二宮さんへ、ダシにしてごめんなさい。【影犬】*影犬短篇集⦅恋に傾熱⦆
「お。」
ガラッと開けた冷蔵庫の中に、一際高級感を放つ真紅の瓶が目に入る。二人の人間が生活している割には随分と空きスペースの多いこの冷蔵庫。おかずはいくつかがポツポツと置かれる程度、飲み物棚の方はポップなラベル付きの炭酸グレープジュースが一本のみと、その隣にあるのが先ほどの子どもが大好きそうな炭酸とは一味も二味も違う、高貴さに満ち満ちた赤ワインだった。まだ裕に半分以上は残っている。これは二宮さんが大学の卒業祝いにと、…あとおれたちが同棲した記念にとプレゼントしてくれたものだった。
大学を卒業してからすぐに念願の同棲生活を始め、幸せな日々を送り出してから早くも一ヶ月。というハッピーな常套句を使いたいのは山々だけれど現実は『同棲』なんて甘い響きとは程遠い、尊敬する上司からの折角の贈り物が飲み終われないほど忙しなく無機質な日々を送っていた。
―――おれたちは学生と防衛隊員の二足の草鞋からボーダーの仕事がメインの、いわゆる正社員としての扱いとなり、四月からは防衛任務以外の役職も持つことに。隊以外の活動はまだまだ不慣れ、そもそも三月から卒業論文+引越し+もろもろの諸手続きのゴタゴタで、同棲どころか並大抵の恋人ごっこをする余裕すらなかった。
そんな慌ただしい春の日々を送り続けていたが、今日は久しぶりに彼とゆっくり過ごせる余裕ができた。ずっと心待ちにしていたこのワインを今度こそ一緒に飲める。
…そう、今度こそと言うだけあって、実はフライングで先週末に一度試飲済みだった。けれども大した量は飲めず半分以上は残ってしまい、敢えなく冷蔵庫の中で寂しく保管。本当はもうちょっと余裕を持って飲むのがベストなんだけど、大好きな先輩から折角のプレゼントなのにずっと飲めなかったのが悔しくて。ついに我慢の限界だったから同棲中の彼に無理を言って、次の日が夜勤の翌日の仕事にギリギリ影響が出ないタイミングで一緒に飲んでもらった。ワインを開けた時にポンっと、とても軽快なコルクの外れる空気音がしたのをよく覚えている。―――
そんな先週末の小さな記憶をひっそりと脳裏で再生しながら、今日こそはと件のツレへ今夜の予定を提案する。
「ねえ、雅人。」
おれは冷蔵庫の中で存在感を放つ高価なワインを指差して、リビングに腰を据える彼の方へ振り返った。
「これ、この間の続き飲もうよ。明日休みなんだろ?」
「……」
怪訝そうな視線を送られた。これはもうちょっと詰め寄って説得を試みる必要があるなと踏み、冷蔵庫を一旦閉めてソファに腰掛けていた彼の方へ向かう。彼はスマホを眺めていたが、おれが近づいてくるのを一瞥すると端末をいじるのをやめ、手前のローテーブルへこつんとそれを置いた。しかしそのあとも改めて訝しい目線を向けられたので、おれは彼の脇に立ちはだかり説得を試みる。まあ意中のツレが懸念しているのは十中八九、
「お前、それ飲んだらベロベロになるだろうが。」
「それはねえ…まあ、そうなんだけどさ」
そう、おれはお酒に滅法弱い。前回飲んだ時のこともコルクが開いたところで時間も記憶も止まり、振り返る思い出がそれ以上何も無かったレベルで。ゆえに次の日の予定に絶対に余裕を持つ必要があったが、今夜はその心配はご無用だ。
「別に良いじゃん、おれも明日休みだし。」
と言って安心材料を提示する。だがそう言ってみたものの『それを聞いて安心した』といった顔を見せてはくれず。代わりに彼は何か言いたそうな面持ちを見せてきて、そのあとも結局は何も言ってこなかった。ひとまずおれはこの態度を黙認と捉え『じゃあ、交渉成立で』という足取りで冷蔵庫の方へ戻ろうと踵を返す。まあ安心してよ、と上機嫌に言葉を溢した。
「酔っ払って…、どうなっても問題ないからさ…って、うわっ!」
左手が掴まって、体が後ろへ引っ張られて、あっ、て思った時には、もう遅かった。二人掛けのソファだ、男一人を押し倒して襲うスペースぐらい余裕のものだろう。
「気ぃ早くない、カゲ…?」
「…さあ、どうだかな」
おれを押し倒した男は滅多に拝めないちょっと不気味なお得意顔を嫌味にもご披露してくれた。
「……『どうだかな』って、…あのさあ」
おれの方はというと体の大半がその男のまあまあペラい体でしっかり覆われ、腕はその体格から想像されるものよりもずっと握力のある手できゅ…と、それはそれは優しく掴まれていた。足もちゃんと固定され、ものの見事に、それはそれはご丁寧に現在のおれはカゲに拘束されている。サイドエフェクトで散々鍛え上げられたこの男の反射神経に敵うはずないだろう。抵抗の余地なくほんの一瞬でこの有様だ。
「…ハッ、つかよぉ……」
彼の特徴的なギザ歯が見えたと同時に軽く嘲笑される。
「動揺して呼び方が戻ってんぞ澄晴」
体勢的にも心の余裕としても完全に自分のペースへ持っていけてすこぶる機嫌が良いのか、滅多におれには向けられない(というかおれが向けさせない)悪童顔をここぞとばかりに、ざまあみろと言わんばかりに見せつけられた。ああ、そうだな。大層見事なしたり顔だと思うよ。
「……いやさあ…」
好き勝手に言われては堪ったものではないという意思で眉を顰めた。…そもそも『雅人』『澄晴』なんて名前で呼び合うようになったのもこの一ヶ月の出来事。加えて状況がこの状況で、同棲中の身とはいっても全然会話はできていなかったし、名前を呼ぶ機会なんて意外とそうなかった。要するにまだまだ口に馴染み切っていないんだこっちは、仕方ないじゃんか。
「…これは予定外だから、そりゃ思わず戻っ…んっ」
という弁明をしようとするも口を塞がれる。舌を絡められ、呼吸が荒くなる。こんな激しいキスだってご無沙汰だったので、体の芯がじわじわと熱くなる。ついつい感じてしまいそうになった、本当ムカつくなあ。
「はぁ…ねえ、まだ話してる途中」
思わず睨むような視線を送る。もう押し倒されで、キスをされで、こんなんで気持ち良くなりかけてで、完全に彼の土俵だ。一筋の睨みぐらい効かせたって良いだろう。
「名前で呼び忘れたてめーが悪い、早く慣らせ」
「…そう言われてもねえ」
カゲこそよく平気で呼べるよな。…おれはまだちょっと照れるんだっての、呼ぶのも呼ばれるのも。
という止まない本音を抑えるためにせめてもの皮肉を口酸っぱく言ってやろうと、はあ………と口を開く。
「しょうがないなあ、まさとくんはわがま…んぅ」
なんて隙をついて悪態を突こうもんならまた口を塞がれる。
「…っん…ぁ。…はぁ……」
唇が離れ銀色の細い糸がチラつく。キスがひと段落したかと思った一方、彼は余裕綽々で拳で口元を拭いながら憎まれ口を叩いてきた。
「っは…ざまーねえな。」
「……」
ひと呼吸おき、じろりと黄金色の瞳を思いっきり睨む。空いた手ではしたなくされた口元を拭い、今度こそちゃんと話を持ち掛けた。
「あのさあ」
おれのことを振り回して会話は成立させてはくれない悪代官へ根本的なことを尋ねる。
「…話す気ある?」
「ねえ。」
ほとんど間髪入れず即答された。とんだ狼男だ…どんだけヤリたいんだよ。
「……はあ、もう分かったよ。」
おれは一本取られたと、白旗を上げて彼の欲を受け入れることにした。まあそれに、…そもそも彼は自分の気持ちだけでこういう欲張りな行動をはたらかないことをおれはよく知っている。
「………来て。」
…本当ずるいよな、サイドエフェクトって。
こうなることはまだ時間的には「予定外」ではあったけれど「予想内」ではあった。だからおれは『どうなってもいい』ように、『問題ない』ように、しれっと「そういう準備」を万端にして、それで、用意周到にちゃんとして…し過ぎた結果、心のどこかでつい彼に対して劣情孕んだ期待の感情を抱いていたようだ。
―――要するにおれは無意識でそういう類の、情欲の感情をどんどん刺して、結果隠していたつもりの思惑が呆気なくバれ、それを逆手に一本取られるという美しいまでの大失態を犯したようだった。
…これはアレコレ考える前に開き直った方が傷が浅く済みそうだ。それならもういい、全力で刺してやる。
「ほら……」
ヤりたいんだろう?と言わんばかりに手を広げて、その意地悪な双眸を真っ直ぐに見据え誘惑する。…おればかり悪い子扱いはちょっと癪に障るなあ。手を出したっていうことは、そっちだってそういう事を考えてたってことだろ。絆されちゃってさあ…?
「抱いてくれよ、雅人」
暴かれた感情を剥き出しにしながら、おれは彼の名前を皮肉と愛情たっぷりに呼んでやった。なんとも滑稽な負け犬の遠吠えだなと、思わず心の中で自嘲した。
―――二宮さんごめんさい。あのワインを飲み切るにはもう少しだけ時間がかかりそうです。
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「……二宮さん?」
辻は二宮と談話していたが、彼は突然あさっての方向を向いて静止してしまっていた。
二宮隊は本日非番であったが、辻は隊室に用があり、大学の帰り際にその足でボーダーへ向かった。そこで偶然にも隊長の二宮と居合わせたので軽く談話をしていたのだったが…
「今……、」
「今?」
無言を貫いていた二宮が言葉を発する。内部通信でも入って何かやり取りをしていたのだろうかと辻は勘繰ったが、現在の二宮はトリオン体ではなく生身である。その可能性は無い。
「誰かにダシにされた気がした。」
「………はい?」
その日以降、辻は二宮から突如として放たれたまるで生駒のような台詞に『果たして二宮さんはそんなことを言う人だったのだろうか』と悶々と思考を巡らせた。
だが後日、「二宮さん!ワインご馳走様でした、これはそのお礼です。辻ちゃんとひゃみちゃんも、はいこれ!」と、犬飼がお礼にと持ってきた良いところのジンジャエールと、おまけのシュークリーム(限定品)のお裾分けのおかげでそのことはすっかり忘れたようだ。