はじめは、ぽつ、ぽつ、と。
天気が崩れる。ひどい雨になりそうだ。
今日は台風が来るんだろ。
台風? そんな日にやれるのか?
知らない誰かのさざめきが生まれては、場の空気に呑まれ消えていく。最高潮に盛り上がった会場では、懸念の声はかき消されるのが常だ。
分厚い雲が逆巻くような空から僅かに滴る雫は地に落ちて、触れた場所に沈み、僅かばかり濃い色を残した。大きな雨の粒が、髪を濡らして煩わしい。
時を置いて少しずつ強まる雨に、今夜の「S」は中止になるんじゃないかとギャラリーがざわめきはじめた。耳朶を打つ騒がしさもその内容もひどく気に食わないはずで煩わしいはずなのに、何故か今の自分にとっては何の妨げにもならなかった。
危険だからやめろと言われて、引く相手じゃない。
こちらも、雨風程度で勝負を投げるつもりはなかった。
無責任に煽り立てる群衆の声も、四方八方から突き刺さる好奇の視線も、意識の外へ切り捨てるのは簡単だ。
今の自分が知覚するのは、カーラの声だけでいい。
――ただ目の前の男と対峙するために、この場所に在るのだから。
ビーフを前に、血が沸き立つと人は言う。
俺にもそういう感覚はあるはずだ。
こいつに勝負を仕掛けたり、受けたそのときは頭に血がのぼっていることがほとんどで、感情をそのまま喰らえば身体の芯まで熱くなる。指先にも爪先にも、幾重にも流れる血を伝い回る熱は、沸き立つというに充分だ。
けれど、こうしてはじまりの瞬間が近くなるにつれて、熱を溜めた身体はそのままに、心根がさえざえと冷えていく。思考がクリアになって視界が晴れ渡り、研ぎ澄まされていく感覚は波のように寄せては引いて、開始の音を待つ心は今、どこまでも凪いでいた。
ボードの上に足をかければ、カーラの甘さや柔らかさのない、けれどどこまでも優しい声が耳に届く。するりと馴染むその声は、いつだって正しく自分を導いてくれると識っていた。
言葉の通りに動けるフィジカル。そのままの意味を受け取れるインテリジェント。
身体の熱と、冷えた思考。
どちらも自分にとって必要なものだと、いまならわかる。
あの日、あの時、暦と愛抱夢の夢幻にも似た戦いを経たとき、自分の中で何かが変わる音がした。
冷静すぎて相手をしていて熱くなれない、つまらないスケートだなんて、もう絶対に言わせない。
やがて激しい雨が打ち付ける中、カーラの優しい声に誘われるように身体を前傾させた。同様に、誰より近く在る存在もまた前傾姿勢をとる。
ちらりと見やれば、全く同じタイミングでこちらを見た相手と目が合った。夕焼けに似た色が、ふっと挑発的に眇められる。見透かすような視線は、昔から苦手なものだ。
見られている感覚を振り払うように、視線を前に戻した。
荒れ狂う風に礫のような雨が絡み、空に光が走る。
轟音の中、それでもコインが地面に弾かれる音を、互いに聞き逃すことはなかった。
「俺の方が速かった」
「いや、俺だ」
「脳筋ゴリラには理解しがたいか」
「フカシてんじゃねえぞ、ヒョロメガネ」
ゴール地点で言い合う俺たちを傍目に、賭けをしていた連中は大騒ぎだ。
同着、なんていうことは『S』において滅多にない。その、滅多にないことが大嵐の日に起こったことで、いつだって騒がしい連中が更に騒がしい。
歓声をあげているものがいるかと思えば、賭けの不成立を嘆く悲鳴も聞こえて、会場は随分混沌としていた。
「同着だったよ、ふたりとも」
そんな中、呆れたようなミヤの声が耳朶を打つ。
ゴール地点に至るまでの道筋で、何度かヒヤリとするような場面を幾度も越えた。無様に転げ落ちるまではいかなくても、逆巻く突風やまるで川みたいに水の流れる道に翻弄されて、ゴールへ着く頃には互いの身体は雨と泥でぐしゃぐしゃになっていた。
「こんな日にビーフなんてどうかしてる。日を改めればよかったのに」
怪我がないからいいけどさ、と嘯くミヤは顔を顰めている。怒っていますといわんばかりの表情だが、その声には隠し切れない心情が滲んでいた。心配だと口にすることはないけれど、そういうところが存外素直だ。
「あー、まあ、そうだけどな……薫が引かないから……っと、呼ばれてるから行くな!」
「薫って呼ぶな、脳筋ゴリラ!」
「チェリー?」
じっと大きな瞳に見据えられる。深みのあるエメラルドを零したような眼は澄んでいて、心まで見透かされそうな気分になる。きっとミヤは望む答えを得られるまで諦めないだろう。
「……決めていたんだ、今日はあいつとビーフをすると。それ以上でも、以下でもない」
「ふうん。そっか」
「ああ」
たかが嵐ごとき、あの男とのヒリつくような勝負を諦められるわけがない。
「わかった、でもさ……うーん、まあいいよ。わかった」
珍しく、ミヤの方から目をそらす。
そのまま、玩具への興味を失った黒猫みたいに気まぐれに、綺麗な女に囲まれた虎次郎の元へかけていった。気付いた虎次郎が、俺には決して見せないような表情で笑う。
いつだってあいつの一番近くに、自分はいられない。
――勝負の瞬間以外には。
雨も、風も、関係ない。汚れることすら厭わずに、勝負にこだわった自分と、どうでもいいといわんばかりに軽く承諾したあの男。
本当にどうでもいいからなんだろう。
そう知っていても、一番近くに感じる熱を、少しでも早く強く感じたいと願う。
決して告げることはないと、決めた想いがあった。
――叩きつけるような雨の音は、いつまでもやまない。