一人暮らしをするにあたって、兄からアドバイスをいくつかもらった。食事に気を配ること、睡眠をきちんととるとこ、困ったらすぐに兄に連絡すること。その他にも突然の訪問者には応対するな、とか留守に見えない洗濯物の干し方とか色々教えてもらったけれど口酸っぱく言われたのは「3大欲求に従って人間はおかしくなる、食事、睡眠、性欲、この三つの管理は最優先させた方がいい」ということだった。「何いうてんの」なんて憎まれ口を叩きながらもずっと心の中にはとどめていた。
賄いつきのアルバイトを始めた時、これで食べるものには困らないなと思った。
それから、規則正しい生活が始まり睡眠もなんとか確保できるようになった。
制欲だけはどうにもならなかったけれど、もうこれに関してはどうしようもないと諦めているので放っておいた。
だって空港であんな出会いがあると思っていなかったから。
一人暮らしの下見をしている時、上京する少し前に兄と東京見物をかねて物件を見て回ったりご飯を食べに行ったりと数日を共に過ごした。その時に色々と話をしてもらったが、そのすぐ後にまさかあいつと再会するなんて思わなかった。それから度々ご飯を食べに行き、再びスマホの通知が鳴るようになった。それだけでもう、高校3年間とは比べ物にならないくらい自分にとって希望に満ちた日々になっていた。絶対にあいつには見せないけれど、夜勤明けのひどい眠気も、試験のプレッシャーも友人からの誘いも隣人の騒音もあいつからの連絡ひとつでその全てがただの日常に成り下がり、あいつと会うその瞬間までの繋ぎでしか無くなってしまう。一つ一つと真剣に向き合うと辛かったり悩ましかったりするのかもしれないけれど、まぁあの日までの繋ぎでしかないしと割り切れば意外と苦もなくこなせるものだった。
だからか、会った後の喪失感が凄まじいのだ。
これは、俗にいう賢者タイムなのかもしれない、なんて思うこともあった。
あいつは断続的に会いにきてくれるけれど、いつまた連絡が取れなくなるのか心の中でいつも不安に思っていて、それがむくむくと大きくなると水の中に潜ったように息が苦しくて身動きが取れなくなってしまう。
「ごちそうさまでした。今家につきました」
別れた後に送るメッセージには大抵、数時間後に既読がつき返事が送られてきた。それを見て、少し不安が解消される。それから、次は○日にいくよ、何か食べたいものある?元気?などのメッセージが届き、また希望がむくむくと大きくなっていってあいつに会える日に破裂寸前まで膨れ上がっていくのだ。
「聡実くん、お勉強大変?」
肌寒い日、いつものように朝集合して定食屋で海鮮丼を食べているときにそう尋ねられた。いつも親戚のおじさんのような質問をしてくるけれど、今日の声色は少し暗くて真剣さを感じた。
「お勉強、大変ですよ。試験中なんで」
「そうなんや…大学の試験て難しそうやね」
「…難しいていうか長いんです。あらかじめ本を読んでおかなあかんとか、1時間ずっと筆記し続けるとか」
「うわぁ、俺無理」
「僕もこんなやと思えへんかった。けどまぁ、大変やけど苦ではないので」
「へぇー、そう。すごいなぁ」
フライの盛り合わせを頬張りながらあいつはそう言った。すごい、と言われるのはまんざらでもない。
「テストいつまで?」
「今週終わります」
「そうなんや」
あいつはスマホを取り出して何かを確認しはじめた。仕事の予定だろうか、別れが近づいてきていることをひしひしと感じてまた少し暗い気分がぶり返してくる。
「週末、何してんの」
「え、いや…バイト明けなので多分寝てるか買い物行ったりとか、家事したりとかかな」
「そうか」
じっと黙り込んだかと思うと、いつものようにニヤリと笑ってからまたフライを頬張り始めた。猫舌なんだからゆっくり食べればいいのに、熱そうな料理から頬張るせいで額には汗が浮かんでいる。出されたお茶も湯飲みが持てないほどの温度であいつは辛そうだ。
「狂児さん、今日帰るんでしたっけ」
「ん、そう」
「お疲れ様でした」
「いやまだ早いわ」
ハハハと笑う顔が憎らしい。額に汗を浮かべてさっさと食事を終らせるのも、訳わからない質問を中途半端に終わらせるのも、自分と会ったらさっさと帰ってしまうのもムカつく。
店を出てから駅までの道すがら、コンビニに立ち寄った。タバコと雑誌とガムを手に取った後、レジ前の栄養ドリンクの棚の前でしばらく悩んでから一本手に取って会計を済ませた。
「お待たせ」
「いえ」
「これ、あげる」
そう言って手渡してきたのは栄養ドリンクだった。
「…ありがとうございます」
「今飲まへん方がええと思うよ。家帰って寝るんやろ、起きてから飲んだら」
「そうですね、寝れなくなったらいやなんで」
「うん」
そう話すあいつの顔はやっぱり親戚のおじさんみたいにニヤニヤとしていてイライラした。そんなに嬉しいんか、僕と別れるのが。
下を向いてムッとしたまま、あいつと別れてアパートまで早足で帰った。
また終わってしまった。
心臓がドキドキと高鳴って、汗が吹き出してくる。「家つきました。ご飯ご馳走様でした」そうメッセージを送って布団に潜り込んだ。今週は週の後半からしかバイトを入れていない。一眠りしたら勉強して試験対策しようと思い布団に潜り込んだ。
それから3日後に試験が全て終わった。
終わった解放感を楽しむ間も無く翌日、翌々日とアルバイトを詰め込んでいたので休まずに働いていた。するとなんとなく体調が悪くなってくるように感じた。体が重く、関節が痛い。肩で息をしているというか呼吸をするのも辛くて立っているのがやっとだった。なんとかシフトを終えて家にたどり着くと玄関に倒れ込んだ。
目の前の冷蔵庫に、あの日に買ってもらった栄養ドリンクがあることに気がつき、手だけで這い上がると冷蔵庫を開けて中を確認した。ドリンクホルダーに一本だけ残されたそれを一気に飲み干して大きくため息をついた。
5分ほどすると少し体がラクになったので起き上がってシャワーを浴びてから布団に倒れ込んだ。頭が痛くて呼吸が苦しい。
「最悪や」
声に出してみると、喉がひどく痛くてガサガサの声が漏れ出てきた。さっきまで普通に話していたのにこんな急に悪化するとは思わず、自分でひどく驚いてしまった。
その時、スマホが鳴った。メッセージの通知音ではなく、通話を知らせるコール音だった。
「はい、もしもし」
喉の奥から搾り出すようなガサガサの声。ろくに画面を確認せず通話ボタンを押したけれどふと考えてみると「成田狂児」と表示されていたような気がした。
「あ、聡実くん?今家?」
気がつくと同時にあいつの声が飛び込んできた。
「…はい。家です」
「風邪ひいてる?」
「なっ」
取り繕うように嘘をつこうとしたけれど、こんな声ではバレバレだと思い。素直に「はい」とこたえた。
「蒲田ついたから今からいくわ。おかゆなら食べれる?」
「え、おかゆ…」
「嫌いか?」
「苦手です」
「そうか…ほなうどんは」
「こっちのうどん、味濃いので喉に沁みそうやな」
「あぁそらあかんわ」
「体壊した時、狂児さん何食べるんですか」
「俺?ラーメン」
「ラーメン?」
「そう、ニンニクとしょうがいっぱい入れたやつ」
「うまそうやな」
「お、作ったろか」
「…ていうかさっき、蒲田いるって言ってました?」
「言うた。ていうかもう着く」
「嘘やろ」
「鍵だけ開けといて」
そう言うと通話を終えた。
慌てて飛び起きて玄関に行き鍵を開けた。扉を開けて外を覗いたが、あいつの姿は見えない。少しホッとして、靴を揃えたり簡単に掃除したりしてから布団の上に座った。
「こんにちは」
ぼーっとしていると、あいつの声と共に玄関の戸が開いた。
「あ、いらっしゃい」
「ん、寝てて」
あいつはひょこっと顔を出すと当たり前のように家に上がり込み、手際よく台所を使い始めた。
「あの、なんで」
「ん?」
「なんで、今日来たんですか」
「あぁまぁ…この前顔色悪かったから、体調崩すなら今日くらいかなぁ思って」
「何それ」
勘の良さに少し薄寒い驚きを感じながら、厚意に甘えて布団に潜り込むことにした。鍋で湯を沸かしている音と共にあいつの鼻歌が聞こえてきた。曲はもちろんあの曲だ。相変わらず気持ち悪い。
「出来ました」
「…うまそう」
「美味いでー」
「いただきます」
器からほかほかと立ち上る湯気、その向こうでニヤニヤ笑うあいつの顔が歪んできた。涙が頬を伝って落ちていったと気がついたのと同時くらいに、あいつが驚いた顔を見せた。
「え」
「す…すみません」
「あ、いやええけど。そんな辛かったん」
「つ、辛いとかやないけど、なんか、家におるなって…いや、この前会ってからあんまり時間経ってへんし、しばらく会えへんと思ってたから」
目頭が熱く、とめどなく涙が溢れてきてグスグスと鼻水まで出てきた。これは風邪のせいなんだと言い訳しようかと思ったが、もう言葉を探すのもめんどくさかった。
「会えへんと思ってたから、急に現れると刺激が強いねん。しんどい。なんで急にくるねん」
「…ごめん」
「謝るな。嬉しいし」
「そう」
「ラーメン、ありがとうございます」
「素直な聡実くん気持ち悪いな」
「あ?」
「ふ、うそうそ。麺伸びるからはよ食べて」
そう言って笑うあいつの顔は相変わらず親戚のおっさんみたいだし、だけど僕がラーメンを啜る間ずっと目尻を下げて我が家でリラックスしている姿は恋人…に見えないこともないかな、と思うと気分がいい。
「会いたかった?」
急な問いかけに息を呑む。口に頬張ったラーメンが咀嚼できなくて咽せそうになった。
「…う、」
「う?」
「嬉しい…ってさっき言うたやろ」
ラーメン越しにそう呟くと、狂児は満足したようにハハハと声をあげて笑っていた。