夜にあなたと凍えたい 一杯やりましょうよ、と誘うのはいつでもリーで、それを断るのはいつもドクターだった。まだ仕事中だ、明日も仕事だから、ここは執務室だから、等々。
だから驚きましたよ、と彼は帰り道でそう口にした。今日の仕事が終わったときに、一杯やろうかと声をかけたのはドクターの方だったから。とはいえ場所は、執務してではなくて龍門のバーにしたけれど。
「君がここまで酒に弱いと知っていたら、もう少し考えたけどね」
ほら、自分の足で立ってと言うけれど、リーはドクターを支えにしないと歩くことはおろか、真っ直ぐに立つことさえままならないようだった。雲母を敷き詰めたような鱗の肌が、今は嘘のように赤い。その肌の下にも、確かに血は通っているらしい。
本当はバーを出た後にタクシーでも拾って帰ろうかと思っていたのだが、自分の体格の半分もないような人間にもたれかかっている龍族の男を拾おうとするもの好きは皆無だった。それもそうだろう。車内で嘔吐されては困る。だからこうして二人で歩いて帰る羽目になっている。年の瀬であれば夜風はことさらに冷たく、アルコールで温まった身体から容赦なく熱を奪っていく。うひゃあ、寒い寒いと凍えてみせる男を風よけにするくらいは許されて然るべきだろう。
「でも、一体どういう風の吹き回しですか?」
「何が?」
「突然飲みにいこう、なんて」
自分を支えにして歩いている男の顔を見る。酒には強くない、という探偵事務所の彼の子ども達からの申告は事実だった。まさかウイスキーをロックで一口舐めただけで顔を赤くするとは。彼のことならきっと、うわばみのようだろうと思っていたのに。
「仕事では飲まないって言っていただろう」
いつぞやに、他社との交渉に同席してくれるように頼んだ時の話だ。会食も兼ねてだからアルコールも出ると思うよ、という言葉に、彼は渋面を作ったのだ。それが意外だったが、酒に弱いと聞いてからは不思議と腑に落ちた。もちろん断れない時もあるのだが、いつの間にか彼のグラスの中身が烏龍茶に変わっていたときはその手並みの鮮やかさに感嘆するしかなかった。
それを聞いているリーといえば、マジックの種をバラされているように苦い顔をしているのだが。
「だから私を飲みに誘ってくれるのは……そうだね。信頼してくれているんだと思ってね」
リーに飲みに誘われるんだよ、と何の気無しにウンに相談した時、彼はどうしてそんな嘘をつくのかわからない、とでも言うような顔をしていた。それが嘘でもなんとも無いと知った時の、あの驚愕は忘れようもない。ここだけの話だけどね、とウンは声を潜めて教えてくれた。リーさんはよっぽど気を許した相手としか酒を飲まないんだよ、と。
例えば、遠く尚蜀にいる旧友と再会した時に、義理人情、若かりし日の思い出を盃に湛えて満たして飲み干したように。
同じもので、自分とも盃を満たせるのだと。彼がそう思ってくれているのだとしたら。
「それに応えてくれるんですかい?」
「そのつもりだったけど。違う?」
「例えば、おれがもっと悪い男で――」
不意に、彼から漂う酒の匂いが強くなる。夜が視界を覆うように目の前が暗くなり、こんな時間でも賑やかな街の喧騒がにわかに遠くなる。路地裏に引き込まれたのだ、と理解した時には冷たいコンクリートの感触が背中にあった。身動きがとれないように肩を掴んで、自分を見下ろす金の相貌だけが、月のように明るく、その癖冷ややかだった。嗚呼、そうだ。どうして忘れていたのだろう。例え酔っていても、彼は理性的だった。吐きそうになった時は席を外していたし、最後の会計もきっちりしていた。それはつまり判断能力は失っていないということで、こうして平時と同じ様に、自分では到底敵わない力を振るうこともできる。
「――酔ったふりをして、あなたを油断させて。あなたとの一夜の間違いのために、こんなことをしているのかもしれませんよ」
「……」
一本通りが違うだけで、別の世界に迷い込んだようだった。おそらくはもう少し奥へと足を伸ばせば、綺羅びやかなネオンで彩られた宿があり、そこで彼の言う「間違い」に溺れることもできるのだろう。朝日が全ての過ちを正すまで。
逸る鼓動を抑えるために、自分の手が半ば無意識に、ベルトから下げている玉佩へと伸びる。
あの日からずっと身につけているものだ。二回目の昇進の後で、渡したメダルと引き換えに、彼から受け取ったもの。
信じてくれますかい、と彼は言った。自分たちの間にある信頼は手段ではないのだと。
ならば。
「――私は、君と間違えるつもりはないよ」
そう答えれば、自分の肩を掴んでいる腕の力が緩む。瞳を過った影は失意だろうか、落胆だろうか。確かめる前に、うたかたのようにそれは淡く掻き消える。初めから存在しなかったかのように。もうその鬱金色の瞳は平時と同じ輝きを取り戻していた。冗談ですよ、と。彼がそう笑い飛ばす前に。
「私が欲しいのは一夜の過ちではなくて。一生の答えだけだよ、リー」
君はどんな答えを私にくれるんだい、と。ともすると逃げてしまいそうな彼を繋ぎ止めるために、胸ぐらを掴む。多少乱暴であることは許して欲しい。こちらだって酔っているのだ。
金の瞳は零れ落ちそうなほどに大きく見開かれ、そしてゆるゆると色を深める。彼の瞳は夜の中で合ってもその輝きを失わず、美しい。そして今、それが自分だけに注がれているこの幸福を、果たして何に例えようか。
「……今、ここで、それを告げても?」
そうしてくれ、とジェスチャーだけで伝えるドクターに、リーはそっと身をかがめる。答えを告げるために。彼から与えられた答えは、先程よりもずっと優しく、かさついた唇と、震える吐息の形をしていた。こわごわと、リーがドクターを抱きしめると、その背に腕が回される。それがドクターの答えだった。
ねえ、ドクター、と。今にも泣き出しそうな声色で自分の名を呼ぶ男は、本当に情がいつかは尽きて、縁がいつかは切れるものだと割り切れるような人間なのだろうか。きっと彼は、一夜の過ちを、極夜に引き伸ばして生きるような人間だ。
ならば、間違えるよりも。二人で同じ答えを背負って生きる方が、ずっといい。
「おれは、あなたのことが――」