How much, darling? ドクターは龍門弊の枯渇に喘いでいた。
チェルノボーグで石棺から目覚めてからというもの、金策に苦しまなかった日はなかった――ただの一日もなかった。オペレーターたちに戦場以外の場所でも経験を積んでもらうために作戦記録を見てもらうのにも時給が発生し、それを支払うのは当然ロドス側になる。昇進に当たり彼らに相応しい装備を用意するのもこちらで、費用に加えて別途材料が必要になる。それも一段落したと思えば今度はエンジニア部が新しく開発したモジュールシステムだ。既存の武器や防具に外付けのデバイスを搭載することでさらなる戦闘力の強化が望めると、このシステムの開発のために徹夜してきたと思わしきエンジニアは機械油で汚れ、隈も色濃い顔で、それでも眼光だけは少年のように輝かせて熱弁を振るっていた。全ては作戦の成功率を上げるため、犠牲も負傷者も少なく作戦を終わらせるためである。それはわかっている。わかっているのだが。
――無い袖は振れないだろう!
ドクターは執務室で一人、頭を掻きむしっていた。龍門弊を稼ぐために、実験器具の運搬などの業務も請け負ってはいるが、しかしそれで得られる賃金と諸々の出費はまるで釣り合っていないというのが正直な感想だった。
オペレーター達の装備とは別に、鉱石病の研究もある。ロドスの本来の目的としてはむしろそちらに比重を置くべきで、このプロジェクトを推進するためにドクター自身、少なからず私財を投じていた。むしろロドスから支払われる給料の大半はこうしてロドスに投じられている。大したマッチポンプだ。今まではそれで良かった。手元に大した額が残らずとも、配給される食事と衣類があれば、それだけで事足りたのだ。健康で文化的な最低限度の生活を送ることができた。
だけど、とドクターはデスクの上に置かれたカレンダーを見た。期日までにどうしてもまとまった額が必要で、しかし今の自分にはそれだけの手持ちがなく、その上給料日まではまだ日がある。
「旦那さん、冴えん顔やなあ。何かあったん?」
ドクターが執務室で頭を抱えているときに、ぴょこりと顔を出したのはクロワッサンだった。本日ペンギン急便から派遣されたトランスポーターは彼女のようだ。
ちょっとね、とドクターはため息交じりに彼女に届けてほしい荷物を手渡す。この書類はリターニアの事務所宛、この荷物はカジミエーシュのオペレーターまで。
「お金がなくてね。……そうだ、クロワッサン。なにか良い――」
アルバイトか何かを知らないだろうか、ペンギン急便での雑用でも良い。
そう言うより早く、クロワッサンは荷物を抱えていない方の腕でドクターの肩を掴んだ。普段は荷物だけでなく盾を持っている彼女だ、フォルテの握力は凄まじく、肩の骨がきしむような錯覚を覚える。
「旦那さんはアルバイトを探してるん?」
先程までの穏やかな表情とは一変して、彼女の目はぎらぎらと輝いていた。先日会ったエンジニアと似ているが、何かが決定的に違う。
「え、あ、あぁ」
「――だったらな? 丁度いいのがあるんよ。旦那さんにピッタリの!」
それは所謂、金の亡者と呼ばれる人種の眼光に近しいと。ドクターがそう気づいたのは、荷物とともにクロワッサンの手で執務室から連れ出されてからだった。
***
「クロワッサン」
「うんうん。やっぱりウチが見込んだ通りや!」
似合ってるで、と満足げに笑うクロワッサンとは対照的に、鏡の前で自らの服装を見つめているドクターは頬を引きつらせていた。
「この服は、その……、少しばかり、露出が多くないかな?」
クロワッサンの言う「アルバイト」とは、店での給仕だった。曰く、体調不良により欠員が出ており、代わりとなる人間を探していたそうだ。
給仕をやった経験はない、と一旦は断ろうとしたが、せやかて先立つ物が必要なんやろと言われてはどうしようもない。龍門へと連れ出され、店へと案内されて、クロワッサンが店長と話をつけてくれたのが少し前。幸いなことにまだ客の少ない時間だから、店の衣装を着て研修代わりに店に立ってみるか、と言われたのだが――
クロワッサンから手渡された衣装は、イメージしていたウエイトレスのものとはかけ離れていた。印象としてはビキニの上からエプロンを着ているというのが近い。これで接客をしろというのか? という否定されることを前提としたドクターの眼差しを、クロワッサンは全力で肯定した。
「よう似合ってるで! さすが旦那さんや!」
「いや、さすがに……これはちょっと……」
「なんでや、この前ロドスにやってきたループスの……、パゼオンカはん? も、こんな格好やん」
「あれは彼女だから……」
さながらモデルのようにすらりとした肢体だから、水着のような格好でロドスを闊歩しても許されている。ロサと同じ、ウルサス貴族であった彼女が、今もあのような格好をしているのは、やはりゼルエルツァで過ごした日々が彼女のアイデンティティとなっているからだろう。
「だからそのような基盤が何もない私がこのような格好をすることにはかなり抵抗があるんだが」
「まあまあ! いいからいいから!」
半ば押し出されるような格好で更衣室から押し出される。膂力で彼女に敵うはずもなく、せめて白衣を羽織りたいという抵抗はあっさりと却下された。
「白衣もなあ、まあそういう需要もあるとは思うんやけどなあ」
それはどういう意味だ、と尋ねるより先に明るい場所へと引きずり出される。目が慣れ、それが店内であるということに気づくまでに、少しの時間が必要だった。
「さ、旦那さん! 早速やってみよか?」
「……」
輝くような笑顔を浮かべているクロワッサンに、最早どんな抵抗も無意味だと悟ったドクターは無言で差し出されたトレイを受け取った。格好はともかくとして自分がすべきことは給仕である。そして自分に必要なものは金である。
そのために、手段は選んでいられない。
***
すみませーん、と呼ぶ声にドクターは振り返った。動きに合わせてエプロンの裾がふわりと揺れ、歩きに合わせて頭につけたカチューシャの鈴が華やかな音を立てる。
「はーい、ただいま」
給仕の仕事は始めてだったが、思っていたよりもスムーズに働くことが出来た。これもひとえに戦術指揮官としての経験があったからだろう。戦場を見渡して指示を出すように、ホールを見渡して水が足りていない客を探し、傷ついているオペレーターの元へ支援を送るように注文のために給仕を探している客を探す。記憶力の良さもあり、複雑な注文でも一度聞けば覚えられるドクターは今日が初めてとは思えないほど優秀な給仕だった。
注文を取っていると、客は胸ポケットからしわくちゃになった龍門弊を取り出した。おそらくはチップだろう。この店はチップの払い方がいささか独特だった。手渡しではなく、服の隙間、例えばガーターベルトの紐と太腿の間に差し込んだりするのだ。初めこそ驚いたが、数時間も働けばそれにも慣れた。オーダーが立て込んだときなどは全身に紙幣を身に纏っているような状態だ。
一度店長に呼ばれた時は、一体どんなお叱りが飛んでくるのかと肝が冷えたが、しかしかけられたのはこのままここで働かないかというお誘いだった。ドクターとしての業務がある以上、ここで正規社員となることは難しいが、自分の能力を買ってもらえることは有り難い。これなら目標金額まで稼ぐことも容易いだろう、と足取りと同様に胸を弾ませていた時に。店の奥にある個室の扉が開くのが見えた。店長から、あそこはVIPルームだから近寄らなくて良いと指示されている場所だ。自分のように、まだ給仕に慣れていない人間が近づいて粗相をしでかすのは店側としても不味いという配慮だろう。とはいえ、見送りくらいはした方がいいか――と、開いた扉から出てきた人影に目を凝らすと。
「は――、」
「――い?」
二つの声が重なる。ドクターのアルトの声と、よく似た響きで驚愕を示すバリトンは、酷く耳馴染みのあるもので。
「……どうして、君がここに?」
愕然と目を見開いて、こちらを見つめているその人影は、リーだった。
「それはこっちの台詞ですよ……、いや、ドクター、あなたなんて格好をしているんです」
「これがここの制服なんだから仕方ないだろう」
「まさかそんな格好で働いていたんですか?!」
鬱金の瞳が眼窩から外れてしまうのではないかと心配になるほどに、目を見開いた彼は、大股でドクターの元へと歩み寄るとその腕を掴んだ。そのまま有無を言わさぬ力でドクターを先程までの部屋、VIPルームへと引きずり込む。
「リー、まだ仕事が」
「――、おれに給仕するのは嫌だとでも?」
そういうことではない。けれど反論の言葉は、鬱金の眼光に射抜かれ、喉に張り付いたまま出て来ない。随分と怯えた表情をしていたのだろう。彼はこちらを安堵させるように、唇を孤の形に緩めた。
「安心してくださいよ。ちょーっと事情を聞かせてもらうだけですから」
ね? と彼は微笑む。けれど何故だろう。それが、捕食者の笑みに見えるのは。
***
VIPルームの扉を閉ざすと、人々のざわめきも食べ物とアルコールの匂いも遠ざかり、部屋の中には重苦しい沈黙だけが満ちていた。乱雑な動作でソファに腰掛ける。ドクターは、自分は店員であるという意識があるのだろう、あくまで傍らに立っていようとしていたが、腕を引く力を強めると、それには抗えなかった。半ば体勢を崩すように倒れ込む。抱きかかえて膝の上へと座らせると、混乱の中に罪悪感を湛えた瞳と視線がかち合った。恋人に隠れてこんな格好をしていることに対して、思うところはあるらしい。
「それで、どうしてこんなところにいるんです」
ドクターは居心地悪そうに身じろぎをしたけれど、腕の中からは抜け出せない。ここは所謂ガールズバーと呼ばれる場所だ。一体どこの誰が、この店をこの人に斡旋したというのか。
「ちょっと……物入りでね。アルバイト先を探していたんだ。クロワッサンの紹介だよ」
ペンギン急便のあの嬢ちゃんか、と舌打ちの衝動をなんとか噛み殺す。彼女の商人としての気質には、近しいものも好ましいものも感じてはいたが、しかし利用できるものは何でも利用するという気風に、自分の大切なものが巻き込まれてはそうも言っていられない。なにせ今回巻き込まれているのは、自分のつがいなのだ。
「そこまでして欲しいものでも? 言ってくれたらおれが用立てますよ」
「それじゃだめなんだよ」
この人にしては珍しく、むきになった、子どものような反論だった。今のドクターは罪悪感と羞恥の渦中にいるのだと、平時のリーであれば気づいただろう。しかし冷静さを欠いているのはこちらも同じだった。
「リーの方こそ、どうしてこんなところにいるんだよ」
「仕事ですよ、仕事。聞き込み調査です。――ま、それも終わりましたから。今からはオフってことで、可愛らしい店員さんに給仕をお願いしても良いですよねぇ?」
リーの手がドクターの頬へと伸び、触れるか触れないか、ぎりぎりのところで止まる。咲き始めた薔薇の蕾を愛でるような手付きで輪郭をなぞるそれに、ドクターは肌がさざめき立つのを感じた。リーは、服の隙間にねじ込まれていた龍門弊を一枚抜き取ると、そのままそれを握りつぶした。ドクターが上げた微かな声すらもそうするように、にっこりと微笑みかける。
「これを得るために、あなたは何をしたんですか」
「……ちゅ、注文を取って、……」
空いたグラスに水を注いで、料理や飲物を運んでいただけだ、と。震えるドクターの声に相槌を打ちながら、リーは一枚一枚紙幣を抜き取っていく。雑草を抜くように、花びらを散らすように。普段は白衣と上着に覆われている、陽の光を忘れた白磁の肌に、一体何人が触れようとしたのだろう?
リーが手を開くと、握り潰された貨幣がばらばらと床に落ちた。そして軽く手を振ると、真新しい紙幣が手の内に現れる。まるで手品のようだった。人差し指と中指で挟んだそれを、リーはそれまで他の客たちがしてきたようにドクターの服の隙間へとねじ込む。
「ドクター。口、開けてください」
「え、ど、どうして」
「いいから。……おれは対価を支払った、従わないのは契約違反だ」
金が必要なんでしょう? とリーは笑う。それは今までドクターが向けられたことはおろか、見たこともない種類の笑顔で。顎を掴まれて、リーの方へと顔を向けられれば、もうドクターは逆らうことはできなかった。おずおずと口を開けると、待っていたかのように舌が差し込まれる。わざとらしく音を立てて味わい、噛じる様は、普段の睦み合いとはあまりにもかけ離れていた。肌が粟立つのも、体が震えるのも、本能的な恐怖故だろうか? ――食べられてしまいそうだ、という。
「ねえ、ドクター」
ソファの上に引き倒しても、ドクターは小さく震えるばかりだった。逆光の中でも褪せない自分の鬱金の瞳は、今、どのように見えているのだろうか?
「あなたがいるのはこういう店なんですよ。……今日はペンギン急便の嬢ちゃんが目を光らせていてくれたのかもしれない。でもねぇ、無体を働こうとする奴に、こうして連れ込まれていたかもしれないんですよ?」
こうやって、と。リーがドクターの肩紐を咥えて引っ張ると、それはドクターが止める間もなくしゅるりと外れた。外れた紐の間から肌を這う指に、いよいよ体の震えが抑えられない。
「そこまでして、何が欲しかったんですか。……おれには与えられないものですか?」
「っ、う」
ドクターの瞳には涙が浮かんで、今にも溢れだしそうだった。嗚呼、泣かせてしまうなと思いながら、胸の内で燻る炎を止められない。
「他に、欲しいものでも――欲しい人でもできましたか」
もし、この人が。自分以外の誰かの名を口にしたら。きっとそいつを殺してしまうなと思ったリーは。
「……プ、レゼント、を」
「はい?」
「――プレゼントを買いたかったんだよ! 君に! 君と出会ってもう一年が経つから!」
悲鳴のような慟哭のような、涙とともに溢れたドクターの本心に、ただ言葉を失った。喉をつまらせながら、声を震わせながら、ドクターは必死に言葉を紡いでいた。
「ちゃ、茶器を、君の事務所に置こうと思って。二人で、揃いの」
「……ドクター」
「でもお金がなくて、だ、だからクロワッサンに、アルバイトを」
「ドクター。わかりました。すみません」
おれが悪かったです、と。リーは今度こそ、慈しむようにその人を抱き締めた。自分を包み込む体温に、けれどもドクターの震えと嗚咽は止まらない。
「う、うぅ。リーのば、ばか、そ、そんなに怒らなくても」
「……すいません」
自分の胸に顔を埋めてえぐえぐと泣くドクターをあやしながら、リーはどうやって連れ帰ろうかと考えを巡らせる。でも、あなたのことが心配だったんですよ、と。それを言葉にはせず、どこまでも無防備な恋人を、リーは落ち着くまでただ抱き締めていた。
***
結局、リーはドクターを脱いだ自分の外套で包み、抱えて連れ帰ることにした。着替えと荷物は着払いで自分のところへ送ってくれるよう、VIPルームから出たところで鉢合わせたクロワッサンに頼んだのだが、幸いなことに送料無料で届けてくれることになった。さすがはペンギン急便、アフターサービスも万全である。
「少しは落ち着きましたか」
「……ん」
事務所に戻り、リーの入れた茶を飲んでいるドクターは、もう普段の落ち着きを取り戻していた。目だけがまだ赤く、腫れている。それに一抹の罪悪感を覚えながら、リーはドクターの頭を撫でた。
「ドクター、気持ちは有り難いですけど……。もう、無茶はしないでくださいよ」
龍門には戦場とはまた別種の脅威があるのだ。ドクターは苦いものでも舐めたように顔を歪めた。
「身に染みて理解したよ。今回は良い勉強になった。……はあ、この服も返しに行かないと」
解けた肩紐を結び直しながら、ドクターは胸の内を全て吐き出すように嘆息した。解けた肩紐を結び直そうとする手を、けれどもリーはそっと押し留める。
「ドクター。プレゼントの代わりに一つ、良いですか?」
「……うん?」
「いえね、大したものじゃ――大したことじゃありません。その格好のあなたを、ちーとばかり楽しみたいんですよ。何、あなたはそのままいてくれれば構いません。給仕も奉仕も、こっちが勝手にやりますから」
ね? と舌なめずりをして笑う男に、ドクターは半ば無意識に後ずさろうとした。しかしここは彼の家であり、先程までよりずっと逃げ場がない。何も要らないという台詞は無欲そのものだが、瞳は情欲の炎に揺らめいていた。彼の手がもう片方の肩紐へと伸び、そして抱え上げられて寝室へと運ばれるまでの間、ドクターの脳裏を過る格言は一つだけだった。
只より高いものはない。