腹のなかに還るまえ「なんか縮んだ?」
「え?」
率直な感想をイライに伝えると彼は不思議そうに僕を見上げた。
彼の身長が少し低くなった気がする。感覚の話で確証はない。しかし、いつもより目線の先にある彼の頭が低い気がした。
「そんなことないと思うけど……」
イライはやんわりと僕の言葉を否定した。不思議そうに手を握っては開いて、少し飛び跳ねたり、伸びをしたりして、彼は己の体の感覚を確かめている。「うん」と一度頷いて、彼はもう一度僕を見上げた。
「特に違和感はないよ」
まるで僕がイライを心配していて、それに対して「安心して大丈夫だから」と言うように彼は僕に微笑みかけた。
意固地になって僕は彼の頬をつねる。
「いや、縮んだよ。姿勢が悪いからだ。すぐに老人になるぞ」
「猫背を直さなければと思っているけど、さすがに……ふふ、君も冗談を言うんだね」
僕に頬を引っ張られながら、イライはくすくすと笑った。男にしては清楚な笑い方だ。年齢以上に落ち着き払ったその態度に、臓腑がむかむかと燃え上がる。
「うざっ」
「あでッ! こら、ノートン!」
背中を強く叩いてやれば、珍しくイライは怒ったような声で僕を呼び捨てる。じんじんと傷んでいるであろう背中を撫でながら、イライは一度地面を強く踏んだ。
珍しい態度に僕の口角があがる。年相応で可愛らしいじゃないか。そうだ、僕はあれの余裕綽々とした態度が気に食わないのだ。
気分の高揚すらバレたくなくて、僕はふいっとそっぽを向いて、彼を置き去りに歩き出す。
◆◆◆
──僕の違和感は間違いではなかった。
そう気がついたのはこの会話の一週間ほど後のこと。
やはり隣に立つイライは以前より華奢で、背も縮んだ気がする。前回よりも確証が持てるのは服の余りが目立つようになったからだ。
ローブのような濃紺の衣の裾が地面を擦り、ベルトで締めたウエストは布がだぼついている。
「ねぇ、あなたさぁ──」
振り返ったイライの首の細いこと。男性的な筋が薄くなり、全体的に中性的な丸みを帯びている。
細く丸く──そして、幼く……。
僕は思わずイライの細い首を掴んだ。
「えっ、ノートンくん っ、やめてくれ!」
イライは驚いたように声を裏返し、僕の手を振り払った。その力の弱いこと。僕は思わず彼の手首を握った。指が余る。いや、余りすぎる。
「君、やっぱり細くなってない?」
「えっ」とも「う」とも言い難い声を出して、イライは俯いた。さすがに自覚があったのだろう。21歳と聞いていたが、今の彼は16~17歳ぐらいの幼さがある。
「ナイチンゲールには相談したの?」
「……いや、まだ」
「はぁ、さっさと相談しなよ。下手に抱えてこんでどうするのさ」
イライは小さく首を縦に振って、「すまない」と漏らす。
いや、そこまで怒ってるつもりはない。ムカついて、腹は立っているものの、言葉にしているのは純粋な心配りのつもりだ。それに対してこういう態度を取られると正真正銘の理不尽な怒りが湧き上がってくる。
舌打ちをひとつ落とせば、イライの肩が大きく揺れた。
「早く相談してきなよ」
吐き捨てるように言えば、彼は重い足取りでナイチンゲールがいる管理室がある方向へと歩いていく。
翌日、イライ・クラークに起きているバグ、不具合について報告された。
肉体が少しずつ若返っていくらしい。精神は変わらないと言ったが、原因が不明のため、それすら真実かわからない。どこまで幼くなるかも。つまりはなにひとつわかっていない。
解決に向けて、調査は進める。試合には現状変わらずに出てもらう。
「──以上、報告となります。質問はございますでしょうか?」
ナイチンゲールの問いかけにだれも返事をしない。しんっと静かな部屋のなか、ナイチンゲールが「なさそうですね」と区切り、報告が終わる。
「イライさん大丈夫なの? 具合悪くない?」
エマがイライに駆け寄り、それに伴い幾人かの女性たちがイライを囲んだ。その反面で、男たちは「まぁ、試合に出るならいいか」と脳天気なことを話す。
当の本人は「特に痛くも痒くもないんだ」とはにかんだ笑みを浮かべて、居心地悪そうに頭を搔いた。
イライ・クラークは日に日に縮んでいく。成長期の年頃まで若返ったせいか、いままでより顕著にその変化が目に見えるようになった。身長は10cm以上縮んでいる。彼が隣に立ったときの頭の位置がだいぶ低い。
女性陣と並んだときなどもわかりやすく、縮んだと実感させられる。身長が高めの女性とほぼ同じぐらいの身長じゃないのか。
「ずいぶんと小さくなったね」
「ハハハ、そうだね。若返る、なんてことあるんだね」
イライの笑いは乾いていて、困ったように目が泳いでいる。相棒すら心配そうに空を舞い続けていた。
「どこまで縮むんだろうね」
「……赤ちゃんまで縮んじゃうかもね」
へらりと笑ったイライは揉み手をして、地面を蹴った。
「笑えないね」
「本当に……。まあ、ここの主がどうにかしてくれるだろう」
イライの声が変わった。変声期前の幼さのある声だ。もともと低めの声だったから違和感がひどい。耳馴染みがしない。
「ノートンくん」
そう声をかけられてもイライだと気付けない。頬の丸み、声、身長、どんどん幼くなっていく。
最近は身長の縮みについていけないのか、バランスを崩し、よく転んでいる姿を見掛けるようになった。足が想像より上がらないのか、想像より短いのか、上手く動かない体に彼ももどかしそうにしていた。
「荘園から服が支給されるだろう? もうね、小さいんだ。こんなに小さい服を着るんだなって思って、でも、しばらくするとまたそれすら大きくなっちゃうんだ」
やるせないね、と呟く彼は時期を過ぎた花のようだ。枯れるのを待つ花。儚いというより、可愛そうだ。
「ねぇ、手」
「手?」
僕の手の上に彼が右手を乗せる。逆の手、と伝えれば、イライはあっさりと僕に左手を渡した。小さな手だ。手袋を外せば、丸みを帯びた幼い手にため息が出る。僕の手と手の付け根を揃えて合わせたらどれほど差があるのだろう。
「……指輪どうしたの?」
彼が婚約者とお揃いの指輪を着けていたことを僕は知っている。いや、荘園にいる人間ならみんな知っているだろう。彼は自分の帰りを待つ女の存在を会話の節々で匂わせていた。それは自慢ではなく、彼自身の発心のために。
「ああ、すぐ指から外れてしまうから、無くさないようにチェーンを通したんだ」
するりと僕の手から彼の手が抜けて、彼は首元を両手で探り、ネックレスにした指輪を懐から取り出した。
「困ってしまうね」
「……そうだね」
目線を合わせるために屈まなければならなくなった。彼の小走りが、僕の一歩になった。片腕で殴ったら簡単に死んでしまいそうなほどイライは弱くなった。
会話の、所作の節々から感じていた彼への腹立たしさが霧散していく。たぶん、イライが圧倒的に僕より弱くなったから。
「ノートンくん、じつは子ども好きだったのかい?」
「……なんで?」
「なんか、やさしい気がするから」
舌っ足らずな喋り方だ。7歳ぐらいの子どもの姿。もっと幼いかもしれない。わからないけれど、でもなんとなく精神も幼くなっている気がする。
「僕はいつも優しいよ」
「ふふ、それなら君のやさしさはわかりにくいんだろう……っ、いひゃい」
馬鹿にされたような気がして頬を引っ張る。大人の時よりも柔らかく、よく伸びる頬だ。
いたい、いたいと言うイライに怒りも消えていく。小さい子どもをいじめる趣味はない。
「つまらなくなっちゃったね、あなた。いじめがいがないよ」
いじめてた自覚があるんじゃないかと、イライは相好を崩した。へにゃりと眉が下がって女のような笑い声を上げる。
歩くのが覚束なくなって、言葉数が減って、感情的になって、笑って泣いて、彼は歩けなくなった。
抱き上げると腕のなかでイライはうごうご動く。地面を這う姿を最初芋虫のようだと思ったし、腕のなかで暴れる姿は警戒心の欠片もない。
僕のことを認識しているのかもわからない。イライは僕の頬をもみじのような小さな手でぺちりと叩いた。力を入れたら潰れてしまいそうなか弱さ、愚かな無知さ。僕たちが通ってきた道。
ネックレスにした指輪すら飲み込んでしまうかもと奪われてしまった可愛そうな赤子。彼が大事にしてきた指輪を目の前で軽く振れば、イライは無邪気に手を伸ばす。
「可愛そう。……君はどこまで戻っちゃうんだろうね」
子どもになって、赤子になって、彼は歩んできた道を巻き戻っていく。赤子の次は母親の腹のなかか……。
ここに居ない母親の腹まで還れるのか。まずイライの母は生きているのか。僕はイライのことを知らない。
戻れなければ無に還るのか──。考えたくない。やめようと首を振れば、イライがやっと指輪を掴んだらしい。チェーンをぐいっと引っ張って、イライは大事にしていた指輪を口に入れようとする。
「やめときなよ、後悔するよ」
小さな手を開いて、指輪を取り上げれば、イライは顔をぐしゃりと歪めて、泣き出した。耳をつんざくような泣き声。昔は大嫌いだった騒音。
(案外怒りが湧かないんだな)
自分の変化に違和感を感じながら、体を揺らす。
「はいはい、悪かったって、泣いたってどうもならないでしょ」
そう、どうもならない。
「早く戻りなよ」
伝えたって意味のない言葉。泣き声にかき消されて、否定されたような気分になる。