歪んだ愛の物語「あのさあ。なんでいつも触っちゃ駄目なの」
手際よく止血し、包帯をきつく巻き、服を替える彼にされるまま、不本意ながらおとなしくじっとして何度目かの問いをする。動こうにも力が入らず動きようがない。じくじくとした痛みに視界が明滅して、あ、これは落ちるかもな、といい加減察しもつくようになった。
丁寧にナイフを拭い始めた彼は、その気もないのに掴んでいいわけないでしょ、というようなことを、やはり毎度同じ調子で返してくる。聞くに飽いた問答。彼の言う「その気」が何なのかもわからなければ、自分が手を伸ばしたい衝動の正体も謎のままだった。
癪だ、とは思うけれど。解くまではやめられない。
床の血は今日は少ない。代わりにおろしたての紬がまた一着駄目になった。あーあ、この色気に入ってたのに。よく吸う生地だったらしく、かなり広範囲がどす黒く染まってしまった。
ひとつ、景色が暗くなる。「眠い」とはきっとこの感覚に近いのだろう。完全に意識を手放す前にと、思いつく限りのクレームを並べ立てるが、僕の言葉はもう軽い埃のように舞うだけだ。
「刺すのはいいけどさあ、前触れないのやめてくんないかな」
自覚ないんですね、という意味で彼が何か言う。
「何それ、僕が悪いってこと?」
そうですよ、と言ったのか、悪びれもなく彼が頷く。
「……名前、とか、褒め言葉とか? 僕に言われたとして何が楽しいの」
彼の姿がぼんやりと遠のいて、返事は聞こえなかった。
目を閉じる。たぶん、閉じていると思う。見えないと読めないから、眠るのは嫌いだ。けれど今は、現実が本よりずっと熱を帯びて、退屈を感じるにはどうにも痛みが強すぎた。
刺すのはいいけどさあ、――いいわけないだろ。この人、なんで捕まってないんだろう。警察も病院も避けようとしたら、何故か、ナイフを握る張本人が手当ての腕を上げてしまった。最近は急所を外すのもうまくなって、腹立たしいので深く突こうと手を出しかけたら怒られた。既に刃先は差し込まれていて、吐き気と眩暈でろくに抵抗もできない。そうでなくとも、腕力で敵う気は初めからしていない。
歪んだ愛の物語、とどこかの誰かが言いました。歪んだとすればいつからで、それは本当に愛なのか。求められているものが、少なくとも欲しがっている名詞や形容がわからないほど馬鹿ではないが、ただの文字列に何をそんなに見出しているのかはよく知れない。ましてや、わざわざ僕の口から欲しい理由なんて。
それに比べれば殺意はわかりやすいし、脅しならなおさらよかった。けれど、ナイフを手にしては瞳をきらめかせ、まっすぐに目が合う彼の表情はたぶんそういうことではない。それに会うたび、初めて見たなあ、と思う。
ぼうっと耳鳴りが強くなって、もう何も考えられなかった。考えられないということは、生きていないということだ。この冷たさには、いまだに、慣れない。