ミオリネ・レンブランの冒険3 二月十四日の朝、教室で顔を合わせるなり、スレッタは興奮した面持ちでわたしに駆け寄ってきた。
「ミオリネさん、おはようございます!」
「いよいよ決戦のバレンタインですね」
「昨夜はよく眠れましたか?」
「クッキー、ちゃんと持ってきましたよね。お家に忘れちゃったりしてませんよね」
矢継ぎ早にたたみかけてくるスレッタを「ちょっと、落ち着きなさいよ」と宥める。「子どもじゃないんだから」
カーディガンの肩をすくめて、スレッタがてへっと舌を出す。
「ミオリネさんがバレンタインに前向きになってくれたことが嬉しくて」
――そう。遡ること三日前の金曜日、シャディクと別れた後、わたしはスレッタに連絡し、日曜日にスレッタの家でチョコレートを作る約束を取りつけたのだ(『というわけで、あんたの家に行くからよろしく』『ええええわたしの家でですか?』『誘ったのはあんたなんだから責任取りなさいよね』みたいなやりとりがあったとかなかったとか)。なりゆきとはいえ、友達の家でお菓子を作るなんて初めてだったから、わたしはちょっとドキドキしていた。
ちなみに、チョコレートではなくクッキーを作ろうと言い出したのはスレッタだ。クッキーにした理由は、スレッタ曰く、
「チョコレートを作りましょうって言いましたけど、念には念を入れて、クッキーに変更しました。初心者さんでも比較的失敗が少ないみたいですし」
気を遣われているのかなめられているのか、何だか釈然としない理由だわ。もっとも失敗は絶対に避けたいから、わたしは素直に了承した。
そんなこんなで日曜日の昼下がり、わたし達は駅前のスーパーで待ち合わせをし、クッキーの材料とラッピング用品を調達してからスレッタの家へ向かった。
「チョコチップをたくさん入れましょうね」と、スレッタは終始上機嫌だった。
「ミオリネさんにとっておきのおまじないを教えなきゃですし」
「おまじない? そういえば、そんなこと言ってたわね。どんなおまじないなの?」
わたしが訊ねると、よくぞ訊いてくれましたとばかりにスレッタが目を輝かせた。声を弾ませて、
「チョコチップを入れるときに、心の中で『あなたのことが大好きです』って三回唱えるんです。そうしたら相手に気持ちが伝わるんですよ」
「唱えるだけ? ずいぶんお手軽なおまじないね」
「おまじないだからって、ばかにしちゃダメですよ。『チョコレートは恋の秘薬』という言葉があって、チョコレートはその昔、恋を成就させるための儀式にも使われていたという神秘的な食べものなんですって。わたしにおまじないを教えてくれたおねえさんによると、おまじないの効き目は百発百中効果てきめんだそうです!」
少し得意げに、スレッタはふふんと鼻を鳴らした。
恋を成就させるための儀式などという胡散臭い匂いを撒き散らすワードが気になったものの、同時に深追いしてはいけない気もしたので、わたしは直感に従うことにした。
さて、クッキーの材料は、バター、グラニュー糖、卵、薄力粉、ベーキングパウダー、そしてチョコチップ。
市販のチョコチップを使うという選択肢もあったけど、よりたっぷりゴロゴロ感を出すために、ミルクとビターの板チョコを包丁でざくざく刻む。
「ミオリネさん! 指! 指は引っ込めて! ああっ!」
レンジにかけてやわらかくしたバターをボウルに入れ、泡立て器でクリーム状にする。
「バターが飛び散ってます! 力加減!」
グラニュー糖を加えて、よく混ぜる。
「目分量は失敗のもとです! ちゃんと計りましょう!」
卵を加えて、さらによく混ぜる。
「殻が! 卵の殻が入っています!」
薄力粉とベーキングパウダーをふるい入れ、
「ふるいすぎです!」
粉っぽさがなくなるまでゴムベラでさっくり混ぜる。
「混ぜすぎです! かたくなっちゃいますよ!」
「いちいちうるさいわね」
スレッタはそれなりにスパルタだった。
ボウルにどかどかとチョコチップを入れ(『ミオリネさん、おまじないの言葉をちゃんと唱えましたか?』『…………』『ミオリネさん!』『……せっかくだから唱えてやったわよ』)ゴムベラでかき混ぜて、クッキー生地が完成した。
「ハートのかたちにしちゃいますか?」
「絶対嫌」
天板に敷いたオーブンシートの上に間隔をあけて生地を落とし、軽く形を整える。予熱したオーブンで十五分ほど焼く。
使い終わった泡立て器やボウルなんかを洗っているうちに、オーブンから甘い香りが漂ってきた。
「上々のようですね」
鼻歌なんか歌っちゃって、スレッタはすこぶるご機嫌だ。
「楽しそうね」
「はい! 楽しいです!」
にこっと笑って、
「わたし、お友達と一緒にお菓子作りするの初めてで。だから、とっても楽しいんです」
「奇遇ね」
すすぎ終わったスプーンをキッチンクロスで拭きながら、わたしはつぶやいた。
「わたしもよ」
「ミオリネさん……」
睫毛をふるわせて、スレッタはくすぐったそうに肩をすくめた。
「そういえば、あんたはどうなのよ」
「え? わたし……ですか?」
「あんたは、チョコを渡したい相手はいないの?」
「ふぇっ」
スレッタの声がひっくり返る。額に汗が浮いて、頬にさあっと赤みがさす。この反応、さては――
「いるわね」
「いいいいいませんよう」ぶんぶんぶんぶんかぶりを振って、「わ、わわ、わたしのことはどうでもいいんです。今はミオリネさんとシャディクさんのことの方がずっとずっとずっと大事です!」
「ふうん」
ごまかしてんじゃないわよ、吐いちゃいなさいよ、とつついてやりたかったけど、一緒にクッキーを作ってくれたから、今日のところは見逃してあげるわ。
「ねえ、前から一度訊いてみたかったんだけど、どうしてあんたってそんなにわたしとシャディクの仲を気にしているの?」
「え? そ、そうですね。あんまりちゃんと考えたことないんですが……」
スレッタは指をもじもじさせた。
「ミオリネさんとシャディクさんを見ていると、わあ、幼なじみってこんな感じなのかなって。少女漫画で読んだのと同じだって」
「勝手に漫画に重ねてんじゃないわよ」
「ご、ごめんなさい! でも、漫画のようにはいかないこともたくさんあるんだなあって、そんなことも思いました」
「そりゃあ生身の人間だもの。わたしにはわたしの、シャディクにはシャディクの意思があって、誰かが考えたシナリオ通りに生きているわけじゃないんだし。あんただってそうでしょ?」
「はい!」
力強く頷いてから、スレッタは「あ、でも」とエプロンの胸を手で押さえた。
「漫画の世界って定番というかお約束な展開がてんこ盛りじゃないですか」
「王道パターンってヤツ?」
「そうです! ヒロインとヒーローが親の都合で一緒に暮らすことになったり、階段から足を滑らせたヒロインをヒーローが抱き止めたり、そういうのは漫画の中だけにしか存在しないことだって思っていました。でも、そんなことはなかったんです。ミオリネさんとシャディクさんを見ていて、現実の世界でも、ああ漫画と同じだ、漫画と現実の垣根を越えてこれは真理なんだって感じたことがあったんです」
「ずいぶん大げさね」
で? それって何よ? と訊くと、スレッタはこぼれるような笑みを浮かべて、自信たっぷりに言い切った。
「幼なじみのふたりは、どんなことがあったとしても、結局両想いなんですよ」
そんなこんなで、昨日作ったチョコチップクッキーは、ラッピングを施されてスクールバッグの中で待機している。
と、何かに感づいたようにスレッタがぴくりと眉を動かした。つぶらな瞳で上から下までわたしをまじまじと見つめる。
「今日のミオリネさん、いつもとちょっと違う感じがします」
「気のせいじゃないの」
「ええっ、そうですか? でもでも、いつもより髪の毛のサラつや感が増していますし、お肌もいつもより透明感があふれていますし、唇もいつもよりぷるぷるしてますし、睫毛もいつもよりくるんとしてますし、爪だっていつもよりぴかぴかですし」
「気のせいよ」
「いつもより気合い入ってますよね」
「だから気のせいだってば」
わたしはそっぽを向く。落ち着かなくて朝の五時に目が覚めてあれこれやっていたなんて絶対言うものか。
「それでそれで、いつ決行しますか?」
「そうね……」
今日のシャディクは予備校で帰りが遅くなるから、できれば学校で渡したい。できるだけさりげなく、自然な感じで。
とすれば、狙いは放課後だ。
一年生の教室はHR棟の四階、二年生の教室は三階にある。わたしが立てたのは、教室を出たシャディクを待ち伏せして、前に借りた本を返すついでにクッキーを渡すという作戦だ。
いつもより体感時間で五倍は長く感じた授業がようやく六コマすべて終わり、わたしは放課後を迎えた。
クッキーが入ったスクールバッグを提げ、スレッタと連れ立って階段を下りているときだった。四階と三階のあいだの踊り場を回ろうとしたところで、
「シャディクくん、教室にいないよね」
「チョコ渡したかったのにー」
「どこいっちゃったんだろ」
「もう帰っちゃったのかなあ」
女子生徒のグループが、ざわめきながら階段室の前を通り過ぎていく。
踊り場の真ん中でわたしとスレッタは立ち止まった。顔を見合わせて、
「シャディクさん、教室にはいないみたいですね」
「そうね」
「今どこにいるのか、メッセージで訊いてみますか?」
「嫌よ。こっちから会いたいって言ってるようなものじゃない」
いやいや実際今から会いにいこうとしてるんですけどね……とつぶやいて、スレッタが首を傾げる。
「弓道場とか?」
「どうかしら。うちの弓道部はけっこうゆるく活動してるから月曜は自由参加の日だし、今日は予備校もあるから出ていないと思うわ」
「ミオリネさん……、どうしてそんなにシャディクさんのスケジュールを把握しているんですか?」
「え? べ、別に、幼なじみだからたまたま知ってるだけよ」
「ふふっ。さすが幼なじみですね」
百聞は一見に如かずです、とりあえず見に行くだけ見に行ってみましょうよというスレッタの助言を受けて、弓道場へ行くことにした。昇降口へ向かうため三階の渡り廊下を渡る。
もうすぐ渡り切るというところでふと視線を窓の外へ向けると、斜め下、特別教室棟の二階の窓越しに、シャディクと数名の女子生徒が机を寄せているのが見えた。あそこは生徒向けのミーティングルームだ。
スレッタも気づいたみたいだ。
「ミオリネさん、あそこ」
「ええ」
目を凝らす。
シャディクは椅子に座っていて、寄せた机を囲むように女子生徒が立っている。その中のひとり、前髪をセンターで分けたボブカットの女子生徒がシャディクの前に箱を置いた。ピンク色のリボンをほどき、じゃーんと効果音がついているようなしぐさでふたを開ける。箱の中身はチョコレートだ。宝石みたいにきらきらしたショコラの詰め合わせ。よく見れば、ポニーテールの女子生徒もツインテールの女子生徒もロングヘアの女子生徒も、それぞれチョコレートの箱を手にしている。
楽しげな様子で何やら話している女子生徒達に視線をやって、シャディクが笑う――すごく楽しそうに。
すうっと血の気が引いていくようだった。
――シャディク。ねえ、シャディク。その子達からチョコレートを受け取るの?
心の中に暗くて重たい霧が立ち込める。
わたしの隣で窓ガラスに手を当てていたスレッタが、意気込むように鼻を鳴らした。
「シャディクさんのいる場所が分かりましたね。遅れをとってはいけません。さあ、行きましょう」
「……かない」
「ミオリネさん?」
「わたし、行かない」
声にならない声で「帰る」とつぶやいて、わたしはその場を駆け出した。
背後からわたしの名を呼ぶスレッタの声が聞こえるけれど、振り返ることも立ち止まることもできなかった。
下校中の生徒達の間をすり抜けて校門を出る。さらに数十メートル進んだところで立ち止まる。息が上がる。左胸が締めつけられるように痛むのは、全力疾走してきたからだけじゃない。
渡り廊下から見た光景が甦る。
頭を振って振り落とそうとしても、目の奥にこびりついて離れてくれない。
楽しそうに笑っていた女子生徒達。
楽しそうに笑っていたシャディク。
シャディクを好きな女の子はたくさんいて、シャディクが誰からチョコレートを受け取ってもそれはシャディクの自由で。わたしが口出すことじゃなくて。ただの幼なじみのわたしに口出す権利なんてなくて。
ミーティングルームで女子生徒達がシャディクに渡していたチョコレートは、遠目だったけどとてもおいしそうに見えた。カラフルで華やかで、わたしのクッキーとは雲泥の差。
クッキーが入ったスクールバッグを手で押さえる。こんなの、渡せない。シャディクに渡せない。
どこをどう歩いたのかも定かでないのに、いつの間にか家に帰りついていた。
おかえりなさいと出迎えた家政婦さんに「ひとりにして」と言い置き、わたしは自室へ飛び込んだ。スクールバッグもコートもマフラーも部屋の隅に投げ捨てて、そのままベッドに突っ伏した。
「スレッタに連絡しなきゃ……」
目を上げる。乱暴に扱ったせいか、スクールバッグのふたが開いて、バッグからクッキーの袋がのぞいているのが見えた。
渡せなかったクッキー。
捨てればいい。
用なしになったクッキー。
捨てちゃえばいい。
――ダメ。
ダメ、そんなのダメよ。
捨てられない。捨てることなんてできない。
のろのろと起き上がり、わたしはクッキーの袋を手に取った。ひまわり色のリボンが結ばれたパッケージを胸に抱きしめた。
かわいそうね、おまえ。
いいわ、わたしが食べてあげる。
ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ――クッキーに込めた想いごと、おまじないの言葉ごと――自分で食べてしまおう。食べ切ってしまおう。
頭まで毛布にくるまって、ベッドの上にぺたんと座る。ひまわり色のリボンをほどく。甘い匂いが鼻をつく。
チョコチップクッキーを一枚つまみあげ、かじる。
「――悪くないじゃない」
そりゃそうよ。味見をして、特に上手に焼けたものばかり選んだもの。
二枚目、三枚目と、クッキーを口に運ぶ。唇の熱でチョコチップが溶けていく。
「おいしいって、言ってくれたかしら……」
シャディクに渡していたら、おいしいって言ってくれたかしら。
上手にできたねって言ってくれたかしら。
わたしのクッキーを喜んでくれたかしら。
――あんなふうに笑ってくれたかしら。
「渡す勇気もなかったくせに、期待しちゃって、ばかみたい……」
クッキーの輪郭がぼやりとにじむ。まぶたが熱い。
最初のひとしずくが静かに頬を伝って、堰を切ったように溢れ出した涙があとからあとからこぼれ落ちる。
ねえ、シャディク。
他の女の子に笑いかけないで。
他の女の子のものにならないで。
「シャディ、ク……」
――あなたのことが大好きです。
「すき」
――あなたのことが大好きです。
「すき」
――あなたのことが大好きです。
「すきなの……」
――わたし、シャディクがすき……。
わたしに笑いかけて。わたしの名前を呼んで。わたしと手をつないで。わたしを抱きしめて。
――わたしを好きになって。
ぽろぽろ、涙が止まらない。
最後に飲み込んだクッキーのかけらは、ほろ苦くて甘い、恋の味がした。