【文月】「夏と言えば、海でしょっ! みんなで行くよっ」
たまにはいいこと言うじゃない。いつもハイテンションな担任のひと言に、一緒にテンションが上がった虎杖の横で、ぼそりと伏黒が質問を返した。
「どうやって行くんです」
「えっ、車で行くよ。パンダも行くから、電車は厳しいでしょ」
「俺も行けるんだー」
「えっ、パンダ先輩、水平気なんですか」
「平気だよ」
パンダ先輩、着ぐるみじゃないから、濡れても平気なんだ。
「いや、そこじゃなくて」
仏頂面の伏黒に我関せずな態度を貫いたまま、ひらりと手を振って、当然のように答えた。
「ああ、車は学校持ちのマイクロバスがあるから大丈夫だよー 」
そして当日、真希先輩と買いにいった水着を嬉々として準備し、いつもより早い時刻に集まると予想外の姿に驚きの声が上がった。
「あれ、夏油先生も参加するんですか」
「今日は授業じゃないからね。日下部先生はお休み。代わりに来てくれたんだよ」
「っーか、五条先生も夏油先生も、かっこいいっすね」
言われて見れば、ハーパンに派手なアロハシャツ、足元はビーサンなのに、ファッション誌から抜け出したようなのは見た目のせいか。ただ、どことなく漂うヤカラ感。それをかっこいいで片付ける虎杖の感性も推して知るべしだけど。
燦々と輝く太陽。どこまでも広がるような青い海と空。あちこちで上がる歓声と、海の家から香るおいしそうな匂い。夏本番の気配に、荷物は海の家に置いて、浮き輪を手に波打ち際に走り出した。
「意外にラッシュガードって暑くないんだ」
「海パンだけで海に行こうとする奴なんて、今時いないからな」
「そうかぁ」
「当たり前だろ、真っ赤に焼けて風呂入れないぜ」
呆れた声に、腰を波にさらしながら浮き輪で波に乗ろうとしているふたりを見れば、色違いの見慣れたスポーツメーカーの上着を羽織っていた。
「でも、先生たちは、アレだぜ」
視線の先には波の間に見え隠れする、アロハシャツ姿のふたりがいる。
代わる代わる女の人に声を掛けられては袖に降り、男子に勿体ないと突っ込まれていたが、当人たちはどこ吹く風だ。愛想よく断っても、夏油先生が秋波を送られた途端、何気なく肩やら腰に回す五条先生は、サングラスの奥の瞳は笑っていない。逆に五条先生に向けて声を掛けられれば、さりげなく視線の間に割って入る夏油先生は丁寧だけど、慇懃無礼って言葉を思い出させた。
掛かる声に面倒になったのだろう、生徒の引率という立場はさっさと捨て置いて、自分たちだけで純粋に海を楽しむことにしたのだろう。いいのか、それで。ダメだろう。
「引率とかは、夏油先生がしっかりしてそうなのにな」
ばっしゃっんっっつ
派手な水音と飛沫に振り返れば、乙骨先輩と狗巻先輩が立ち上がった浮き輪から見事に落ちていた。
「っっぅうっわぁぁ。失敗したぁ――」
「なにやってるんですかっ」
「立ち乗りしたら失敗しちゃって」
「しゃけ、しゃけ」
「大丈夫ですか」
頭から落ちて、すっかりびしょびしょのふたりに呆れながら声を掛けた。
「ちょっと水飲んじゃって喉痛いけど、大丈夫」
「しゃけ」
「もう少しで綺麗に立てるんだけどな。あっ、先生たち、海はアロハシャツなんだって。一応ラッシュガードらしいけど」
「へえ、初デートの思い出とか」
「気になるなっ」
好奇心に瞳を輝かせて、悠仁が話に乗ってきた。
「でしょ」
「どうせ、聞かなきゃよかったて思うだけだ」
伏黒も海水に浸かったのだろう、 ぺたりと垂れ下がった髪の間から覗かせた瞳は、浮かない様子だ。
「それはわからないでしょ、行くわよ」
沖に三人で向かうと、波が凪いだ海原は静かで呑気で、退屈なぐらいの穏やかな時間が流れていた。
太陽からの陽射しを惜しみなく浴びて、ひとつの大きな浮き輪に身を預けて、先生たちはぷかりと浮いていた。浮き輪に背中を預けた夏油先生に、背中を預けるようにその腕の中にいる五条先生。
あまりに静謐で、でもそれは、人を寄せ付けなかった。そこだけが、時間の流れも、光の密度も、風向きも、何もかもが違って見えた。
ばしゃばしゃと上げた水飛沫をやめ、三人で目配せをすると、無言で誰が言うでもなく、先輩たちがいる波打ち際まで戻ることにした。
透明な部屋か何かに、ふたりだけで閉じ籠っているような空間だった。ぷかりと浮いて漂う先はどこなのだろう。
ふいに脳裏を掠めたものは、今とは真逆、凍てついた冬に訪れた海だ。鈍色の空とは裏腹に、喋って、笑って、走って、遊び倒した。その時に流れ着いた透明な瓶を見つけたのだ。長旅の末に辿り着いたのであろうその瓶は、存外綺麗で、冬の弱くても角度のきつい光を弾き返して煌めいていた。
手紙の換わりにメモ程度のひと言や、かわいいお菓子の包み紙、文房具の小物なんかを詰め込んで、虎杖が海に向かって投げ込んだ。それは見事な放射線を描き、旅路を祝福するかのように、光を集めて視界から消えた後、波音に混ざって、微かにぽちゃりと海に溶け込んでいった。
あの手紙のような思い出を詰めた小瓶は、今ごろどこを旅しているのだろう。何故だか、浮き輪で漂う先生たちの姿に、その小瓶が重なって見えた。
先生たちの旅の終わりが、私たちがいる学校であったらいいのに。
波打ち際でパンダ先輩と砂の城を作っていた真希さんが、こちらに気がついて大きく手を降っている。負けじと手を振り返せば、指の先には太陽が強い光を放っている。
先生たちも気が済んだら、一緒にお城を作ったらいい。何しろ夏は始まったばかりだ。