反対方向のふたり 三月になったばかりのその日は、良い天気だった。
日中は日差しがよく届いて暖かかったけれど、日が落ちると気温がグッと下がる。西の端っこが茜色をしていて、東へ行くほど藍色になっていく空には、一番星が輝いていた。
平日の黄昏時の駅前は、家路を急ぐ人でいっぱいだ。駅の建物には、ひっきりなしに通勤客が出入りしている。混雑しているのに、黙って足早に歩いている人が多いので、賑やかという感じがしない。いろんな歩調の足音と車の音、駅を発着する電車の音ばかりがよく聞こえて、人の話し声は雑音に紛れてよく聞こえない。
駅前広場に設置された、不思議な形をした謎のオブジェは、待ち合わせの目印としてよく使われている。人混みの向こうに鮮やかな色彩のそれがチラリと見えて、杉元は足を速めた。そして、いつもの癖で腕時計の時刻を確認しようとした。遅刻なのは重々承知だけれど、何分遅れか気になったのだ。だが、すぐに手首には何も着けていないことを思い出す。
ずっと使っていた、お気に入りの腕時計が壊れてしまったのだ。安物だったけれど見やすかったし、いつも着けていたから手首によく馴染んでいた。時刻を確認するのを諦め、人混みを縫いながら進むと、どちらが裏か表かもよくわからないオブジェのそばに立つ鯉登の姿が見えた。
オブジェの周りには、他にも待ち合わせをしている人が多くいた。遠くから声をかけると注目を浴びそうだったので黙って駆け寄ると、鯉登はすぐに気づいたらしい。形の良い唇を真一文字に結んだ表情は、ほんの少しだけ不機嫌そうだ。
「ごめん! 遅くなった」
鯉登のそばまで近寄ってから、遅刻を詫びる。すると、鯉登は不機嫌そうな表情を崩さずに応じた。
「三十分の遅刻だな」
「う……悪かったって」
待ち合わせの時刻は十八時。充分間に合う予定だったのだが、朝から入れていたコンビニのバイトの、夕方から交代する予定だった人が寝坊したとかで遅刻したのだ。店長から、彼が来るまでいてほしいと言われ、断れなかった。もちろん、遅れることがわかった時点で鯉登に連絡を入れている。
すると、不機嫌そうに唇を結んでいた鯉登の表情が、ふっと和らいだ。
「冗談だ。遅刻の理由は聞いているからな」
「お、おう……」
鯉登は冷たい印象を与えがちな、良くも悪くも近寄りがたい見た目をしているが、実際は表情豊かだ。ただ、感情表現が激しいので、先ほどみたいに柔らかく微笑むだけで終わることは稀だ。滅多に見ない表情を見て、杉元はうろたえてしまった。別の言い方をすれば、うっかりドキッとしてしまった。
「あー……腹へったな」
ドキッとしたことを悟られたくなくて、杉元は誤魔化した。腹が減っているのは本当だが。柔らかな笑みを引っ込めた鯉登は、今度はさも当然という顔をした。
「店を予約してある。行くぞ」
「マジで? やった」
鯉登が予約する店といったら、そこらへんの居酒屋とかリーズナブルなレストランなわけがない。今日は奢ってもらえることがわかっている杉元は、素直に喜んだ。一つ違いとはいえ年下だし、対等な関係ではあるのだけれど、食事の代金を全額出してもらうことに抵抗がないのは、相手が鯉登だからだ。
初めは、ちゃんと割り勘にしたいとか、貰ってばかりは嫌だとか、いろいろ言っていた。だが、バイトを掛け持ちする苦学生の杉元と、大金持ちの家に生まれた鯉登では、あまりにも金銭感覚が違いすぎた。杉元が逆立ちしたって払えっこない金額がポンと出てくるのだから、次第にどうのこうの言うのが馬鹿らしくなってきて、そのうち鯉登の好きにさせるようになった。
夜の帳が降りた街は、店のネオンや車のライトや道行く人の足音、話し声、いろんな喧騒に包まれて、きらびやかで賑やかだ。駅からそう遠くない店だというので、二人で並んで歩いた。道すがら交代のバイト君が遅刻した話をしたら、鯉登はそいつはクビにならないのかと言った。今まで遅刻したことないみたいし、一回じゃクビにはならないだろ、と返したら、そういうものなのかと腑に落ちない顔をしていた。
鯉登が連れて行ってくれた店は、本場のスペイン料理が食べられるというレストランだった。ドレスコードやしゃちほこばったマナーは不要と言われて安心した杉元だったが、店内は上品な調度品や内装でまとめられていて、いかにも高そうな雰囲気だ。
「どうせメニューを見ても杉元にはわからないだろうから、コースを予約しておいた」
鯉登が得意げに言う。メニュー表がなくて何を頼んだらいいかわからないと思っていた杉元は、金持ちのボンボンのお心遣いに内心苦笑した。これで悪気がないのだから、ある意味タチが悪い。
「そりゃ、ご丁寧にどうも」
「食えないものはなかったな?」
「イナゴ以外なら何でも食える」
杉元が答えると、鯉登は安心したように頷いた。嫌味を嫌味と思っていない金持ち天然ぶりを発揮したかと思えば、奢る相手の苦手な食べ物を気にしたりする。そういう奴だということは、もう知っている。
運ばれてきた料理は、どれも美味しかった。スペイン料理と言われてパッと出てくるのがパエリアくらいしかなかった杉元には、名前を言われても憶えられる自信がなかったが、旨ければ何でもいい。
メインディッシュの肉料理を堪能し、安価で質が良い(らしい)ワインも飲んで心地良い気分になった頃、鯉登がおもむろにテーブルに小さな箱を置いた。
「何だこれ」
「何って、誕生日プレゼントだ」
「ええ?」
今日は杉元の誕生日だ。忘れていたわけではない。元からそのつもりでご馳走になったのだから。だけど、プレゼントまで用意されているとは思っていなかった。
「奢ってくれるだけでよかったのに」
と言いつつも、プレゼントは素直に嬉しい。開けてみろと鯉登が言うので、お洒落で高級感のあるデザインの包装紙を丁寧に剥がす。頑丈そうな箱の蓋を開けると、中に入っていたのは腕時計だった。
「すげ……」
思わず、杉元は感嘆の声を漏らした。お気に入りだった腕時計が壊れた話は鯉登にもしていたし、修理に出すほどの物でもないから、新しいの買おうかなあなんて言っていたばかりだ。
だが、杉元が驚いたのは鯉登の気遣いに対してではない。腕時計のことを気にしてくれていたのは嬉しいけれど、驚いたのは、高級感溢れる箱の中で存在感を放つ誕生日プレゼントそのものだ。
「これ、いくらしたんだ?」
「値段か? どうだったかな。憶えていない」
「マジか……」
以前、ブラックカードというものを見せてもらったことがある。買い物について行った時に鯉登がそれで支払っていたのだが、店員の腰が異様に低かったのが印象深かった。そんなもので買い物をしていたら値段なんて気にしないのだろうから、憶えていないのも無理はない、かもしれない。
安物しか持ったことがない杉元でも、鯉登からの誕生日プレゼントが、かなりのお値段がする代物だということはわかる。腕時計は上を見ると車やマンションよりも高かったりするので、さすがにそこまでの超高級品ではないだろうと思いながらも、もしそうだったらどうしようと考えてしまう。いやでもどちらかというとカジュアルなデザインだし、ネットとかで見るべらぼうに高いやつほどではないはず。そうだと言ってくれ。
「……気に入らなかったか?」
あまりにも分不相応な贈り物に杉元が絶句していると、鯉登の暗い声がした。腕時計から目を上げると、テーブルの向こうの端正な顔がどんよりと曇っている。喜怒哀楽の起伏が激しいので、「哀」の時の表情もわかりやすい。
「え、あ、いや、そうじゃねえよ! ええと、ありがとな」
「無理するな。嫌ならそう言え」
そう言いながら、鯉登はすっかりしょげ返ってしまっている。気に入らないわけでも嫌なわけでもない。ただ、さすがに貰うには気が引けるプレゼントなのだ。誤魔化しても納得しないだろうから、杉元は戸惑っていることを素直に伝えた。
「いや、だってよ。こんな高そうなの、俺に似合わないだろ」
高そう、とか言っちゃうところが我ながら庶民だと思いながら、杉元は腕時計を指差した。すると、しょんぼりしていた鯉登の顔が、急に得意げになる。
「そんなことはない。お前に似合う物を選んだつもりだ。もっと己に自信を持て」
「自信、というかさ……」
そういう意味で言ったわけではないのだが、鯉登に「高級すぎて気後れしている」などと言ったところで、理解してもらえないだろう。金銭感覚だけじゃなくて、生まれ持ったものや育ちが違えば、考え方とか価値観とか、いろんなことが違ってくるのだ。
杉元は、自分のために鯉登が買ってくれた腕時計を眺めた。高そうだというのはわかるのだけれど、そんなにかしこまった感じがしないというか、普段着ている服とも合いそうなデザインだ。文字盤の数字は大きめで時刻が見やすいし、ベルト部分がラバー素材なので、汗かきにはありがたい。
鯉登が気にしたのは値段ではなくて、どれが杉元に似合うか、気に入ってもらえるかなのだ。数多ある商品を見比べて悩む姿を想像したら、なんだか可笑しくなってきた。
「着けてみていいか?」
「勿論だ」
お気に入りの腕時計が壊れてから、なんとなく寂しかった左手首に、生まれて初めて手に取った高級腕時計を着ける。新品のベルトはすぐには肌に馴染まなくて、なんだかごわごわする。だけど、そのうち慣れるだろう。
安物が悪いわけでも、高級品が優れているわけでもない。ただ、気持ちがこもっているのがわかるから、嬉しい。
「ありがとう」
今度は戸惑いも気後れもない、素直なありがとうが言えた。プレゼントを嬉しそうに眺める杉元を見て、鯉登はほんの少しの間ぼうっとした後、なぜかソワソワし始めた。
「なんだよ急に。どうしたんだ?」
「あ、いや……よ、よく似合ってるぞ」
「え……お、おう……」
鯉登が照れながら褒めるので、つられて杉元も照れてしまった。気まずいというか気恥ずかしい空気がテーブルに流れたところで、コースの最後のデザートが運ばれてきた。
夜の公園は、人通りが少ない。まだ遅い時間ではないけれど、明日も平日だし、吹き抜ける風も冷たいし、ベンチに座っている人もいない。
スペイン料理の店から駅まで、公園を通ったら近道だと言ったのは杉元だった。その時、鯉登が少しだけ寂しそうな顔をしたのは、たぶん気のせいではない。近道をしたらちょっとだけ早く駅に着いて、ちょっとだけ別れるのが早くなるからなのかも、と気づいたのは、入口に設置してある車止めを抜けて、公園内に入ってすぐだった。また明日も会えるのにバカだなあなんて、口には出さないけれど。
駅に着いたら、別々の電車に乗ってそれぞれの家へ帰る。帰る方向も、生まれた境遇も育った環境も真逆だけれど、結構上手くやってると思う。だからたぶん、それでいいんだろう。
「今日はありがとうな。おかげで良い誕生日になったぜ」
歩きながら改めて礼を言ったら、鯉登が立ち止まった。なんだか神妙な顔をして、じっと杉元を見つめる。
「なんだよ」
表情が豊かでわかりやすい奴だが、今の鯉登にどんな感情が生じているのか、杉元にはわからなかった。ちょうど街灯と街灯の中間くらいの位置で立ち止まったから、ちょっと陰になっているのもあって、綺麗な顔に凄みすら感じる。
「こいと……?」
鯉登の手が、腕時計をしていない杉元の右手首を掴んだ。悪意のある手ならば咄嗟に投げ飛ばしてしまうところだけれど、そうじゃないことを知っているから、反応が遅れた。怒っているように見えなくもない顔が近づいて、柔らかな唇の感触が、唇を掠めた。
触れるだけですぐに離れた吐息と一緒に、春にはまだ少し早い風に晒された冷たい指先も離れる。杉元は思わず口を押さえて、うっかり変な声を上げそうになるのを何とか堪えた。
「おま……っ! ここ外だぞ」
「誰も見ていない」
とか言いながら、薄暗い中でもわかるくらい、鯉登の頬が赤くなっている。自分もきっと赤くなってるんだろうなと思いながら、杉元はまだ近い位置にある端正な顔から目を逸らし、近くにいないと聞こえないであろう小さな声で呟いた。
「……もうちょっと、遠回りして帰るか」
すると、とてもとてもわかりやすく鯉登の顔が明るくなった。先ほど離れた手が、再び杉元の手を掴む。今度はぎゅっと握られて、掌のあたたかい感触が、じわりと伝わってくる。
「もし終電を逃したら、タクシーで帰ればいい」
「……金出してくれ」
そういえば、鯉登は滅多に電車に乗らないのだった。来た道を戻り、公園から車通りの多い道へと出る。どこか行きたい所は特にないけれど、二人でぶらぶら歩いてみるのもいい。雲のない夜空に輝く月は遠くに見えて、まだまだ街は賑やかだ。