。
「ほんとだよ」
照れくさそうにほほ笑むその顔が妙に艶っぽくて、咳払いで誤魔化した。
いつもは大蔵が握るハンドルを指で撫で、アクセルを踏む。助手席と運転席では、見える景色が違う。
図らずも訪れた大蔵との初詣は、雪が降る元日だった。
神社の駐車場にタクシーを停め、先に降りて助手席のドアを開けると、大蔵が目を瞬かせていた。俺よりスマートなことしないんでくんない? と困ったように言う。知ったことか。
鳥居をくぐり、大蔵の速度に合わせて砂利道を歩く。羽織りに落ちた雪を何度か払い、空を見上げた。頭上から舞い落ちる雪。陽光と反射してきらきらと煌めく。
「人、少ないね」
「雪ですからね」
「あ~、さみぃ。丁呂介さん寒くないの?」
「寒いですよ。誰かさんのせいで歩いて来たんですから」
「…ごめんってぇ」
暖を取るようにどちらからともなく寄り添って歩いた。腕を振るたびに手袋同士が擦れる。どきどきした。それはもう、堪らなく。
「………そういえば先ほど、電話で何か言い掛けてましたよね。何だったんです?」
視線を合わせてから逸らし、また合わせると、大蔵がこくんと唾を飲み込んだ。上下する喉仏が色っぽくて、じっと見入ってしまう。大蔵が喋るたびに動き、妙な気持ちになる。
「さっき? 電話? なんだっけ?」
思い返すように大蔵が空を見上げた。マフラーを巻いていないから、大蔵の首元が寒そうで、温めてあげたいとしんから思う。雪のおかげかいつもに増して神社の空気が澄んでいて、五感が研ぎ澄まされていく感覚がする。大蔵の瞬きの音も、こんなんも近くに聞こえる。
雪の中に隠れていた小枝を踏んだ瞬間、大蔵が指を鳴らした。
「ああ、思い出した」
立ち止まって、無理やり視線を合わしてくる。大蔵の手が伸びてきたかと思うと、前髪にかかった雪を払われた。綺麗だね、と紡ぐ唇の動きが、まるでスローモーションみたいで。
「………あけましておめでとう、だ」
一瞬なんのことか分からなかった。すぐに丁呂介の質問の答えだということに気付く。
「…あけましておめでとう?」
「うん。電話したとき。そいや言ってなかったなって思って」
「…それだけ?」
「それだけって、そうだけど? なんだよ、期待外れみたいな顔して」
「…別に、期待外れだなんて、思ってないですけど」
自分の声がどんどんとかぼそくなっていった。対照的に大蔵は嬉しそうだ。ふっと笑って、丁呂介のマフラーを巻き直す。少し意地悪で、大人びているのにあどけなくて、それでいて優しい顔で。
「もっと熱烈な何かのほうが良かった?」
「…熱烈ってなんですか」
「う~ん、絶対会いに行くから、とか?」
「仕事なんだからそこは来なさいよ」
「…ふは、ほんっと、つれないね」
くつくつと笑う大蔵は、なぜだか幸せそうにしている。何をお願いするの、と聞くので、ひとまずはあなたの足が良くなるように、と答える。
「…へえ、俺のこと願ってくれるんだ」
「………間違えました」
「もう聞いちゃったもんねぇ」
墓穴を掘った。したり顔が余計に腹立たしい。
愛しいくらいに。
「………あなたは、何を願うんですか」
苛立ちを詰め込んだ声色で尋ねると、大蔵がうーんと熟考する素振りを見せる。
「…一攫千金? 競馬で大儲け? 億万長者ってのもありだけど、とりあえずはまあ、気付いてくれますように、かな」
前者に比べるとあまりにもささやかな願いだった。
「…どういう意味ですか?」
「まさしく、今の状況だね」
お手上げ状態のように両の手のひらを空に向けて、肩をすくめる。早くお参りしよう、と歩き始めた大蔵を追い掛けて隣に並んだ。
「…まったく、あなたのおかげで忘れられない年明けになりましたよ」
思い返せば新しい年が明けてからずっと、大蔵のことを考えている気がする。恨みがましいような気持ちでその脇腹を突くと、大蔵が甘い顔と声で笑う。なぜだか涙腺が崩壊してしまいそうだった。
「…じゃあ、来年も一緒に過ごす?」
「…じゃあ、って何ですか」
「…来年も、きっと忘れられない年明けにしてあげるよ」
はあ、とぞんざいにため息を吐く。まずはその足を治してから言いなさいよ。
でもちょっと、良いかも、とは言葉にはしない。
薄い水色の空が輝いている。神前が近付く。頬も冷たく息も苦しいが、二人だから平気。
とりあえずは――。
「…大蔵さん、明けましておめでとうございます」
「うん」
「よい年にしましょう。あなたも、私も」
「うん、そうだね」
大蔵の願いが叶うのは、もしかしたら今夜かもしれない。