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    kotobuki_enst

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    同棲したてのスバあん。付き合い始めたことでお互いに何かが変わってしまうことが三度の飯より好きなのですが、そんな小難しいテーマは傍に添えてある程度で浮かれてる二人がいちゃいちゃしてるばっかりの話です。

    ##スバあん

    ふたりの幸せを形作る まん丸い黄身が三つ並んだ目玉焼きに、うずまきを描くようにとろとろとソースをかけているとき。スバルは唐突に、自分のその行いをひどく後悔した。
     あれは数週間ほど前のことだったと思う。スバルとあんずが同じ部屋で暮らし始めて、初めて二人揃って朝食を摂れる朝だった。あんずはキッチンに立って朝食の準備をしており、スバルはダイニングのテーブルに腰掛けて今日のインタビューで聞かれる質問とその回答を確認していた。トースターが焼き上がりを知らせる小さなベルの音。フライパンの上で卵とベーコンがじゅうじゅうと焼ける音。ぱたぱたとキッチンの中を忙しなく動き回るあんずのスリッパの音。そのどれもがスバルを幸福にさせた。

    「スバルくん、目玉焼きとベーコンだけど何かける?」
    「俺ソース!」

     反射的にそう答えた。あんずははあいとやわらかく返事をして冷蔵庫からソースを取り出し、スバルの座るテーブルに焼きたての目玉焼きと共に置いていった。
     スバルは心の底から幸せだった。大好きな女の子が起きた瞬間から同じ場所にいること。いつもみんなのために働くあの子が、自分だけのために食事を作ってくれること。親しさも距離の近さも誰にも咎められず、ふたりきりの空間で過ごせること。心臓から指先まで温かいものでじんわりと満たされて、ずっと夢見心地だった。
     だからずっと気付かなかった。その幸せな空間が、いつもスバルの都合の良いように作られていることに。朝食に並ぶメニューは皆、スバルの好みに合わせて揃えられたものだった。





     かけてしまったものは仕方がない。目玉焼きをトーストと一緒に口に運ぶ。

    「あんずはさ、目玉焼きに何かけるのが好きなの?」

     半熟の目玉焼きに焼き色が着く程度に軽く火を通したベーコン。上にかけるのは中濃ソース。トーストはカリッとするまで焼いて、飲み物は冷たい牛乳。全てスバルの好みで、スバルがあんずと暮らし始めてから今日までずっと食べてきたメニューだ。

    「私は何でも好きだよ」

     知っている。あんずは食べられないものもあるけど好き嫌いは少ないし、大抵のものは美味しそうに食べられる。目玉焼きにソースでも、醤油でも、ケチャップでも、塩胡椒でもきっと。けれどスバルが聞きたかったのはそんな分かりきったことではない。

    「じゃあ今までは何をかけてたの?」

     その問いにあんずは困ったようにひととき熟考した上で、おずおずと口を開く。

    「醤油、かも。でもどの味でも好きだから」

     ではやはりあんずは醤油派か。今までソースで食べてこなかったということは、ずっとスバルの嗜好に付き合わせてしまったということか。
     今まであんずはどう生きていたのか。何が好きなのか。目玉焼きの黄身は硬めに焼いた方が好きだろうか。付け合わせはハムかソーセージか、それとも野菜などの方がいいのか。そもそも朝ごはんはパン派だった? あんずのことを誰よりも知っているつもりで、知らないことがまだ山ほどあった。

    「じゃあ、あんず——」
    「スバルくん、あんまりのんびりしてると時間なくなっちゃうよ。今日早いんでしょ」

     彼女からの忠告に思わず壁の時計に目をやれば、確かにゆっくりと会話を楽しむような時間は残されていなかった。今日は集合が早く、絶対に遅れるなと昨日ユニットメンバーからきつく念押しされていたのに。仕方ない。スバルはあんずへの質問攻めは諦めて、トーストを口に運ぶのに集中することにした。





     目が覚めていちばん初めに視界に入るのが愛おしい女の子であることは何にも変え難い幸福だと思う。スバルはあと数分後に鳴るはずだったスマートフォンのアラームをキャンセルし、隣ですぅすぅと規則正しい寝息を立てる彼女をじっと見つめる。あどけない寝顔を堪能したかったが、残念なことにあんずは直後に睫毛を震わせ、ゆっくりと瞼を開いてしまった。

    「スバルくん……? おはよう、今日は早起きだね」
    「あんずおはよ〜!」

     寝ぼけまなこを瞬かせる様子が愛おしくて、思わずその頭を胸に抱き抱える。あんずは文句を言うようにスバルの腕をぺしぺしと叩いたが、やがて諦めたのかスバルをゆるく抱き返してその背中をゆっくりと撫でた。あんずの存在はいつだってあたたかくやわらかい。今日はせっかく二人揃っての休日なのでこのまま甘やかな朝寝を楽しんでもよかったが、スバルにはそれよりもやりたいことがあった。

    「あんずお腹すいてる? 今日は俺が朝ごはん作るよ」
    「すいてる……。私も手伝うよ」
    「ほんと? じゃあ一緒に作ろ!」

     他のアイドルの前ではあんなにシャキシャキ働くあんずがこんなに無防備にふにゃふにゃになっているのがかわいらしい。まだ意識のあやふやなあんずの両腕を支えてベッドから下ろし、キッチンまでエスコートする。

    「あんず、ごはんとトーストどっちがいい?」
    「トースト……あっでも昨日炊いたごはんがまだ残っちゃってるから……」
    「炊いてから時間経ってるからお昼に炒飯にすればいいよ。トーストにしよっか」

     冷凍庫から食パンを取り出して、丁度トースターの前に立っていたあんずに手渡す。スバルはふと、そういえば食パンにも種類があったことを思い出した。

    「あんず、いつも六枚切り買ってくるよね」
    「うそごめん、スバルくん八枚切りが好きだった? 私いつも六枚切りだったから……。」
    「ううん、俺もいつも六枚切りだった」

     同じがあると嬉しい、と言った先輩の顔が脳裏を過ぎったので頭を降ってそれを打ち消す。とはいえ、あんずと同じになれるのは素直に嬉しいのだ。
     冷蔵庫を物色しながらまず卵を三つ取り出す。スバルが二つぶん、あんずが一つぶんだ。下段の引き出しトレイの中を漁ると、使いかけのウィンナーとベーコン、未開封の薄切りハムが見つかった。

    「ハムとベーコンとウィンナーあるよ。あんずどれがいい?」
    「いつもベーコンだよね……? あ、でもお昼炒飯にするなら残しておいた方がいいか」

     ふうん、あんずは炒飯にベーコンを入れるのか。あんずの作った炒飯はまだ食べたことがなかったので、それは初めて知ったことだった。スバルの家ではいつもハムを短冊切りにして入れていたから。
     あんずは封が空いている方と答えたのでウィンナーを取り出す。それから残りもののポテトサラダを見つけたので、一応匂いを確認してからそれも取り出す。味が落ちているならスバル一人で食べてしまうつもりだった。
     ポテトサラダを冷蔵庫の脇に置いたあたりで、食パンをトースターにセットし終えたあんずがいつの間にか卵とウィンナーを回収し、コンロの前でフライパンを選んでいることに気が付いた。

    「あ! 待ってあんず! 卵は俺がやる!」
    「ええ、私ひまなんだもん……」
    「じゃあサラダ作って!それは俺作るから!」

     あんずの手を取ってぐるりと半回転。二人の位置を入れ替え、コンロの前にはスバルが収まった。

    「あんずは卵の焼き方何が好き? オムレツ? スクランブルエッグ? 目玉焼き?」
    「目玉焼きでいいよ?」
    「そうじゃなくて〜。あんずが食べたいのを知りたいんだよ」
    「目玉焼きじゃダメなの……?」

     ダメではないけれど。フライパンに油を引いて端にウィンナーを並べ卵を割り入れる。あんずは冷蔵庫から袋サラダを取り出し、ポテトサラダと共に皿に盛り付けていた。それもすぐに完成してしまいそうだったので、「飲み物も用意しといてくれる?」と声をかける。

    「はーい。スバルくんは牛乳でいい?」
    「俺もあんずと同じの飲みたい」
    「じゃあカフェオレ淹れようかな」

     あんずは戸棚から電気ケトルを取り出しお湯を沸かし、ついでに戸棚からインスタントコーヒーを取り出す。いつもは普通のコーヒーを飲んでいるけれど、カフェオレも好きなんだろうか。でもホットミルクや紅茶を飲んでいるところも見かける。牛乳ばかり飲んでいるスバルとは対照的に、あんずはキッチンの一部をいろんな茶葉やインスタントドリンクで賑わせていた。
     目玉焼きの上から軽く塩胡椒をふりかけ、無意識にコップに軽く水を注いだところで今日は“こう”ではなかったことを思い出す。

    「焼き加減どれくらいがいい? とろとろ? 半熟? 固め?」
    「……いつも半熟だよね?」
    「あんずは半熟が好きなの?」
    「好きだよ?」

     それならば、とフライパンに少量の水を回し入れ蓋をした。するとあんずは目をまあるく見開きながらこっちを見ていたので、何か間違えたかと不安になってしまう。

    「目玉焼きにお水入れるの?」
    「え、あんずは入れないの? そのまま?」
    「そのまま……。えっ待って、蓋もしたことなかった」

     そこまで言いかけたあんずは急に押し黙った。企画書を書いているときみたいにひとりで何かぶつぶつと呟く。

    「……あんず?」
    「あ、ごめんね。……ちょっと見ててもいい?」
    「全然良いけど……。あともうほっとくだけだよ」

     火を少し弱めてタイマーをセットする。後は焼き上がりを待つだけだ。けれどあんずは蓋が曇ってほとんど見えないはずのフライパンの中身をしげしげと眺めていた。焼き上がったトーストや箸を机の上に並べ、空いた時間であんずを眺めることにした。あんずが他の作業に夢中になってスバルを意識の外に放ってしまうのも高校生の頃からずっとだからもう慣れてしまった。恋人という立場を手に入れてようやく、集中するあんずの横顔を楽しむ余裕が生まれた。
     あんずの意識を引き戻したのはスバルがセットしたキッチンタイマーの音だった。あんずの顔に蒸気がかからないよう留意しつつ蓋を外してお皿に盛る。いつもより白みがかった目玉焼きを、あんずはしげしげと眺めていた。あんずに手渡し、机に持っていくよう頼んだ上で、スバルは一人冷蔵庫の前に立った。

    「あんず何かけたい? 醤油がいい?」

     今日の1番の目的はこれだった。今日からはソースは封印するのだ。

    「…………ソースじゃないの?」
    「ソースじゃなくて、あんずがかけたいものだよ」

     今日までずっと、あんずはスバルの好きなものを揃えてくれた。スバルがこれまでの生活で当たり前だったことをそのままなぞってくれた。あんずがスバルの家族になったようで嬉しかった。でも、そうではないのだ。あんずはスバルと二人きりの、新しい家族になったのだから。スバルの生活は、これから二人で作っていかなければならないのだから。

    「でもスバルくん、さっき塩胡椒かけてなかった?」
    「——あ」

     かけてしまった。無意識に、いつものように。醤油に塩胡椒は合わないだろうか。

    「ごめん、これは俺が食べるから、あんずのは作り直すよ」
    「なんで? 二人で食べようよ」

     あんずは冷蔵庫からソースを取り出して、もう片手でスバルの手を引いてテーブルへ誘う。

    「私、スバルくんの作る目玉焼き初めて食べるよ。楽しみ」

     二人の定位置、キッチン側の椅子にスバルを座らせ、あんずも向かいに座りながらソースの蓋を開けた。とろとろ、波を描くようにして目玉焼きにソースがかけられる。いただきます、と先に口にしたのはあんずで、スバルも真似るようにしてのろのろと箸に手を伸ばした。

    「スバルくん」

     あんずは箸の先で、目玉焼きの黄身を割り開いた。とろりとした黄身が流れ出し、ソースと絡み合う。スバル好みの半熟はスバルが幼い頃に母に作り方を教わって以来、ずっと明星家の朝食に並んでいたメニューだ。

    「もしかして私の目玉焼き、美味しくなかった?」
    「そんなことないよ!」
    「だよね、よかった」

     スバルくん。口の中のものをこくんと飲み込んでから、あんずは口を開く。

    「私ね、目玉焼き作れるようになったの、つい最近なんだ」

     そうなの? 口から零れたはずの言葉は声になっていただろうか。だってあんずの家も両親が忙しくて、弟の分とまとめてあんずが朝食を作ることが多いと聞いていたから。

    「私の家、卵を焼く時はいつもオムレツだったから。でもスバルくんは目玉焼きが好きって聞いてたから、一緒に住む前にちょっと練習したの」
    「言ってくれれば良かったのに。俺オムレツも好きだよ」
    「私がスバルくんの好きなものを作りたかったんだよ」

     あんずは笑う。やわらかく目を細めて。親友が女神と称したくなる気持ちもわかるくらい、あんずの笑顔は優しくて温かかった。いつもスバルのことを包み込んでくれ、甘やかしてもくれる笑顔。

    「俺、あんずに何か我慢させたり、これまで大切にしてきたものを変えさせたりしたくないよ」
    「わかってるよ。私は何にも我慢してないし、私がやりたくてやってるんだよ」

     あんずの『やりたいことをやっている』はあまり信用ならないとスバルは知っている。私がそうしたいから、などと言いながら過労で倒れるような女の子だ。スバルのために自分を変えることを、彼女は我慢とは思わないだろう。

    「……あんずは、何が好きなの?」
    「……スバルくん?」
    「ありがと! でもそういうことじゃなくて!」

     ぷくりと頬を膨らませたスバルを見てあんずはくすくすと笑う。

    「確かに目玉焼きよりオムレツの方が好きだけど……。でもね、私がスバルくんに全部合わせたいとかそう思ってるわけしゃなくて」
     
     えっと、なんていうのかな。もじもじと口ごもるあんずの次の言葉をじっと待つ。スバルはこういうときあまり堪え性のない質だったが、じっと待っていればあんずが何か素敵なことを言ってくれることをよく知っていた。

    「スーパーで卵買ってるときとか、朝冷蔵庫を開けたときとかにね。スバルくんは目玉焼きが好きだろうな〜って考えるのがちょっと楽しいの。卵だけじゃなくてね。牛乳はいつもこれを飲んでるよな〜とか、毎朝ソース使うからソースの減りが早いな〜とか、そういうこと、考えるとね」

     今ほんとにスバルくんと一緒に住んでるんだなぁって思って、なんというか。嬉しく、なっちゃって。
     あんずの声はどんどん尻窄まりになっていったけれど、スバルの耳は最後の一音までその小さな音を拾い上げる。小さな宝石みたいなあんずの細い声を聞き分けるのは得意なのだ。スバルの瞳がそれに反射するようにきらきらと輝く。

    「あんず〜!!」
    「あっこら、お食事中に立ち上がったらダメだよ」

     あんずに抱きついてしまいたかったが、それが叶わなかったのはスバルとあんずの間に広いテーブルと二人で作った大切な朝食があったからだ。明日からは隣で食べたいなあ、などと考えながら仕方なく着席する。

    「でも俺やっぱりあんずのオムレツも食べてみたいなあ」
    「じゃあこれからはオムレツも時々作るよ。……弟はチーズを入れたのが好きだったの。スバルくんはどういうのが好きかな」
    「俺はね〜、玉ねぎとひき肉が入ってるの」
    「じゃあ明日はそれにしよう。後でひき肉買いに行かなきゃ」
    「……俺も行きたい」

     あんずは少し悩む素振りをしてから「今日だけ特別だよ」と答えた。いつもは二人で人のいるところに出かけることを渋るから、珍しいこともあると思った。デート先がスーパーマーケットなんて少し味気ない気もするけど、二人で過ごせるのならどこだって楽しいのだ。
     もしかしたら、あんずもまだ少し浮かれているのかもしれなかった。あんずも本当はスバルと二人でやりたいことがたくさんある。

    「いいの?」
    「いいよ」

     そのかわり。あんずは笑う。いつもスバルを包み込んでくれる笑顔。あなたのことがだぁい好きだと伝えるための笑顔。

    「そのかわりスバルくんの好きなもの、もっとたくさん教えてね」
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    kotobuki_enst

    DONE人魚茨あんのBSS。映像だったらPG12くらいになってそうな程度の痛い描写があります。
    全然筆が進まなくてヒィヒィ言いながらどうにか捏ね回しました。耐えられなくなったら下げます。スランプかなと思ったけれどカニはスラスラ書けたから困難に対して成す術なく敗北する茨が解釈違いだっただけかもしれない。この茨は人生で物事が上手くいかなかったの初めてなのかもしれないね。
    不可逆 凪いだその様を好んでいた。口数は少なく、その顔が表情を形作ることは滅多にない。ただ静かに自分の後ろを追い、命じたことは従順にこなし、時たまに綻ぶ海底と同じ温度の瞳を愛しく思っていた。名実ともに自分のものであるはずだった。命尽きるまでこの女が傍らにいるのだと、信じて疑わなかった。





     机の上にぽつねんと置かれた、藻のこんもりと盛られた木製のボウルを見て思わず舌打ちが漏れる。
     研究に必要な草や藻の類を収集してくるのは彼女の役目だ。今日も朝早くに数種類を採取してくるように指示を出していたが、指示された作業だけをこなせば自分の仕事は終わりだろうとでも言いたげな態度はいただけない。それが終われば雑務やら何やら頼みたいことも教え込みたいことも尽きないのだから、自分の所へ戻って次は何をするべきかと伺って然るべきだろう。
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    kotobuki_enst

    DONE膝枕する英あん。眠れないとき、眠る気になれないときに眠りにつくのが少しだけ楽しく思えるようなおまじないの話です。まあ英智はそう簡単に眠ったりはしないんですが。ちょっとセンチメンタルなので合いそうな方だけどうぞ。


    「あんずの膝は俺の膝なんだけど」
    「凛月くんだけの膝ではないようだよ」
    「あんずの膝の一番の上客は俺だよ」
    「凛月くんのためを想って起きてあげたんだけどなあ」
    眠れないときのおまじない ほんの一瞬、持ってきた鞄から企画書を取り出そうと背を向けていた。振り返った時にはつい先ほどまでそこに立っていた人の姿はなく、けたたましい警告音が鳴り響いていた。

    「天祥院先輩」

     先輩は消えてなどはいなかった。専用の大きなデスクの向こう側で片膝をついてしゃがみ込んでいた。左手はシャツの胸元をきつく握りしめている。おそらくは発作だ。先輩のこの姿を目にするのは初めてではないけれど、長らく見ていなかった光景だった。
     鞄を放って慌てて駆け寄り目線を合わせる。呼吸が荒い。腕に巻いたスマートウォッチのような体調管理機に表示された数値がぐんぐんと下がっている。右手は床についた私の腕を握り締め、ギリギリと容赦のない力が込められた。
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