【水無月】 焼けたばかりの香ばしいパンの匂いと、香しいコーヒーの匂いに囲まれて、地元のFM放送が控えめに流れてくる。晴れた日には燦燦と陽射しが降り注ぐテーブル席と、奥まった場所に数席のカウンター。合せても両手足で事足りる客席のこの店は、販売がメインで、飲食コーナーは焼きたてを食べたい常連客の要望で出来上がったらしい。短時間で軽食を済まして席を立つ営業マンもいれば、パソコンを開いてそのまま仕事をしているスーツ姿も見受けられる。おしゃれと言うには、物足りないのだろうが、私には不要な要素だし、美味しくて好きに時間を過ごせるパン屋なので、気に入っている店のひとつだ。当然、パンの味はどれもいい。
音を立てて降り出した雨に、パソコンもあるしもう暫くここで仕事をしようと鞄を手元に引き寄せた。
「ひっどい雨だな」
「だから傘がいるって言っただろう」
「朝は晴れてたじゃん」
「ゲリラ豪雨なんて、往々にしてそんなものだよ」
聞き覚えのある声に、思わず顔を背けたが、狭い店内だ。
「あれ、七海。どうしたの、こんなところで」
能天気に店内に響く声に、顔を顰めて返事はせず、代わりにため息が出た。
こちらの態度にはお構いなしで、空いている隣のスツールに腰を下ろされた。
「七海もごはん」
「人のテリトリー、荒らさないでください」
「七海のテリトリーなんて知らないよ。どれ、おいしいの」
「どれもおいしいから常連なんですよ」
「だって。傑は何にする」
再び席を立って店内を眺めはじめた。せっかく静かだったのにあの人と一緒にごはんとか、勘弁して欲しい。定時で終わる予定だった仕事に危うさが伴い始める。
肩を並べてパンを選ぶふたりは、大雨の中を入ってきたわりに、殆ど濡れることなくさっぱりとしたものだ。
来なくてもいいのに、再び隣に並んで座る五条さんの隣に、当然のように夏油さんも腰を下ろした。
「お昼だし、雨宿りもできて、丁度よかったよ」
「あなたは別に、雨宿りとか、必要ないでしょう」
「僕はねー。でも、傑もいるし」
「だから私は傘を取りにいくって言ったのに、悟が勝手に行っちゃうからだろ」
そう言いながら、五条さんの取り皿に、ふたつ入りの卵サンドをひとつ乗せている。喧嘩しているのか、世話を焼くのか、どちらかにして欲しい。
「マンゴーサンド、傑も食べたい」
「私はいいいよ。あっ、でも少しは気になるな」
「それじゃ、はい」
右隣に体を向けて、手にしたサンドイッチをそのまま隣の口元に差し向けると、夏油さんのさらりと長い髪が流れて、サンドイッチが隠れた。
「おいしいね、これ」
「だろ。さっきのパインも甘酸っぱくてうまかったけど、マンゴーのとろっとした甘さの方が生クリームにあってる」
わかっていたけれど、フルーツサンドはごはんじゃないです、五条さん。
「卵も食べなよ。ツナもあるけど」
「食べる。今食べてるのもうまそう」
「ああ、生ハムとアボガドだけど」
あーんと開けた口許にサンドイッチを寄せると、ぱくりと唇を這わせた。雛の餌付けじゃあるまいし。
「夏油さんが濡れるからって理由にしても、降られていないようですね」
「んっ、ああ。俺が手、繋いでたし」
傑、と呼び掛けて掌を差し向けると、その上に夏油さんが掌を重ねた。そのまま、するりと指を絡めて手を繋ぐ。いや、再現してくれなくてもいいし、何故、指まで絡める必要があるのか。
「だけど、傑が手を繋いでいるも、大雨なのに傘も差さず濡れてもいないのは目立つからって言うからさ」
「当然です」
「別に僕はさ」
「ほら、七海だってこう言っているだろう」
「まあ、おいしいマンゴーサンド、食べられたからいいけど。また来ような」
頬を緩めてご満悦な様子に、思わずため息をついた。
「私のテリトリーを荒らさないでください」