【ゼン蛍+カーヴェ】とある建築家の憂慮 自分の背丈を優に超える幅広の書棚、行儀よく整列した書物の数々。居候先とまではいかないが、壁と通路にいくつか鎮座するそれらが、この場所を立派な知恵の部屋たらしめていた。
「すごいな。個人でこれほどの資料を集めるのは、大変だったろう?」
「私ひとりの力じゃないよ。……でも、ありがとう」
自慢の書庫なんだ、と胸を張る少女はどこか誇らしげに見える。
洞天への誘いを受けてから、まだほんの数日。広大な敷地のどこに何があるかまだ把握できていないカーヴェは、蛍に案内されながら各所を見て回っていた。外から内へ、玄関からリビングへ。動線に沿いながら進んでいき、最後に奥まった場所にあるこの書庫へと通された。
「カーヴェは、読書好き?」
「嫌いではないよ。ただ、仕事に必要なこと以外ではあまり読まないな。君は?」
「私は好き。……そんなに時間は取れないけど」
困ったように笑う蛍に、さもありなんと苦笑を返す。各地を旅する彼女は冒険者としても忙しく活動しており、そのうえ顔が広くて色んな場所からお声がかかるというのだから、腰を落ち着けてゆっくり読書というのは少し難しいのかもしれない。
「忙しいのは評価されている証拠じゃないか。それに、閉じこもり過ぎるのも良くない。アルハイゼンみたいな本の虫になってしまうぞ」
「……本の虫」
「あ……っと、す、すまない。気を悪くしたかい?」
恋人の悪口を言われたら、誰だって良い気持ちにはならないはずだ。失言だったかとあわてて顔色をうかがうも、目の前の少女は不機嫌になるでもなく、平然として……いや、ほんのわずかに、唇をむずむずと緩ませていた。
「違うの。アルハイゼンに、……本の虫って表現が」
なんだか可愛いなって。
「………………」
控えめに放たれた言葉にどう反応を返せばいいか分からない。自分はあの嫌味ったらしい後輩に可愛い要素をちっとも見い出せないからだ。恐らく到底理解できないビジョンが見えているのだろう、彼女には。
(……アルハイゼンめ……)
行き場のない感情をここにいない男に思い切りぶつけつつ、はあ、と息を吐き出す。筋骨隆々で無愛想、口からは正論と皮肉ばかりが飛び出す可愛げの欠片もない男を、よりにもよって「可愛い」だなんて。
――恋とは、かくもおそろしい。
「スメール以外の国の建築資料もあるけど、見る?」
「あ、ああ! 是非!」
若干の居たたまれなさを感じていたカーヴェにとって都合のよすぎる提案に、一も二もなく同意した。遠ざかっていく後ろ姿を見送った途端、妙な疲労感に襲われ、がくりと頭を垂れる。このむず痒い空気はどうにも慣れない。彼女の相手があの同居人ならば尚更だし、そもそもアルハイゼンが恋をしたということ自体、自分は未だに信じ難いというのに。
「……ん?」
ふと、低くなった視界に飛び込んできた一冊の本を引き抜いて、パラパラとページを捲る。飾り気のない装丁のどこにでもある学術本だが、謎の既視感を覚えてカーヴェは頭を捻った。タイトルも中身も己の興味をそそるものではないのだが、はたしてどこで見たんだったか。
「お待たせ。……何かあった?」
「いや、その。この本なんだけど」
戻ってきた蛍に見覚えがあることを伝えれば、「そうかもね」と意味深な答えが返ってきた。
「元はアルハイゼンのものだから」
「……え?」
驚くと同時に「読み終わった本をいい加減に片付けろ!」と何度もせっついた記憶が蘇る。積み上げた大量の本の山、そのうちの一冊がこれだったのかもしれない。改めて周囲を見渡すと、あれもこれも見たことがあるようなタイトルと背表紙で、その全てがアルハイゼンの所持品だったと窺える。
(……あいつ……!!)
要らない本を恋人に押し付けるなんて、一体どういう神経をしてるんだ。今すぐ問い詰めたい気持ちに駆られるが、当の本人はやはり不在で、カーヴェの苛立ちは更に募った。
「……迷惑じゃ、ないかい? 言いづらいなら、僕からあいつに伝えようか」
引き攣りそうな顔で懸命に笑顔を作る。憤りが極力表に出ないよう努めながら問いかければ、大きな瞳がぱちぱちと瞬いた。
「ありがとう。でも、気にしないで。蔵書が充実するのは嬉しいし」
「……本当かい?」
遠慮してはいないだろうか。奴の傍若無人な我儘ぶりに、彼女も振り回されているのでは? もしそうなら僕がビシッと言ってやるぞと内心拳を握ったカーヴェに、蛍はふわりと微笑んだ。
やわく細められた瞳が、煮詰めた蜜の甘さを纏う。
「……アルハイゼンにも、会えるし」
だから、いいの。
噛みしめるような声が、静かな書庫に霧散していく。
「……………………」
特大級の惚気を直に浴び、カーヴェは熱くなる顔を手で覆った。こちらの反応で自覚したのか、「……ごめん……」と蛍が力無くこぼす。指の隙間から見えた顔は、気の毒なほど赤らんでいた。
(……? 待てよ?)
考えてみたら、不要な本は教令院に持って行くのが通例だったはずだ。勤務先で、尚且つそう遠くない場所に居を構えているのだから、持ち込むのも大した手間にはならない。
なのにわざわざ納め先を変更したのは、その方が都合がいいからだろう。本の譲渡は蛍にとっても得になるし、事前に伝えれば蛍は洞天を留守にしない。確実に逢瀬の時間を作ることが可能になるというわけだ。
(…………はあ〜〜〜〜)
心の中で盛大にため息をつく。カーヴェがこのことに気づいた以上、今後アルハイゼンがどれだけ本を溜め込んでも強く意見できなくなる。こうなることまで折り込み済みだったのではと、頭を抱えたくなった。
「……蛍」
すっかり赤みの引いた顔で、未だに頬を火照らせた少女を見る。
「アルハイゼンのことで困ったら、いつでも相談してくれ。力になるから」
「え? う、うん?」
「僕は、君の味方だからな」
周到で抜け目のない、自己中心的な人間。恋人だけに見せる顔もあるのだろうが、カーヴェにとってのアルハイゼンはそういう男で、これからも変わらない。
――僕がちゃんと見ていないと。
何かを決意したように言い募るカーヴェに、蛍は曖昧に頷くしかなかった。