冬の日の夢 夏がその陽気と熱気の下に地獄を隠している。それは例えば地に転がる蝉の死骸であり、枯れ落ちる向日葵の落とす影である。
ならば、冬はその静謐と閑雅、降り積もる雪と長い夜の元に、天国を潜ませているのだろうか。
こっちですよと手を引かれ、私は雪の中を歩く。深々と降り積もるそれは天から降り注ぐ花に似ていた。しかし気まぐれに風と戯れるそれらは視界を塗りつぶし、来た道も、これから行く道さえを白く塗り潰していく。先導してくれる人がいなければ、私は立ちどころに迷ってしまったことだろう。どこへ向かっているのかと尋ねれば、良いところですと応える声がする。この吹きすさぶ雪の中でも、不思議とよく通る声だった。
「そこには何があるの」
「何もかもが。温かい暖炉があります。美味しい食事があります。熟成した葡萄酒があります。レコォドも、本も。あなたの望むものを用意しましょう」
芝居がかった――、それでいて、時代がかった言葉遣いだった。さて、知り合いにこんな人はいただろうか。思い出そうとするけれど、耳元でざあざあと騒ぐ北風が、頭の中まで掻き回していく。足を止めればその場で凍りついてしまいそうで、だから私はこの手に惹かれるまま歩き続けるより他にない。
私の迷いが伝わったのだろうか。ほら、と弾む声がする。面を上げてごらんなさい、そして前をよく見てご覧なさい、と。私は顔を上げ、雪の向こうへと目を凝らす。
そこにあったのは。
「……城?」
石造りの、ガリアの遺産として残っていそうな城だった。窓にはぽつぽつと明かりが灯っている。私たちはあの城へと向かっていたのか。そうですとも、と声は言う。そこには何もかもがありますよ、と。愛があり、夢があり、祈りがあり、希望があり、――永久の幸福があるのだ、と。
だから、私は尋ねた。
「じゃあ、そこには――」
***
八月の、ある夏の日のことだった。
男は質屋で偶然、それを見つけた。美しいスノードームだ。龍門では珍しい、リターニアから流れてきた品だという。店主の話は嘘か真か、しかしその美しさは真実だ。台座は雪の結晶を模した六角形、硝子の中には城が一つ、逆さに傾ければ銀と金の結晶がきらきらと漂い、さながら吹雪の中にいるような、或いは陽の光の粒が宙を舞っているようだった。男はそれを買って帰った。様子がおかしくなったのはそれからだ。暇さえあれば、ドームを覗き込んでいる。それだけならまだいい。夏の日差しが燦々と照りつけているはずなのに、まるで冬を迎えたかのように、男の肌は白く褪せていき、家人が触れると、まるで吹雪の中を歩いたかのように身体が冷えていたという。どこか身体が悪いのか、まさか肺を病みでもしたのかと、家人は心配したそうだ。しかし男は大丈夫だというばかり。ある朝に家人が見つけた、寝台の上で凍りついた男の死体も、笑顔を浮かべていたという。
八月の、まだ暑い夏の日のことだった。
「という逸話のある一品なんだけどね」
「なんだってそんなものを寝室に?」
「だって美しいだろう」
言い訳めいたドクターの言葉に、リーははあ、と溜息をつき、デスクの上に置かれたスノードームへと胡乱な眼を向ける。
「この手の骨董品にはよくある話だろう」
リーの指先が、水晶めいたスノードームの表面を撫でる。先程ドクターが語って聞かせた話のとおりに、美しい品だった。台座の金は古びた色をしているが、しかし古ぼけているわけではない。柔らかく周囲の光を散らすそれは、自分の経てきた時間の暖かさを持っていた。
ドクターはそれを手に取り、逆さにひっくり返した。銀と金の粒がさらさらと流れ、粘度の高い液体の中で渦を巻く。台座を下に置き直すと、本当の雪が空から降るように、緩慢に城へと光の粒が降り注ぐ。きれいだ、とドクターは呟いた。とてもそんな曰くのある品には見えない。だからこそドクターをそれを買って、手元に置くつもりになったのだろう。
「まあ、このテラの大地には不思議なことがたくさんあるから、そういったことがあってもおかしくはないと思うけどね。……知ってるかい、リー。クルビアの大統領は実はロボットなんだよ」
「ドクターがそういう与太話に寛容なのは良いことだと思いますけどね。続きは布団の中にしましょうか。体が冷えちまう」
「なんだったら君の部屋に置こうか。ゲストルームを用意しただろう」
「はいはい。良い子はもう寝る時間ですよ」
私は良い子でも子どもでもない、とドクターはぶちぶち不満を零していたが、つむじに一つ口付けを落とすと立ちどころに大人しくなった。そのまま、リーの手に導かれるままに、二人は寝台へと横たわり、一つの毛布を共有する。
「狭いよ。もう少し向こうに行って」
「いい加減ベッドを新調したらどうなんです?」
「それにかかる費用は君の給料からの天引きで良い?」
「はあ。なら新しいベッドはおれのもんってことで、いつでも寝に来ていいですよね」
それはちょっとなあ、と欠伸混じりに呟いたドクターの目蓋がうとうとと揺らめく。手のひらで月の光を隠してやれば、ひとつふたつ呟いた言葉は穏やかな寝息へと変わっていく。二人で分かち合うには少し狭い寝台も、同じ夢を見るには丁度いい。リーは、ドクターがすっかり眠りに落ちたのを確かめて、自分もまたゆるやかに目を閉じた。
デスクの上では、スノードームの中を舞う結晶が、月の光に煌めいている。
***
「そこには――彼もいる?」
ともすれば吹雪の前にかき消されそうな声だった。しかし、自分の手を引く相手には確かに届いたのだろう。瞬き一つの間があり、いる、と声は応え、嘘だな、と私は思う。彼ほどではないが、人の心と嘘を見抜くことは、それなりに得意分野だ。
私は手を振り払い、逆の方向へと走り出す。吹雪が私に牙を向き、一瞬で視界が白に閉ざされる。風には頬を裂くような冷気があった。方向を見失ったまま、私は闇雲に走る。逃さない、と叫ぶ声が聞こえた。
確かにそこには愛があるのかもしれない。夢があるのかもしれない。けれども、変わりゆくものを変わりゆくままに愛するあの人は、そんな幸福を望まないだろう。凍りついた冬の日の永遠よりも、彼は、いずれ散ると知って尚、春の桜を愛する人だから。
だから。
ぱきり、と音がした。薄氷を割るようなそれは、けれども足元ではなく頭上から響く。ぱきぱきと、白に覆われた空に亀裂が入る。まるで硝子のように。やめろ、と誰かが叫ぶ。声がした。あたたかな――春を宿したような声。
声が、私を呼ぶ。
――ドクター。
***
「あらら、振られちまいましたね」
彼はただ、スノードームを持っているだけだった。さかしまに傾けた訳でもない。なのに、中は吹雪のように荒れていた。銀と金の結晶は、ナイフの欠片のように月光を浴びてぎらついている。
「……ひととき、穏やかな夢を見せるくらいなら、おれだって見逃したんですが、ねぇ」
内側から凍りついていくように、ドームの中が曇っていく。中で何が起きているのか、彼であってももう見通せない。けれどももう十分だ、というように、彼は手を離した。後は物理法則に従うままだた。冬を閉じ込めたそれは、床へと落下し――悲鳴のような音を立てて、粉々に砕け散る。散らばるそれを見下ろして、リーは深い溜め息をついた。朝が来る前に片付けなければ、この部屋の主人に何を言われるかわかったものではない。わかったものではない、のだけれど。
寝台へと目をやる。そこではドクターが変わらず寝息を立てていた。まあ片付けは後でも良いだろう、と彼は寝台へと戻った。ドクターの隣りにある、一人分の空間に身を滑り込ませると、わずかに目蓋が震えた。
「……リー?」
「はい、どうしましたか、ドクター」
「……さむい……」
そういって自分の方へと伸ばされた手には、確かに氷の冷たさがあった。自分の足へと絡まる爪先にも。まるで冬の雪の日を歩いてきたかのように。全く普段とはあべこべだ、とゆるやかに苦笑して、リーはドクターを抱きしめる。
「ほら、こうすりゃ少しはあったまるでしょう」
「んー……」
返答のような喃語のような、寝息ともつかない曖昧な言葉があった。光を探すように自分の胸へと頬を擦りつけたドクターは、今度こそ眠ったらしい。リーはもう一度、その輪郭を確かめるように、ドクターを抱きしめた。春は遠く、冬は長い。それでも、この体温を、見失うことのないように。
九月の、まだ冬も遠い日のことだった。