試し行動 イライ・クラークは試し行動をする人間だ。
いや、する人間になってしまった。
カシャンと音を立てて落ちたスプーンを彼は見下ろす。かがんで、拾おうと手を伸ばしもせず、食事をする手も止めた彼がなにを望んでいるかなど簡単に理解できた。近寄り、スプーンを拾って、新しいものをテーブルのうえに置く。
すると、再びカシャンと音がした。
スプーンが床に落ちている。彼はまたつんと澄ました顔でそれを眺める。
「イライ」
「なんだい?」
「行儀が悪いぞ」
むっと唇を尖らせ、すねた真似をする彼は片肘をテーブルについて、スプーンを指さした。
「拾って」
「わざと落とすなら拾わない」
「わざと落としたって証拠はあるのかい?」
子どものような屁理屈にため息が出る。なんて餓鬼だ。しかして、彼はもうそんなわがままを許されるほど幼子でもない。
「イライ」
「君もわたしを裏切るのかい?」
「裏切るってお前、そんな大それたことでもないだろう。行儀が悪いし、態度も悪いからやめろ、と言っているだけだ」
「……」
黙りこくって、ただただその青い瞳をつり上げた。
「次は落とすなよ」
拾って、また渡せば、そのまま目の前でイライはスプーンを床に捨てた。
「君だってわたしを裏切るんだ」
イライは立ち上がって、部屋を出ていった。食事はほとんど口がつけられていない。
はあ、と大きくため息を吐き出せば、とんっと一度、扉をノックする音がする。
「イライ不機嫌だったね」
マイク・モートンがにやにやと笑いながら、イライが座っていた席に腰掛ける。そのままイライの食いさしを口に運んだ。
「おいしいのに」
「なにかあったのか?」
「なにもないよ。僕は知らない。でも予測なんて簡単につくでしょう」
まあ、そうだ。簡単につく。イライ・クラークが癇癪を起こす理由なんて限られている。
「でも、まあかわいらしい癇癪だよね。スプーンひとつ床に落とすだけなんだもん。僕なら、このスープを床にこぼすし、このステーキを君に投げつけるね」
彼は厚切りのステーキを切り分け、口に運んでいく。
「はあ、面倒くさい」
「あーあ、聞かれたらまた拗ねるよ。いや、”視られた”らかな?」
けたけたと笑うマイクを無視して、侍女に片づけを命じる。この屋敷はそれなりに大きい。それなのに雇われている使用人たちは極端に少なく、入れ替わりも激しい。この新人の少女もイライの癇癪を初めて目にしたのか、不安そうな顔をしている。
「大丈夫だよ、お嬢さん。彼は君たちに対してひどいことをするひとではないから。大丈夫、大丈夫。一応僕たちは“正義の味方”だからね」
狡猾な狐がよく言う。正義とは強いものを指す言葉だ。いや、逆だ。弱いものが悪。負けたほうが悪。ならば、俺たちは現在進行形で正義と悪の陣地争いをしているところだ。
正義になるために、マイクもイライも俺も手段を選ぶつもりは毛頭ない。だから、そんな善人面などするべきではない。非難の感情が視線に含まれていることに気が付いてか、マイクはゆっくりとまなじりを細めた。
「それより、早く、イライを追いかけないと。面倒くさいことになるよ」
♢♢♢
もともと、イライはマイクが言うとおりわかりやすい“善人”だった。彼は本当の意味で悪をくじき、弱者を守ろうとしていた。しかし、虚妄の宴によって、彼は本来の純粋さを失い、他人を疑っては試し、金銭ばかりに縋る人間となった。
それは彼が持つ瞳の代償だったのかもしれない。
他者への懐疑心は末端からついに俺にまで訪れた。
彼の寝室の扉を叩く。トントン、返事は当然ない。トントン、追加で叩いても、返事はなく、彼の不機嫌具合が伝わってくる。
「イライ、いるんだろう? 次、返事がなかったら入るからな」
トントン、と先ほどよりも強く扉を叩く。そして、彼の返事を待つ間もなく扉を開けた。
「っ! なんで‼」
イライは悲鳴のような声を上げるが知ったことではない。硬貨が転がったベッドに彼を倒して、上に覆いかぶさる。彼は少しだけ暴れるそぶりを見せて、すぐにくつくつと喉奥で笑った。
「そうだ、そうだ。君も裏切るんだろう? いいさ、予言のとおりだ。彼女もそうだった。わたしを捨てた。この世で裏切らないのはこればかりだ」
手首を縫いつけられたままにもかかわらず、彼はすとんと体から力を抜いて、空いた手で転がった硬貨を撫でた。
腹が立つ、腹が立つ。この男は諦観を覚えてしまった。自分を置いて行ってしまった婚約者を追いかけることもせず、いまそばにいる人間の心を信ずることもできず、楽なほう、楽なほうへと逃げている。馬鹿な男だ。愚かでどうしようもなくて、いとおしい。
ぺらぺらとこっちの感情を決めつけて、喋る口を塞ぐ。噛みつくような口づけにイライはきょとんとした顔でこちらを見上げてきた。
「普通はナイフかなにかで刺すものだ。毒でも飲ませるなら、口に流しこまないと意味がない」
「なんで、俺がお前を害す前提で話が進むんだ」
「じゃあ、なんで、君はわたしを押し倒しているんだい」
イライ・クラークはひとが信じられなくなった。ただその反面で、まだだれかを信じたいと願っていて、そばにいてほしいと心が泣いている。だから、何度だってひとを試すような行動をとる。子どものような大人だ。かわいそうに、だからこんな大人をそばに置くことになる。こんな、身のうちまで潜りこませてしまうのだ。
「……その目を使えば、俺がこれからすることなんてわかるだろう?」
怪訝そうに眉をひそめたイライは素直にその目の力を使った。こういうところが幼く、純粋なままだ。
大きく目を見開いて、イライは体をよじった。一生懸命抜け出そうとしている。この先、なにが起きるか理解したのだろう。
「イライ、お前がひとを信用できないなら、俺はわからせるまでだ」
「ッ、いらない、そんなの、わたしはただ」
彼の詰まった襟元を開いて、白い首に噛みつく。
虚妄の宴、あれはひとの弱さ・欲望を増大させる。イライは過分の力によって燻っていた自尊心を増長させ、同時にすべて失った自分を受け入れてくれる存在を求めた。同様に、同じ宴に参列した俺だって同じように欲望が増長している。
はねる体に、こぼれる吐息。さんざめと涙をこぼすイライを見下ろして、俺は喉奥で小さく笑う。孤独なんていくらでも埋めてやるのに。