停滞 これが、停滞期というヤツなのだろうか。
太宰治は、恋人になった中原中也宅のソファに座りながら思考する。2人はつい2ヶ月程前、恋人になったばかりだ。太宰は随分前から中也のことが好きだった。と云っても、中也のことが好きだと気付いたのは割と最近で、「好き」と云う気持ちが一周まわって「嫌い」だとずっと思い込んでいた。太宰の友人である織田作之助の死をきっかけに、2人の行く道は別たれた。2人が再会するまでの4年もの期間は、太宰が「中原中也」という人間について考えなおすには充分すぎる時間だった。太宰は過去のことを綺麗サッパリ忘れてしまおうと思ったこともあったが、結局の所それは無理だった。勿論、今は亡き織田のこともあるが、それ以上に中也のことが忘れられなかった。間違いなく、出逢った当初の印象は「嫌い」だったのに。今でも恋人なんて関係になってしまったのはおかしいと思う時すらある。中也は自己犠牲が過ぎるのだ。自ら所属していた羊に裏切られても、中也は恩を仇で返すまいとポートマフィアと取引をして羊の構成員を守った。太宰は中也の言動を観察していて、自分が用意したこの選択肢を選ぶと思ったからそう仕向けたのだが、何とも気に食わなかった。だから、嫌がらせをしてやろうと思った。自分を大切にして、自分の意志で、自分の力を使え。持っている力の大きさなど関係ない。だから、それが出来ない中也は、私の犬なんだ。太宰は嫌がらせをするために中也の情報をわざわざ仕入れて「今週の負け惜しみ中也」を作ったし、爆弾も仕掛けたし、他にもくだらない悪戯をした。中也は話題になることであわよくば上手く周りに馴染めるだろうし、太宰の気持ちも幾分かマシになる。太宰はポートマフィアに所属している間、中也に嫌がらせをし続けた。2人のコミュニケーションは所謂「普通」と異なっていたのだ。
太宰が探偵社員になってある日、己の行動を振り返って気付いてしまった。「私は思ったより中也のことを嫌いではないかもしれない」と。結局の所、嫌がらせは中也のためにしていたようなものではないか。太宰は中也に嫌がらせをしても、それほど爽快感はなかった。「思い知ったか」といつも吐き捨てたくなっていた。どんな壁に阻まれても中也の自己犠牲的な部分は変わらないし、その忌々しい部分でさえ「中原中也」の一部分なのだ。せめて汚濁だけは中也の確固たる意志で使って欲しくて、汚濁を使う方が作戦成功率が高くても、別の案を考えていた。選ぶのは中也自身だ。これは、太宰の意地だった。
仙人のように何が起きようとも揺れない太宰の心が揺れ動くのは、専ら中原中也絡みのことで、太宰がそれに気付いた時、太宰は絶望した。しかも、「好き」だなんて。自分の気持ちを認めるのに、とても時間が掛かった。自分だけこんな気持ちになるのはどうしても嫌で、中也に告白し、じわじわと中也を納得させていった。散々苦労して、やっと「恋人」という関係を手に入れたのだ。
「太宰」
「なぁに?」
「コーヒー、飲まねェのか?」
太宰は「物思いに耽っていたな」と思って居住まいを正した。中也は太宰の隣に座っている。女性との交際経験はたくさんあるものの、よく知っている中也と恋人になるなど今まで考えていなかった。だから、女性であればウケていたであろうデートプランが全く役に立たず、関係を進めようにも進められない状況なのだ。
「飲むよ。少し冷まそうかと思って」
「そうか」
「ねぇ中也」
「なんだ?」
「私と中也だと、デートって何すれば良いんだろうね?」
「そうだな……」
中也も考えこんでいる。中也も、太宰が恋人になるとは万が一にも思っていなかったのだ。ただ「お互いのことが本当はどうしようもなく好きだ」という事実だけが2人の前に横たわっている。
「案外、家でのんびり過ごしても良いんじゃねェか?」
「そんなもんかなぁ」
「ちょっと、くっついてみるとか」
中也が寄ってきたので、太宰も寄り添ってみた。少しぎこちないが、太宰は中也の肩に腕を回した。
「こんな感じ?」
「……思ったより、いいかも」
「中也がいいならいいや」
太宰は半ば投げやりな気持ちになりつつあった。中也のことはよく知っているのに、恋人になっただけでこんなにも関係が進まないなんてもどかしい。自分の気持ちが分かったからには「もっと大切にしたい」と思ってしまったのだ。少なくとも太宰は、今までの恋人にこんなことは思わなかった。
停滞期と呼ぶにはあまりにも早すぎる。しかし、実際に「停滞」しているのだから仕方がない。太宰にとっても中也にとっても、この恋は、今まで経験がないのだから。暫くすると、中也が太宰の肩に頭を軽くもたせかけてきた。どうやら停滞期から脱出するには、手探りで少しずつ進むしかないらしい。太宰は試しに、中也の頭を撫でてみた。
「犬扱いすんな!」
「違うの。これは、愛情表現」
即座に訂正したが、怒られてしまった。日頃の行いの悪さだろうか。
「そう、なのか」
中也は誤解したことを申し訳なく思ったらしく、シュンとしてしまった。
「まぁ、ゆっくり進めばいいさ」
ブラックコーヒーから漂う苦みが、鼻についた。