【漆黒】 君の声 胸糞悪い。
日付が変わるころに用意されたビジネスホテルに辿り着き、そのままバスルームに駆け込んだ。いくら洗っても拭いきれない汚れは、一級には一歩届かない呪霊の吐瀉物でもなく、己の汗や血ですらない。恍惚とでも言うような意思すらない笑顔を張りつけ、敬意と祈り、そして恐れを綯い交ぜにした信仰という名の狂気を抱いた人の群れから発せられた醜悪なまでの、まじないだ。
いくらシャワーを浴びても温まる気配を見せず、冷えて薄汚れた体を熱いぐらいのお湯を落としたバスタブに横たわらせた。私を信用してこの任務を寄越したわけではなく、ただ単に手が空いていた上に、呪霊の強さと相性、嫌がらせも兼ねてだろう。それでもこんな案件、悟に任せるぐらいなら私にお鉢を回される方が、よっぽどマシだ。シャワーを止めれば水音の代わりに聞こえる、いつ止むとも知れぬ虫の鳴き声が哀愁を誘い、人恋しさを募らせる。否、人恋しさではなく、悟が恋しいだけか。
そう思えば、意識的に追い出していた悟の影が脳裏に、形を伴って浮かび上がる。快く思わない私ひとりの遠出の任務に、それでも一緒に行くとは言えない事は百も承知で、だからこそ不機嫌そうな態度と、気遣わしげに揺れる瞳を思い出した。狭いユニットバスには窓すらなく、悟の澄んだ空のような瞳につられ、深夜でも空を見上げたくなって風呂から上がった。
互いに擦れ違いになることも多く、常に一緒にいられるわけではない。それでも、一度思い出せば、際限なく悟の姿は瞼の裏に浮かび上がる。
「ちゃんと食べて寝ろよ」
「早く帰ってこいよ」
「ムカつくことあったら、電話しろよ。何にもなくても、寝る前ぐらい、連絡寄越せよ」
煩いぐらいに構われて、いってらっしゃいと抱き締められたぬくもりを思い出せば、どうしようもない。
風呂上がりでも空調が弱い室内に体が冷えていく。それ以上に、ぽっかりと開いた夜の静寂に落ちていくように、焦燥感に駆られていく。
悟に逢いたい。
悟の隣にいたい。
悟の声を聴きたい。
悟のぬくもりに触れたい。
ひとりはさみしいね、悟。
ショートスリーパーとは言え、今ごろ眠りに着いた頃だろうか。それとも、溜め込んでいた提出書を片付けているだろうか。
煙草を吸う余裕すらなくて、窓越しに見上げた小さな空は作り物めいて、悟の瞳にはほど遠く、募る寂寥を払拭するなど到底無理で、手元にスマホを引き寄せて、見慣れた画面を呼び出した。
話をするには躊躇いが生じるほどに、自分に余裕がなくて、確認した時刻を言い訳に既読になるなと念じながらラインだけを送った。
『おつかれ』
ただ、その、何でもない、ひと言だけを。
それなのに。
念じた思いはあっさりと無視されたらしい。
すぐについた既読は、そのまま折り返しの通話となって戻ってきた。寝てしまったなんて言えない速さは、出なければ逆に心配させる原因にしかならない。
「傑もおつかれ」
あぁ、悟だ。
澱のように心の奥底に漂う闇を祓うような、やわらかくて耳ざわりの良い優しい声に、やるせない思いを抱え、ひとり佇んでいた場所から、連れ出されたようだった。
「さとる」
「ちゃんと晩飯、食べたかよ」
「少しね」
食べる気なんて、さらさらなかったけれど、そんなコト言えば、お鉢を取られたように説教されるのは目に見えている。
「風呂は」
「あたたまったよ」
「うん、よかった。大事だよ、あったまるのはさ」
「……。 そうだね」
じんわりとあたたまっていく心に、素直に頷いた。多分、そういうことだろうから、悟が言ったことも。
「傑が連絡くれてよかったよ。山になってる報告書、書いても書いても終わんないっつーの。いい加減、やっぱり伊地知に任せればよかったって後悔してたトコでさ。ちょっと気分転換に付き合ってよ」
「うん。ありがと、悟」
「傑、俺の話、聞いてた。ありがと、は俺のせりふだって」
けらけらとてっぺんを過ぎた時刻とは思えない明るさで、私が留守にしていた間の出来事を面白おかしく語ってくれるのを、相槌と突っ込みを入れながら、気が付けば時計の長針が半周する位は、聞き入っていた。
「傑、明日には帰ってくるんだろ」
「帰るよ、悟のところに」
「早く、帰って来いよ」
俄かに滲んだ声色に、それまで私を気遣って自分勝手に喋っている体で話してくれていたのが、僅かに綻びた。それでも、気遣いに気付かぬ振りをすることが、悟への礼儀であり、私ができるほんの些細なことだろう。だからこそ、何気ない様子で揶揄うように告げる。
「さみしんぼかい」
「当たり前だろ」
予想外の肯定に、ワンテンポ、返事をするのがズレた。それならばもう、今夜はいいではないか。
「私も、さみしいよ。早く、悟に逢いたい。顔を見たいし、触れたいよ」
形にすれば実感を伴うから避けていた、溜まっていた本音を言葉にした。
「ふふ、甘ったれだな」
「そうだよ、帰ったら甘やかしてよ」
「今からだよ。今夜はこのまま俺の声聞きながら眠りな。きっといい夢みる」
いいことを思いついたとばかりに得意げな提案は、不穏な夜を休息の時へと変えてくれた。
「ふふ、そうだね。夢の中で悟と逢えそうだ」
闇の中にあって、見惚れるような青空の破片をみつけた。それは繋がった廻戦の先から零れ落ちて煌めき、私を安堵させるには充分な光だ。